オススメ度:★★★★★★
神谷美恵子コレクション

どうすれば善く生きられるか。
これは私が生涯を通して探し求めている問いである。もちろん一言でこの問に対する答えを言い表せる答えがあるとは思ってはいない。もしかしたら答えそのものが存在しないかも知れない。たとえ答えがないかもしれなくとも、考え続けるのを止めるわけにはいかない。なぜなら考えることを止めることは、善く生きることを諦めることだからだ。
20代後半における今の私に生きる道を導いてくれたのが神谷美恵子だった。
神谷はわたしの知る中で、もっとも超人的な人物である。弱きもののことを思い心を痛め、ひどい逆境を耐え忍び、自分の哲学を貫き通した。知れば知るほど、このように生きたいと思わせられる。
神谷は恵まれた家に生まれながら若い頃に見たハンセン病療養所の光景が忘れられず、アメリカの大学にて文学部から医学部に転籍した。精神科医になったあとも時代の荒波に争い続け、強く生き続けた。日記を読むと、並大抵ではない苦労を経てきたことがわかる。
神谷の主著を2000年代になって改めてまとめたのがみすゞ書房の「神谷美恵子コレクション(全5冊)」である。ここでは1冊目の『生きがいについて』を除く4冊についてを記事にしている。
当初はエッセンスをまとめた形で記事にしようと思ったけれど、なかなか体系的な統合ができなかったため、結局わたしが印象に残った文章の引用についてコメントをつける形とした。わたしの頭の中ではすべてが有機的につながりをもっているのだけれど、力不足によりこれを文章にできなかったのがとても歯がゆい。
人間をみつめて
「生きがい」について客観的な分析をおこなった『生きがいについて』に対し、本書の前半では人間という存在、本質や人生について神谷美恵子がどのように考えていたかが語られている。人間とほかの動物を隔てているものはなにか、神(上位者)をどのように感じるかなど普遍的なテーマについて触れられている。
後半では神谷のハンセン病療養所時代の日記を通して、神谷の人柄や思想をうかがい知ることができる。特にハンセン病患者を前にした神谷の詠んだ詩は魂を震えさせる迫力がある。
まずは前半の神谷の形而上的な思想より。
人間は、どれほど具体的に役立つかによって価値がきまるものではない。何よりもその存在のしかた、その中でもとくに情緒面のありかたが、人格の存在意義を決定するたいせつな要素の一つであると信ずる。(p.29)
プラグマティズム的な思想が蔓延り、社会の役に立たないお年寄りや障碍者、あらゆる弱者が虐げられている。しかし具体的な能力は代替可能である一方で、情緒面でのありかたはだれにもとって代わることはできない。
シンボリズムによる思考だけが人間の行動を単なる反射的なものから救いあげ、自動的な惰性を克服させる。これだけが人間独自の精神の世界―言語、宗教、芸術、歴史、学問などをつくらせる。またこの能力により、人間は現実をみる場合にも、その観点をさまざまに変えることができ、その中から自分のものをえらびとったり、全体を統合したりすることができる。(p.34)
自分でえらび、自分で決定するには責任が伴う。不安や、場合によっては苦痛や不幸に耐えなくてはならいないこともある。ともかく、勇気の要ることだ。
(中略)
人生にはただ慣習に従っておけばよい面と、どうしてもこれだけはゆずれない、ゆずってはならない、という本質的な面とがある。(中略)本質的自己の割合の多い人ほど慣習にとらわれず、他人の眼を気にせず、いきいきしている、と彼(オルテガ)はいう。サン=テグジュペリも『手帖』の中に「自由とは統計に反して行動しうる力である」と記している(p.25)
何かを決める、決断を下すということは、仕事においてもプライベートにおいてもその人の本性を問われる重要な課題だろう。自己に対する決定権がないのであれば、それは自分自身の人生を生きているとは言えない。
それにも関わらず「何かを決める」ことに対する多くの人の関心があまりに低いように思われる。社会規範や前例に依存し、いかにそれらに近い"正解"を選べるかに身骨を砕く。そんなものが人生ならば、個人の心も魂も自由意志も不要ではないだろうか。
引用の後半に書かれているサン=テグジュペリの言葉はまさに常々考えていたことと合致していて驚いた。わたしは構造主義者なので、人間の思考や行動は背後にある構造を元にした統計に従うと考えている。サイコロの目の合計が正規分布に従うように、この構造からは人間全般は逃れられない。
