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経済学部生と読む『資本論』【第一巻 第一篇 第一章 「商品」】

カール・マルクスの大著『資本論』を通して読み解いていく企画。

使用しているのは岩波文庫版(向坂逸郎訳)の『資本論』。あくまでここでの見解、解釈は私個人のものであり、必ずしも一般的なものとは限らないため、その点につきましてはあらかじめご了承いただきたい。

 

第一巻 第一篇 第一章 「商品」

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『資本論』の「商品」の説明からはじまる。

資本主義的生産様式の支配的社会の富は、「巨大なる商品集積」として現れ、個々の商品はこの富の成素形態として現れる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。(p.67)

長い長い『資本論』を読んでいく前に、本書を読む目的を掴んでおく。『資本論』のゴールは、私たちの生きる社会について理解することである。

なぜブラック企業は存在するのか、なぜ原子力発電所は必要なのか、なぜカントリーマアムは小さくなっていくのか。

私たちが人生を送る社会を知ることができることこそが、『資本論』を読む最大の利点である。

 

社会を知るために、なぜ商品の分析から始めねばならないのか。

マルクスは社会が経済構造によって規定されると考えた。つまり経済構造を掴むことができれば、社会がどのようにできているか知ることができる。経済とは富の動きのである。資本主義において個々の富は、「商品」の形をして現れる。

したがって「商品」について知ることは経済を理解する第一歩であり、ひいては社会を理解することにつながっていく。

 

第一節 商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)

使用価値

商品は「使用価値」と「価値」という二つの要素から成っている。

まずは使用価値から。

商品はまず第一に外的対象である。すなわち、その属性によって人間のなんらかの種類の欲望を充足させる一つの物である。(p.67)

使用価値とは商品を使うことによって得られる価値で、椅子なら座って休めること、米なら腹を満たせること、カメラなら写真が撮れることが使用価値にあたる。属性とは物に備わる客観的な事実のことで、椅子で言えば素材・硬さ・高さ・背もたれの角度など観測しうる要素を指す。

この属性が「使用価値」の源泉となる。属性即使用価値とならないのは、使用価値が事後的なもの、すなわち使用または消費によって実現するためである。

近代経済学を学んでからマルクス経済学に触れた人は「使用価値は効用のことではないか」と考えるだろう。たしかに似てはいるが、厳密には違っている。効用は財やサービスを消費した時に得られる利得=消費者目線の主観的な価値であるのに対し、使用価値は商品に内在している客観的な価値である。したがって、同じ商品から得られる効用は人によって異なるが、使用価値は誰が使っても変わるものではない。

 

交換価値

交換価値は単に価値とも呼ばれるが、ややこしいため本ブログ内では交換価値で統一する。まずは入り口から。

交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として、すなわち、時と所とにしたがって、たえず変化する関係として、現れる。(p.70)

商品Aと商品Bの交換比率が交換価値である。米10kgとTシャツ1枚の交換が成立する場合、それは米10kgの交換価値はTシャツ1枚分であると言える。そしてこの比率は常に一定な訳ではなく、来年にはTシャツ一枚に対し米20kgが必要になっている可能性がある。

 

では交換比率はどのように決まるのだろうか。ここで登場するのが労働価値説であるが、この部分を理解するためには「労働の二重性」を理解する必要がある。

 

第二節 商品に表された労働の二重性

商品ごとに行う労働というのは、商品ごとに異なる。靴職人とパティシエではそれぞれ作るものが異なっているのだから、当然実際に行う労働の中身というものも異なってくる。商品ごとの属性に応じた労働のことを具体的有用労働と呼ぶ。

ではなぜ、異なる労働によって作られた商品同士を量的に同じもの、つまり靴1足5,000円とケーキ1つ500円のように比較・交換することができるのか。

マルクスは商品をつくるための労働の中に、何か共通している部分があるのではないかと考えた。

それは汗水たらし、努力し、集中力と神経を注ぎ込むという仕事内容によらないきわめて人間的な労働であり、これを抽象的人間労働と呼んでいる。

 

