オススメ度:★★★★★
それは、壮大な自然の劇場で、宇宙のドラマをたった一人の観客として見るような体験だった。(p.114)
星野道夫『旅する木』
著者:星野道夫(1952~1996)
千葉県市川市生れ。写真家・探検家・詩人。慶應大学経済学部卒業後、アラスカ大学を中退。アラスカの自然に魅せられ、多くの時間をアラスカで過ごした。1996年ヒグマによる食害により死去。著作に『ノーザンライツ』『旅する木』などがある。
本書のエッセンス
・この世界は広く、知らないところでは私たちと同じ時間が流れている
・アラスカには息を呑むような雄大な自然がある
・筆者の美しい言葉遣い
私たちの知らない世界・同じ時間の流れ
小学生のときにの国語の教科書で、とても印象に残っている文章がある。
遠い北極で暮らすシロクマたちが、私たちの知らないところで私たちと同じ時間を過ごしている。
当時低学年だった私はこの文を読んで、なんて不思議なんだろう思ったのを覚えている。文字や写真でしか見たことのないシロクマたちの生活はどこかフィクションのようで、この地球で同じ時間を過ごしているという現実はとても不思議なものに感じられた。
この本の中にも同じニュアンスの話があり、読んだ瞬間ハッとあのときの新鮮な驚きが想起させられた。
大都会の東京で電車に揺られている時、雑踏の中で人混みにもまれている時、ふっと北海道のヒグマが頭をかすめるのである。ぼくが東京で暮らしている同じ瞬間に、同じ日本でヒグマが日々を生き、呼吸をしている・・・・・・確実にこの今、どこかの山で、一頭のヒグマが倒木を乗り越えながら力強く進んでいる・・・・・・そのことがどうにも不思議でならなかった。(p.121)
この本はこういった文明社会の中で失われた、あるいは得ることのできなくなってしまった感覚を、美しいアラスカの自然と共に描写している。
例えば言葉ひとつに対する感覚でさえ、文明の中で辞書的な理解をしている私たちと、言葉の指すそのものに直接触れている星野さんではまるで違っている。
世界とは、無限の広がりをもった抽象的な言葉だったのに、現実の感覚でとらえてしまう不安です。地球とか人類という壮大な概念が、有限なものに感じてしまうどうしていいかわからない寂しさに似ています。(p.41)
自分が普段発する「世界」と言う言葉とは、リアリティが違う。世界という言葉を知っていることは、世界を知っていることとは全く違うのだ。
星野さんの文を読めば読むほど、自分の知らない世界、そこに流れる時間を見てみたくなりウズウズとしてくる。
美しい文章
この本の、心にダイレクトに語り掛けてくるような感覚と圧倒的な自然の描写はひとえに星野さんの筆の力によるものである。
星野さんの美しい言葉の一つひとつが読者にゆっくりと語り掛け、読み手はアラスカの自然をありありと想像し、雪山を駆けるオオカミに思いを馳せ、もしコンクリートジャングルから抜け出しオーロラを見ることができるならばと妄想する。
以下はあまりに美しさに衝撃を受けた文章の引用である。
ぼくはザックをおろし、テルモスの熱いコーヒーをすすりながら、月光に浮かびあがった夜の氷河の真只中にいました。時おりどこかで崩壊する雪崩の他は、動くものも、音もありません。夜空は降るような星で、まるでまばたきをするような感覚で流れ星が落ちてゆきます。いつかサハラを旅した友人が語っていた砂漠の"夜"もこんなふうではなかったかと思います。砂と星だけの夜の世界が、人間に与える不思議な力の話でした。
きっと情報があふれるような世の中で生きているぼくたちは、そんな世界が存在していることも忘れてしまっているのでしょうね。だからこんな場所に突然放り出されると、一体どうしていいのかうろたえてしまうのかもしれません。けれどもしばらくそこでじっとしていると、情報がきわめて少ない世界が持つ豊かさをすこしずぬ取り戻してきます。それはひとつの力というか、ぼくたちが忘れてしまっていた想像力のようなものです。(p.37)
いつかきっと、これらの言葉に救われるときがくるような、そんな確信をさせてくれるすばらしい文章であった。
自分の住む世界、知る世界はこれまでもこれからも、文明社会だけだと思っていた。でも、一人の人間として、世界中を移動できるテクノロジーのある時代にほんとにそれだけでいいのか、ましてや日本から出ないなんて、そんなもったいない人生でいいのかと読了後長らく自問させられた。