オススメ度:★★★★☆
杉は全身の翠に水滴を飾り、夕陽は水滴を飾ってダイヤモンドにしていた。(p.156)
幸田文『木』

本書のエッセンス
・読書の楽しみを再発見できる
・「木」というテーマが新鮮で面白い
・見えているようで何も見えていないと気付かされる
感想
本を読む楽しみ
サラリーマン的な読書をしていると、「本を読むこと」の楽しみが損なわれていく。
三宅香帆は『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』のなかで、現代人の読書法には「情報処理スキルを上げること」が求められていると指摘している。
今や減少傾向にある読書をする人でさえも、読書を本の中から自分に必要な部分だけを抽出・サマリしテキパキと知識へと変えていく作業としてしまっている人が増えている。フライヤーのような要約サービスが人気を博していることからも、コスパ・タイパが重視される世の中になっていることが窺える。
しかしそのような読書の仕方というのは食事をサプリメントに置き換えるようなものであり、なんとも味気なく感じられる。栄養をいかにして楽に手早く取り入れるかという参加すべきでないゲームに取り込まれ元来あるべき姿を見失っている。
その結果、情報収集の効率は格段にいいにせよ本来の喜びの源泉である「楽しみ」という観点を失っているのではないだろうか。
私自身も時折読書において同様にナンセンスな効率化に飲み込まれていると感じることがある。
月に何冊本を読み終えることができた、短時間で一冊の本を読み終えることができたなど、決して人生を豊かにすることとは無関係の価値体系に陥っていると気がつくたびに自省し悲しくなる。もちろん多くの本に触れられること自体はよいことだと思うが、その数自体が目的となったとき、手段と目的が逆転する。冊数を稼ぐために読みやすそうな薄い本ばかり読んでいるとなんとも情けない気持ちになる。
そんな愚かな考えに救いの手を差し伸べてくれるのも、また読書であると思う。
いい文章、すてきな本に出会うと、もっとこの本を読んでいたい、この文章のテンポを感じていたいと思え、何をせかせかと焦り本を読み終えようとしていたのかと立ち止まる機会をくれる。
そしてなんのために本を読んでいたんだっけという問いが生まれ、私を無価値の体系から救い出してくれる。
まさにこの『木』という随筆は私に救い手を差し伸べてくれたすてきな本であった。
丁寧で品のある言葉遣い、柔らかさを演出するひらがな表記、文章に格を持たせる昔ながらの表現が本当のおばあちゃんに語りかけられているかのような温かさを感じさせてくれる。
一枚一枚丁寧に紙のページをめくり、わからない言葉があればメモを取りあとで調べる。文字を大切に読んでいくと時間の流れさえもゆったりと感じられる。流行りのビジネス書を流し読みしているときには得られない充足感がそこにはあった。
幸田文と木
幸田文は幸田露伴の次女で、エッセイストとして活躍した人物である。
この随筆のテーマはタイトル通り「木」についてである。筆者である幸田文が関心を持って触れ合ってきた「木」との出会いとそのとき感じた心情について15篇のエッセイがまとめられている。
「えぞ松の更新」では倒木更新について書かれている。
倒木更新とは倒れた木のうえに着床発芽しそのまま育つ自然現象で、一本の木から複数の木が発芽すると、一列一直線に木が並んで立つところが見られるという。なんとも窮屈そうにも思えるが、環境の厳しい北海道ではかえって生育しやすい環境らしい。
えぞ松に新たなえぞ松の根が張っているというのはカニバリズムのようだなと思いつつ、気になって実際どんな生え方をしているのか画像検索してみた。
なるほど、筆者が書いているようにみごとに小さな木が大木に並んで育っており、小さなトトロが並んでいる光景を思い出した。これはきっと登山に行くときに見つけたらテンション上がるだろうなと思った。
筆者の子供時代の話も面白い。
「藤」では筆者が草木に興味をもった要因の一つとして家庭教育を挙げている。その中の具体的なエピソードとして、父である幸田露伴が三人兄弟それぞれに同じ種類の木を1本ずつ与えて面倒を見させていたという話がある。
露伴はしばしば木の葉を取ってきてはだれの木のものか兄弟にあてさせたという。これは筆者の姉が得意で、うまく当てられなかった筆者は姉への嫉妬心からかえって草木に関心を寄せるようになったというから面白い。
私の家にも庭があり、小さな松といくつかの草木が植わっている。年に何回か植木屋が来て手入れと虫よけをして帰っていくのを知っているが、祖母以外特段庭や草木に興味を寄せる人間がいなかったためか、せっかく庭があるのに植わっている植物の名前さえ知らずに育ってしまったのはなんとも勿体なかったなと振り返った。
世界を広げて
この本を読んでいると、自分の見えているものの解像度がいかに低いか、ただ目に入っているだけで自分の頭で何一つ考えられていなかったかを思い知らされる。
あるとき筆者が一本だけぽつりと立っている大木を見てすてきだと言ったとき、一緒にいた植物の先生が話した内容にはハッとさせられた。
すてきと思うのは勝手だが、なぜ一本なのか、そこを少し考えてみなくてはネ、とたしなめられた。(中略)まずはじめに樹種をたしかめ、木の形態を見、有用か無用かを考え、さらにその附近を見歩いて、同種の木の切株があるかないかに気をつければなぜ野っ原に一本だけ残ったか、だんだん見当がついてくるでしょ。良木良材をわざわざ一本だけ残す筈がないじゃないか、伐る手間さえ惜しむほどに人の生活は苦しいのだから、野山に一本残った木の評価はおのずから明らかといえる。人間の側からいえばそれは役立たずの無価値の木であり、木の側からいうなら、不運と苦難の末にやっと得た老後の平安というわけ、どうか一本残った木をすてきとうだけで片付けないで、もっとよく見てもらいたい(p.153)
私たちの目に見えているものは断面であり、得られる感想は主観に過ぎない。しかしその対象にも背景や歴史、事情があり、それらに対して少し想像力を働かせるだけで見え方や感じ取れるものはまったく変わってくる。
しかし「わかりやすいもの」に慣れ親しんできている現代人にとって身の回りの些細な事柄に想像力を働かせることは難しくなってきている。広告は欲求にダイレクトに届くよう短いフレーズとわかりやすいイメージで構成され、仕事では一目でわかる資料を要求される。スマホを見ればショート動画が跋扈し、想像力どころか思考する隙間さえも与えてくれない。
ディズニー映画『ポカホンタス』の「カラー・オブ・ザ・ウィンド」という曲に「あの木の高さ、もし切ればわからない」という歌詞がある。
これは未開で何も知らない人たちだとネイティブアメリカンを見下すイギリス人に対し、主人公であるポカホンタスが「木を"もの"として扱い伐ってしまうならば、本来この命をどこまで延ばすことができたかわからないでしょう、それは物事を知っていると言えるのか」と諭している。
自然主義が主流のこの時世において、わからなくてもよいと判断されたものは極端に単純化され、関心の外に放り出されてしまう。しかし私たちの生きる世界には見えていても実はわかっていないことがたくさんある。
それらは私たちの人生には直接的には不必要かもしれないが、そういった些末なものに目を向け、想像力を働かせることが実は人生を豊かにするヒントなのかもしれない。