しかしわたし自身、個人だけは、この構造から逸脱できる。主義主張や趣向やイデオロギーを自分自身で選び取ることができる。自由意志を保持していることに気が付けたものだけが、統計を捨象し、好きな運命を選び取れる。気が付かない物は一生選ばされた道を歩み続ける。選ばされていると気が付かないままに。これがオルテガの言う大衆である。
神谷の言う通り、決断は苦しい。
他人の人生を生きているあいだは、身の回りにおこるネガティブな出来事も天災のように外的要因だと錯覚され「仕方がないもの」として処理される。どんな惨めな人生を送ろうとも、ただ運が悪かった、環境が悪かったと愚痴を言い、慰めの言葉を探し求め続ける。なんて楽で価値のない人生だろう。
一方で一度自分の自由意志をもって決断をしてしまうならば、そこに愚痴の挟まる余地はない。そこから起きるすべての事象は自分の責任によるものであり、何が起きても引き受けなければならない。うまくいこうと、失敗しようとすべては己に回帰する。しかしこの苦しさの中からしさ、自分の人生を生きている感覚は得られない。
考える力を養うにはどうしたらいいか。第一には現実への密着から時々脱出を試みることだと思う。(中略)第二には黙想と自己との対話を欠かさないこと。読書や講演をきくのもいいが、その際、たえず疑問を起し、たえずまず自分にむかって問いを発していないと、何を読んでも何を聞いても、脳の中のあちらこちらの神経細胞の間に、激しくインパルス(刺激)がとびかうことがないから、脳内に痕跡をのこさず、するするとあたまを素通りしてしまうおそれがある。(p.36)
なにごとも楽に習得することはできない。つらい筋トレを経ねば筋肉が得られないように、知恵も脳に負荷をかけしわを刻みこまない限り自分のものにはならない。楽に得られた知恵は脳の浅いところを漂ったあと、忘れたことも気が付かぬ間に音もなく消えてゆく。
ショーペンハウアーが『読書について』で読書は考えることを放棄した人の怠慢だと述べていたが、同じことを言っているのだろう。
人の心には、たとえさざなみ一つ立たないようにみえる場合でも、その奥底には、たくさんの矛盾した欲望や感情や衝動が秘められているのではないか(p.84)
藤田和日郎『黒博物館 ゴーストアンドレディ』の中で、主人公であるナイチンゲールが時代の圧倒的理不尽な前に平静な顔をしている一方、心の中に飼っている「化け物」が張り裂けそうな苦悩に肥大化している描写がある。こうした心の奥底に押し込まれた感情は精神的に高次にある人ほど大きくなるのだろう。
神谷自身も自分の中の衝動を「鬼」と読んでいた。
他人が自分をけなしても、それで自分の価値が下がるわけでもなく、ほめても自分の価値があがるわけでもない。そもそも自分の価値のあるなしすら、わからないのが人間ではなかろうか、ただ自分は自分でしかないのだ。(p.101)
他人の眼に完全なものとして映ろうと苦労したり、自分の眼に自分が理想的であろうとしたりすることが、ノイローゼのもとになることがおおい。(p.101)
他者の評価を自分の幸せのものさしにしてはならない。買い手があろうとなかろうと宝石の煌めきが変わらないように、ひとの本質も他者が決めるものではない。
ひとが何か岐路に立ち、何らかの「主体的選択」をせまられるとき、「小我」によってえらぶことをなるべく避けて、「大我」的な見地からえらぶことを探り求めるべきだと思う。(p.103-104)
ひとの歩みは、ひとり気負って歩んでいるつもりでも、じつは決して独力で歩いているわけではないのだ。(p.104)
ここでの「大我」とは、人間を超えた存在(神、上位者、自然、世界精神)の総称のことで、特定の宗教や思想を指しているわけではない。神谷は幼いころからキリスト教に触れる機会が多かったが、自身は特定の宗教に傾倒することはなく、より抽象的な次元で人間の本質を求め続けた。そのうえで、無神論には陥ることもなく人間を超えた存在を肯定している。
なぜ、人間を超える存在が必要か。それは人間が自身の小さな心ですべてを抱え切ることができないためである。
少し前のパートで「決断には責任が伴う」という話があった。これはこれで真であるけれど、その責任や自身の役割を常に個人の精神力だけで耐えられるわけではない。
仕事のプレッシャーが大きくなったとき、押しつぶされそうになった経験が多くの人にあるのではないだろうか。そのようなとき、だれか、たとえば上司や家族の包むような優しさや安心感が救ってくれたこともきっとあるだろう。しかし都合よく上司や家族がいなかったら?もしくは社長や大統領、法皇のように構造的に自分よりを上位者がいないとしたら、その人はどのように心を保つことができるのだろう。
なぜ私たちでなくてあなたが?