すなわち労働は「具体的有用労働」と「抽象的人間労働」が重なりあう形でできており、これを労働の二重性と言う。

具体的有用労働の質的な違いが、社会的分業として現れ発展していく。

 

いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。…われわれがその使用価値から抽象するならば、われわれは労働生産物を使用価値たらしめる物体的な組成部分や形態からも抽象することとなる。労働生産物の有用なる性質とともに、その中に表わされている労働の有用なる性質は消失する。…それらはもはや相互に区別されることなく、ことごとく同じ人間労働、抽象的に人間的な労働に整約される。(p.72)

したがってまた労働の有用な性格を見ないとすれば、労働に残るものは、それが人間労働力の支出ということになる。(p.82)

 

 

第三節 価値形態または交換価値

この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれているという価値表現が、どうしてもっとも単純なもっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる。(p.90)

この節では交換価値を分析することで物々交換からスタートし、いかにして貨幣という特別な商品が生じたかを4ステップで解明する。

 

ステップ1:単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

価値対象性は純粋に社会的関係においてのみ現れうるものであるということも明らかになる。(p.89)

交換価値というものは、ある商品単体で表すことができない。例えばあるテーブルの重さを表す際には重さという尺度を持ち出すことではじめて表せるように、交換価値というものも他の商品と比較される(社会的関係)ことで明らかになる。

 

まずは物々交換で想定されるような、2商品間での関連を考える。例えばテレビの交換価値を椅子の数で示そうとしたとき、以下のように書くことができる。

テレビ1台 = 椅子10脚

この式は天秤のような関係になっており、交換量(もっと言えば商品をつくるために込められている人間労働量)を計りたいものが左辺にあり、右辺の椅子は天秤における分銅のような役割を担っている。このときの計られる対象である左辺を相対的価値形態といい、一方の分銅の役割を担っている右辺を等価形態と呼ぶ。

ここで等価形態の商品は常に相対的価値形態の商品と交換しうるが、相対的価値形態の商品が必ずしも等価形態の商品と交換できるとは限らない。

これは100円でチョコが買えても、チョコを100円に換えられないのと同じである。

 

またこの価値形態が単純な、個別的なまたは偶然的なと名付けられているのは、あくまでこの価値形態が2つの商品を持つ所有者間における合意によって決まった交換比率に過ぎないためである。

したがって一般的な商品として論ずるためには、この価値形態を拡大する必要がある。

 

ステップ2:総体的または拡大せる価値形態

ステップ1の価値形態を拡大していくと、下記のように表現される。

これはテレビ1台という相対的価値形態が、他の椅子やコートといった等価形態によって交換比率を示されている状態である。こうすることで交換が偶然によって成り立つものではなく、社会的関係によるものであることが明らかになる。

ただしこのときテレビ1台は椅子10脚に相当する労働量が含まれていることを示しているに過ぎず、常にテレビ1台に対して椅子10脚を交換できるとは限らない。一方で椅子10脚は等価形態であるからテレビ1台と交換することができる(コート2着と交換できるかは明らかでない)。

 

ステップ3:一般的価値形態

ステップ2の価値形態においては、商品があらゆる他の商品を尺度(等価形態)としてその量を示されていた。これに対し、以下のような式を考える。

先ほどの式とは反対に椅子やコートが相対的価値形態となり、テレビがそのすべての等価形態として現れている。このときテレビは抽象的人間労働の量の尺度としての地位を手に入れ、一般的等価となる
したがってテレビは社会のすべての商品と交換できるようになっている。

 

ステップ4:貨幣形態

この特殊なる商品種は、等価形態がその自然形態と合生するに至って、貨幣商品となり、または貨幣として機能する。(p.127)

一般的等価のうち、歴史的・社会的に認められたものが貨幣となる。そしてその役割を担ったのは多くの社会において金であった。

このようにして物々交換から貨幣が生まれるまでの過程をマルクスは論理的に示した。

 

第四節 商品の物神的性格とその秘密

一つの商品は、見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見える。これを分析してみると、商品はきわめて気むずかしい物であって、形而上学的小理屈と神学的偏屈にみちたものであることがわかる。(p.129)

 

(続く)