オススメ度:★★★★★
まるで果てしない宇宙空間に思考が解き放たれ、駆けめぐっていくかのような経験。こうした経験は、星の名前を一つも知らなくても、子どもと分かち合うことができます。美を深く味わい、いま見ているものの意味に思いをめぐらせてみるために、星の名前を知っている必要などないのです。(p.26)
レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』

不思議な読書体験
本は読む人をどこか別の場所に連れて行ってくれる、としばしば言われることがある。
文字を追いかけていたところから、だんだんと文章に没入していき、次第に本の世界にいるような錯覚を得られるという。
劇団四季版の『美女と野獣』のなかでも、野獣が「本がこんなに面白いなんて、ぼくもどこかに連れ去ってくれる」と話す場面がある。文字の読めなかった野獣が初めて本の面白さに触れ、感動を表しているシーンである。
しかしこれまで私は本を読んでも、私の感受性が低いのか想像力が足りないのか、物語のなかの光景が映画のように思い浮かんでくることはあっても、意識まるごとどこか別の場所に連れて行ってくれるというまでの没入感を味わったことはなかった。
文章が頭のなかで映像化され、それを見ているにすぎず、よく言われる「別の場所に連れて行ってくれる」というのは、あくまで比喩表現であると思っていた。
レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』は筑摩書房のもので40ページほど(そのあとに訳者による文章が続く)のとても短い本である。
使われていることばや表現も平易であり、だれでもするすると読むことができる。
内容はカーソンが甥のロジャーと見て、触れてきた美しい自然と、そのときに感じた神秘的な感覚について語った本である。
アラスカのオーロラやカリフォルニアのイエローストーン国立公園のような特別な自然ではなく、メイン州のごくごく普通の田舎のなかで出会った森の木々や動物、夜空から感じた、「センス・オブ・ワンダー」について書かれている。
この本はどこのページをひらいても、神秘的で美しいことばと出会うことができる。
読者に優しく語りかけるように書かれた文章は、速読してしまうのが惜しいと思わせるほどゆったりとしたテンポで綴られている。
一文一文じっくりと音読していくのが、この本にぴったりのリズムだと思った。
この本を読んでいて、途中不思議な感覚につつまれることがあった。それは次の文を読んでいた時のことである。
雨の日こそ、森で散歩するには最高のときー私はいつもそう思っています。雨の日ほどメイン州の森が瑞々しく、活気ついていることはありません。
(中略)
乾燥しているときの地位類の絨毯は薄く感じられます。もろくて、足もとでぼろぼろ崩れていくのです。ところがいまは、スポンジのようにたっぷり水を吸って、深く、バネのように弾みます。(p.17-19)
この文章を読んでいるとき、自分の目の前の、手の届くすぐ先に、水を吸ってふんわりと柔らかくなったコケが見えた。それは目の前の風景がふいに変わったというよりは、まるでもともと自分がその場所にいたような、そんな感覚であった。
ふとあたりに意識をやると、周りはしとしと雨が降り、木と木の間のコケが厚みを持って踏まれるのを待っている。自分はその土地でずっとくらす小さな子どもで、いつもそうしていたかように目の前の柔らかなコケに夢中になっていた。
それはこれまでのような映像化された文章ではなく、質感をもって自分の周りに現れていた。
もちろん気が付いてしまえばあっという間に現実に引き戻されてしまうのだけれど、あのとき、あの瞬間は、間違いなく自分がメイン州にいたのだと思う。
これが別の世界に本が連れて行ってくれるということなのだと、そのとき初めてわかった。本を読むことでどこか遠くに飛んでいくのではなく、もとよりそこにいたという感覚。
この新たな体験とカーソンの美しい文章が合わさり、二重の意味で感動させられた。
カーソンの手ざわり感のある、いきいきとした文章が、私をメイン州の神秘的な森の中へ連れ出してくれたのだった。
子どもと自然との関わり方