あなたは代わって下さったのだ(p.139)
日記の節々に深い愛を感じる。患者一人ひとりに対し、私に何ができるだろうと心底悩み抜いている。
こころの旅
ひとが生まれてから死ぬまでのあいだ、どのような精神的成長や過程をめぐっていくのか。各段階で立ちはだかる課題と反応について心理学見地から語られている。
二ヵ月ごろの子を抱いて戸外を歩くと木、花、家、犬、なんでもじつに珍しそうに一心に眺め、よろこびの叫び声をあげる。脅威にみちた世界探索なのであろう。(p.28-29)
我々が富士の山頂やグランドキャニオンなどの絶景を見た時のなんとも言い表せない感動と衝撃を、視野を手に入れたばかりの赤子はとりまくすべての光景で感じているのではないだろうか。そうだとすれば、赤子を連れて歩く散歩がどれだけドラマチックでプライスレスなことだろう。
性とはまことにふしぎなものである。私たちはあまり簡単に「男だから」「女だから」といってはならないだろう。こころとからだが一致してこそ、ある人がどの性に属するのかいえるのだろう。(p.58)
50年以上も前(1974年)に出版されたとは思えない革新的な意見。
育てる意識があるかどうかを自らに問うてから初めて産む、そのために巣を用意する、という時代にもうさしかかっている。そして「産まないこと」が美徳とされるようになったころ、人類は衰退して行く時期にさしかかっているのかもしれない。(p.80)
まさにそのまま現代ではないか。
私を含め多くの人が育てる意識(そこには精神的なものから物質的な事情まで)について思案し、決断することがあたり前になっている。検討すること自体に違和感を抱かない程度には一般的な考え方として広がっているし、さらに先鋭化された考えとして反出生主義も市民権を得始めている。
これらの考え方が理性的であれ、合理的であれ子孫を残さないのであれば確実に種として衰退する。もちろん、数を失えば社会や文明も衰退することは自明である。
結婚においてはエリクソンのいう自己放棄がいっそう多く必要とされる。(中略)これをあえてひきうけるには「放棄しうる自己」がそれまでに育っていなければならない。(p.117)
アイデンティティが確立されていなければ、結婚を含む真に親密な関係を持つことはできない。結婚のような自己放棄を伴う状況においては、「放棄すべき自己」が十分に育っている必要がある
遍歴
生きるとは、ただ呼吸や行動をすることではない。われわれのあらゆる器官、感覚、能力、われわれ自身のあらゆる部分を使うこと―これがわれわれに生きるという感情を与えてくれるのだ。最も長生きした人間が最も多く生きたわけではない。生を最も多く感じたものこそ最も多く生きたのだ。(p.29-30)
ルソーの『エミール』から引用された文章。
生きるということを長さではなく、濃さで測る点に強く共感した。
つねに愛と正義を求めて生きよ(p.87)
神谷の敬愛する三谷隆正が神谷への手紙に残した文章。キリスト教者としての哲学が強く現れている。
私の敬愛する神谷が心酔した人物とは、どんな人物なのだろうか。
感激で始められた仕事も感激一つでもって行きはしない。根気と忍耐と。ただこれあるのみ。そうして理想に対しても、常に感激しつづけることはできない。感激の去った時には、やはり根気をもって理想を信じつづけるほかないのだ。(p.216)
まさに、常々感じている。
仕事のプロジェクトも始まった時にはあんなに希望に満ち溢れワクワクしているのに、「現実」が蓄積してくると光は弱まり、モチベーションも低下してくる。
もちろん、当初の理念や理想が破綻したわけではないけれど、やり通すために必要な負荷が大きすぎて立ち止まってしまいたくなる。
よく「どうしたらやる気が出るか」という話は出るけれど、これに対する特効薬などないのだろう。神谷の言う通り、根気で乗り切るしかない。つまり根気こそが仕事の上での底力の正体なのだ。
本、そして人
神谷美恵子コレクションの最後のこの本では、神谷の書評や読書記録など本にまつわる
「本をめぐることば」には神谷の日記や書簡にあった、読んだ本にまつわる言葉が並んでいる。なかには日付と当時の年齢が併記してあるものがあり、いまの自分と近いものもちらほら。同じ年の神谷の感受性や意志の強さに、もっと自分もかくあらねばと思わせられる。また素直なことばで気持ちを表現したいと思った。
人間は何かのしごとに打ち込んで、自分のすべてをそれに献げることによって、自分の生命をそれと交換するのだ(p.281-282)
サン=テグジュペリ『城砦』より、神谷のお気に入りとして取り出された文章。自分の人生は何と交換してきただろうと、読んでいてハッとさせられる。
むかし『星の王子さま』を読んだときにはどうも文体が肌に合わず、読み終えることなく途中で断念してしまった。そのときの印象からサン=テグジュペリは自分には合わない作家だと思い込んできたけれど、前述の『手帖』の記述のように、神谷を通して知るサン=テグジュペリの思想は自分に似ついているところがあるなと感じている。せっかくなので、そのうちいくつか手頃なものにまた挑戦してみたい。