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【本の紹介】フランシス・ウィーン『名著誕生マルクスの『資本論』』【要約】

オススメ度:★★★★★

すべては疑いうる(de omnibus dubitandum)    (p.138)

フランシス・ウィーン『名著誕生マルクスの『資本論』』

 

要約

第1章 萌芽

1818年5月5日、プロイセンにあるカトリック街のユダヤ人の一家にマルクスが生まれる。

 

マルクスは哲学や文学のジャンルから出発した。

幼少期から古典をよく読み、それを引用する癖がついていた。

大学卒業後は、ジャーナリストとして社会批判的な記事を書いた。

 

26歳のころ、3歳年下のエンゲルスと親しくなる。

エンゲルスは綿紡績業者の後継でありながら、労働者の観察をする一面も持っていた。

エンゲルスはマルクスの金銭面だけでなく、健康や仕事の進捗にも気を配った。

 

1848年『共産党宣言』を出版。偶然にも出版した週にパリで革命が勃発、これが欧州中に飛び火した。

当時マルクスは欧州中から出禁に遭いベルギーにいたが、革命に驚いたベルギー政府はマルクスの追放を決定。マルクスはベルギー→パリ→ケルン→パリ→イギリスと各地を点々とし、その後は死ぬまでイギリスに留まった。

イギリスでもエンゲルスからの支援を受けてはいたものの、その生活は貧困そのものだった。

 

マルクスは大英博物館の閲覧室に籠り、ときに全くの嘘の進捗報告(実際は大遅延)をエンゲルスや出版社に送りながら、経済学に関する執筆を続けた。

 

そして1867年、大著『資本論』の第一巻の原稿を完成させた。

 

第2章 誕生

資本論は当初六巻構成の予定であったが、未完に終わった。この不完全性から『資本論』が聖典になり得ないことを示している。

 

経済理論家のマイケル・レボウィッツは以下のように指摘している。

マルクスが新しい大陸を素晴らしい方法で発見したのはたしかだが、だからといって、マルクスが描いた大陸の地図が正しいとは限らない(p.56)

 

ここから本書は、使用価値と交換価値、フェティシズムと、商品に関する基本的な事項を押さえながら、一歩引いた視点でマルクスの理論の解説に入る。

[労働価値説について] マルクスの選んだ例は奇妙なもので、マルクスの理論の限界をあらわにする。(p.63)

[窮乏化法則] こうしてあらゆる反対論を退けた後、マルクスは『資本論』のうちでもっとも悪名高い主張に進む。(p.79)

 

窮乏化法則はまさに『資本論』のアキレス腱であり、現代の"経済学のスタンダード"となった教科書の著者であるポール・サミュエルソンがこの点を挙げ「マルクスの傑作は全く無視して良い」と主張したことで、これが定説となってしまった。

サミュエルソンは「マルクスによれば、窮乏化法則により、労働者は絶対的に窮乏化し資本主義は自壊する。しかし資本主義は続いている。つまり『資本論』は全くの誤りで、読むに値しない。」と言うのだ。

 

しかしサミュエルソン的な[窮乏化法則]の理解は誤読によるものである。実際には窮乏化は絶対的にではなく、相対的に進んでいく

 

生産能力の向上は労働者に余暇を与えるのではなく、逆に相対的剰余価値の搾取を増やす。

しかし次第に生産能力の向上は、それを受け止める市場の限界によって、上限を迎える。この限界は不況となって現れる。

資本主義である限り、好況と不況のサイクルからは逃れられない。

 

逆に言えば、資本主義は好況と不況のサイクルによって、半永続的に維持されるシステムだと言える。

『資本論』の一部の文言や『共産党宣言』の内容から、マルクスが資本主義終焉の予言者のように語られるが、実際にはその時間も方法も具体的には語ってはいない。

 

『資本論』の主要部と誤解の解説ののち、文学作品としての『資本論』を再発見してこの章を閉じられる。

ウィルソンは、マルクスの『資本論』は古典経済学のパロディだと考える。(p.105)

哲学や文学に明るいマルクスによって書かれた『資本論』は、数多の古典からの引用とインスピレーションに溢れており、マルクスが引用した文学書をテーマにした本まで存在するほどである。

 

第3章 死後の生

『資本論』は出版直後には、その難解さゆえすぐに広く読まれたわけではない。

 

『資本論』が最も実際の世界史の動きに影響を与えたのは、生まれ育ったドイツでも、移住したイギリスでもなく、ロシアであった。

そして運動はロシア革命、マルクス・レーニン主義の誕生への続いていく。

 

一方の非共産圏のマルクス主義者の間でも、再解釈が進められる。

アントニオ・グラシムは資本主義のヘゲモニーのありかをブルジョワによる文化の押し付けに見出し、上部構造を重視する流れが生まれる。

この流れは「カルチャル・スタディーズ」へと受け継がれ、研究対象は経済から(サブ)カルチャーへと移り変わっていく。

 

理論家たちは、テレビのコマーシャルやお菓子の包み紙脱構築することは熱心だが、『資本論』のテクストそのものの分析に向かうことは避けているようだ。おそらく学問上の〈父親殺し〉をするよくになるのが怖いからだろう。(p.146)

 

そして本書は、今日の有力なエコノミストや投資家たちがマルクスの影響を知ってか知らでか受けており、『資本論』が資本主義が終わるその日まで有効であることを示唆して終わる。

 

感想

この本は佐藤優『いま生きる「資本論」』の中で紹介があった本で、『資本論』の入門書として佐藤氏が絶賛している。

 

『資本論』の解説だけでなく、マルクスの半生と『資本論』出版後の世界各国の反応までもが満遍なく紹介されており、『資本論』を読み進めるうえで大変助けになる内容となっている。

私もこのブログのなかで『資本論』の解説を書いているが、正直自分が書いている解説はこの本があればいらないのではないかと感じるほど、本書は内容が充実しておりかつ大変読み物としても面白いものになっていた。

 

『資本論』の解説書の多くはマルクス主義の経済学者によって書かれることが多く、その内容はマルクスへの傾倒を感じさせられるものが少なくない。

一方この本は『資本論』の内容を神聖化せず一歩引いた目線でとらえており、反資本主義的なイデオロギーに飲み込まれることなく資本主義の内在的論理に触れることができる。

 

共産主義的イデオロギーを捨象し、資本主義を読み解くために『資本論』を用いる姿勢は宇野弘蔵と共通しており、宇野経済学を信奉する佐藤氏がこの本をオススメするもうなずける。

 

***

 

この本の中で印象に残ったのが、以下の文章である。

労働者を人間の断片のようなものに変えてしまい、機械の付属品に貶める。そして労働者にとっては労働そのものが拷問になり、労働の内容が破壊されるのである。科学が独立した力として労働のプロセスに組み込まれると、労働者は労働のプロセスにそもそも含まれていた知的な可能性から疎外されることになる。(p.81)

労働者はより効率的に仕事を進めるために、タスクを標準化したり、作業をショートカットできるようなシステムを導入したりする。

しかしこれは労働者が労働に対して知性を発揮できる領域を自ら奪っていることになる。システム化され知性の余地のなくなった仕事に従事する労働者は、まさに「機械の付属品」となる。

 

私の現在の仕事はある種で仕事の効率化を進めるものである。

効率化はより多くの価値を生み出し、社会の発展に寄与すると信じてやってきた。しかしそれは労働者にとっても意味のあるものだったのだろうかと、この文章より自問させられた。