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【現実と空想のあいだ】芥川龍之介『蜘蛛の糸・杜子春』

オススメ度:★★★★☆

 

 

芥川龍之介『蜘蛛の糸・杜子春』

 本書のエッセンス
・芥川の児童文学短編集
・現実とファンタジーの間を楽しめる

 

あらすじ

御釈迦様がご慈悲でたらした一筋の蜘蛛の糸にすがりつくカンダタと群がる無数の罪人らを通してエゴイズムをえがいた『蜘蛛の糸』、大切なのは金か家族かをつきつける『杜子春』、一度の過ちのために黒色に変えられてしまった白犬が贖いのために奔走する『白』など、芥川の児童文学作品10篇を集めた短編集。

 

 

感想

読み終えて、この小説の世界はファンタジーなのか現実なのかと考えた。

 

ふつうに考えれば空想上のものごとやイベントを描いたこの小説らはファンタジーになるだろう。『蜘蛛の糸』の地獄はこの世のものではないし、『杜子春』に出てくる仙人は存在しないし、『アグニの神』で披露される降霊術も創作にすぎない。

現実に存在し得ないものの創作という意味では、これらの作品はファンタジーに分類されるはずである。

 

しかし芥川のファンタジーは単なる空想とはちょっと違っているように思える。というのは芥川のファンタジーには現実味があるのだ。

 

想像とひとくちに言ってもペガサスやハリーポッターのように完全に人の頭のなかにしか存在しないものから、シャンプーをしているときに後ろから感じる気配や先祖の霊魂のように思い込みでありつつ現実とリンクしたものまで多岐にわたる。

芥川が扱っている想像上のものというのはどちらかというと後者に近いように感じられる。私たち日本人が共通してもつ、記憶の内側に存在する想像をえがいている。

 

現実と科学的であることはイコールではない。

たとえば道端のお地蔵様につばを吐きかけその後何かしらの不幸が見舞われれば、「バチが当たった」という見方をする。また食事を粗末にあつかうと「バチ」が当たりそうだなという感覚は日本人であれば誰しも持っているように思える。

この「バチ」というのは因果関係を説明できるわけではなく、科学的とはいえないが「バチが当たること」はまぎれもない現実である。このとき「バチ」という超科学的な現象はファンタジーの住民ではなく、手触りのある私たちの現実に存在するといえるではないか。

 

また先祖の影やお化けといったものも比較的日本人にとって身近な空想として挙げられる。

いまは作る家庭も減っているが、お盆にキュウリやナスで精霊馬をつくるのも、おとぎ話とはまったく違ったレベルで霊魂という存在が共同幻想として人々のあいだに存在している証左である。

ペガサスは現実にも科学にも存在せず、霊魂は現実に存在し科学に存在しない。

 

そういった現実とファンタジーのあいだの、霊的なものが芥川のこの短編集には多く描かれている。

 

『蜘蛛の糸』や『杜子春』の地獄の光景というのは日本人が共有する幻想である。日常の会話の中で天国に行きたい、地獄に行きたくないとあたかも本当に天国や地獄があるような話が生まれるのは、それらが拡張した現実に存在しているためである。

『アグニの神』や『魔術』の神秘性、『白』の擬人化についても「そういうこともあるかもしれないな」と思える範囲で話が展開されており、この世界のどこかにある現実の一つとして受け取ることができる。

 

事実か作りものか、或いは測定可能か測定不能かの二元論の世界に生きていると、その間にあるあいまいな領域を見落としてしまう。

実際には現実の含む範囲はゆらいでおり、自然主義的な視点では見えないものがたくさんある。

 

ひさびさに児童向けの作品を読みながら、そのようなことを考えた。