甥ロジャーとの関わり方もまた、現代人にとって示唆あるものであった。
カーソンはロジャーの教師やトレーナーになろうとはしなかった。一方的に知識を押し付けるような態度とは、まったく反対のスタンスをとっていた。
親や大人は子どもたちに新しいものを見せるとき、ついつい「それが何であるか」を示したがる。「それが何であるか」を知ることが成長であるかのように錯覚しているためである。
しかしカーソンは、本来の目的が達せられるのであれば、草花の名前や星の名前といった知識はなくともいくらの支障もないと考えていた。
子どもにとって、そしてわが子を導こうとする親にとって、知ることは感じることにくらべて半分も重要でないと、私は心から思っています。事実が、やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたら、感情や、感覚に刻まれた印象は、種子を育てる肥沃な土壌です。(p.22)
いまの日本、とりわけ東京といった大都市では子どもは「将来のため」という旗の元、幼い頃からたくさんの習い事を抱えこみ、小学校も高学年ともなると塾に缶詰にさせられる。
そして受験の合否があたかも人生でもっとも大切なものであるかのような価値観を、目を血走らせる親をみて会得していく。
カーソンの文章を読んでいると、こういった現代な子どもたちが不憫でならない。あまりに可哀想である。
幼い頃周りにいる大人の影響を、改めて実感させられる。
では、自然のなかで知識を教えるのであれば、大人は子どもたちに何をするべきなのであろうか。
これについてもカーソンのロジャーへの態度が参考になる。
彼に呼びかけるときの私は、年上のだれかと発見を分かち合うときと同じで、一緒に見ているものに感じる自分の喜びを、ただ素直に表現するだけなのです。(p.15)
そう、大人から子どもに何か与えてやる必要はないのだ。自然を感じる中で、年長者として用意すべきことは何もない。
ただ大人も一緒に自然に入り、心に浮かんだこと、感じたことをそのまま対等に表現し分かち合えばよいのだ。そうすればきっと、子どもたちの心の中にも情緒が育っていくに違いない。
40ページしかないこの『センス・オブ・ワンダー』は、本来さらに補完される予定であったらしい。しかし不幸にもその完成のまえにカーソンはこの世を去ってしまい、実現されることはなかった。
それでもこの短い随筆調の文章は人工物にとりこまれてしまった私たちに多くのものを思い出させてくれる。
静かな夜に森に入っていきたくなるような、すてきな文章だった。
森田真生の『センス・オブ・ワンダー』
後半からは『センス・オブ・ワンダー』の新訳者である森田真生による、森田氏の『センス・オブ・ワンダー』が綴られている。
森田氏は小さな2人の男の子を育てる父親である。子どもたちは京都の町で庭のある家で、虫や動物と触れ合いながらのびのびと育っている。
森田氏の『センス・オブ・ワンダー』はカーソンの話が時代や場所にとらわれない、普遍的な内容であることを教えてくれる。20世紀のメイン州でなくても、自然と触れ合い、心の豊かさを取り戻す体験はだれしもに開かれている。
森田氏が子どもたちと暮らす中で発見した美しい気付きも読んでいて楽しいが、特に私が注目したのは、「擬態」に関する気付きである。
養老孟子は擬態を「一見よく似たものの実態がまったく異なる状況」と説明している。ぱっと見は区別はつかないが、本質は相異なるということである。自然界でいえば枝や葉のふりをした虫や、岩や砂と同化しようとする魚などがいる。
養老氏の説明に照らし合わせれば、擬態は生物だけに見られるものとは限らない。例えばAIも、養老氏の定義によれば人間の擬態になる。最近のAIと話していると、あまりに器用に話すため、機械と話しているという感覚が失われていく。
人工知能の完成の判断方法として、チューリングテストというものがある。これは第二次世界大戦で活躍したイギリスの数学者アラン・チューリングが提唱した概念で、人工知能のようなものと人間を会話させ、それを有意に見破ることができなければ、その人工知能のようなものを知能として認めるというものである。
そういった定義によれば、GeminiやChatGPTはチューリングテストに合格しているといえる。現代の生成AIはすでに知能と呼べる代物になっている。
しかしどんなにAIが進化しようとも、それはあくまで人間の模倣にすぎない。
ぱっと見人間と違いが無いように見えても、本質は人間とは異なる。AIは人間が作り出した、巧妙な擬態である。
人間の言葉を巧みに模倣する人口知能より、僕は川の言葉を翻訳できる機会を見てみたい。川はきっと、繊細で壮大な、いくつもの物語を語り始めるにちがいない。(p.47)
世の中には「擬態」と呼べるものがたくさんある。
例えば、マグロとして売られているアカマンボウ、見栄えばっかりがよいのに美味しくない一過性のブームのためのスイーツ、コンサルタントが残していった絵に描いた餅。
どれもこれも実態をごまかし、もっとよい、別のもののように見せる。
「擬態」により他者を欺く手法というのは、人間が悪意から発明したものではない。実際には、人間が生まれるずっと前から自然界にもともと存在し、それは生物一般に対して有効であった。
自然界がこれほど擬態にあふれているのは、擬態がしばしばうまく機能するからだ。どんな生き物も、物事の一面をうまく、素早くとらえる仕組みをそれぞれを持っている。だがそのとき同時に、多くのことが差し当たりは不必要な情報として捨てられてしまう。(p.155)
自然界において、判断が遅いことはすなわち死につながる。目に映ったものが敵かどうか、聞こえてきたものが脅威かどうか、変な味が毒かどうか。たいていの場合、判断までの時間がかかればかかるほど、生存率は低下していく。収集した情報に対して即座に判断できる能力は、生き延びることの優位に働き、もっと言えば素早い判断を獲得した種が生き延びてきたともいえる。
同じように、人間も進化の中ですばやい判断力を獲得してきた。つまり人間にも「擬態」が効く。「擬態」が効くかぎり、人間も人間を欺き続ける。
ここから2つの洞察が得られると考えている。
一つは世の中の「擬態」に注意しなければならないということである。
普段から周りをよく観察する癖をつけ、知識を蓄え、想像力を働かせ、直観と情緒を育んでいく必要がある。見た目だけに飛びついていないか、本質をよく自分の頭で理解し、腑に落ちているか。
「擬態」が跋扈していると分かっているからこそ、気を引き締めて生きていかなければならない。
もう一つが「擬態」をしないように気をつけなければないないということだ。
「擬態」が他者に有効であるということは、「擬態」をするインセンティブがだれにでもあるということである。例えば顧客になにか製品を提供するとき擬態が効くということは、「それっぽいもの」でも気が付かない可能性がある。もしかしたら、最初だけでなく、最後の最後まで「それっぽいだけの実態が伴わないもの」であることに気が付かないかもしれない。「それっぽいもの」は労力も、コストもかからないだろう。市場原理も「それっぽいもの」を提供するように悪魔のようにささやく。
これは難しい問題である。もちろん、どちらが倫理的に正しいかは明白である。しかしこれだけのインセンティブがあるなかで、すべての人間が悪魔のささやきに逆らえるかはあやしい。
「擬態」が有効であるということを分かったうえで、それを退ける勇気が求められる。
最後に、森田氏の好きな言葉を紹介したい。
知の弱さは、矛盾を許容できないことである。(p.55)
矛盾を許容しないことで発展してきた科学に対し、心や自然には矛盾が内包される。必ずしも一つのストーリーに閉じ込めたり、特定の尺度で計り語ることはできない。
この世のすべてを論理によって矛盾なく切り分けられると考えることは、実態に反しており思想として危うい。
知で分からなくても、感じられることがある。矛盾しているけれど、共感できることがある。
矛盾を否定するということは、知でとらえられない領域を否定することにつながる。センサや五感で捉えられないけれど、在るものがある。
フランシス・ベーコンは帰納法の有用性を示し「知は力なり」と言った。
しかし知に限界があること、弱さがあること、私たちの心や自然はもっと広いと知ることはよりよく生きることにつながるように思う。



