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安部公房『砂の女』【あらすじ・感想】

オススメ度:★★★★☆

穴の中にいながら、すでに穴の外にいるかのようなものだった(p.261)

 

安部公房『砂の女』

著者:安部公房(1924~1993)

本名は安部公房(きみふさ)。東京府生れ。東京大学医学部卒業。誕生後すぐに家族で満州に渡り、旧成城高等学校(現成城大学)に入学を期に日本へ帰国した。1948年『終わりの道の標べに』でデビュー。『壁-S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞を受賞。作品は世界30か国で翻訳出版されるなど、世界的評価も高い。著書多数。

 

あらすじ・感想

教師業の男が、ある集落の、自力では這い出られない砂の穴底に閉じ込められるという奇妙なストーリー。砂に沈みゆく家には、砂を掻き出す男手が必要であり、集落はその労働の担い手として男を閉じこめる。砂底の家には30歳くらいの女が一人住んでいて、男はこの女と同居を強制される。

前半では、男は集落の人間に対して、自分には人権があり、この事態は完全なる人権侵害であると主張を続ける。

しかし、集落の人間は男の主張を全く受け付けない。なぜなら、男の主張する人権というのは、"社会"の論理であって、社会から隔絶、あるいは社会に見捨てられたこの集落では全く通用しない。この集落にとって重要なのは、集落を維持し続けることが最重要であるという集落の論理であり、集落の人間にとって男の主張は受け付けるに値しない。男を穴底に閉じ込めておくことは、集落や女の論理からすれば全く正当な行為になる。

だから男が穴の中でいくら男の論理で異常を指摘しようとも、女は少し困った様子を見せるだけで、すぐ日常へと戻ってしまう。

女は黙っていた。言い返しもしなければ、弁解する気配もない。しばらく待って、男が言いやめたことを確かめてから、まるで何事もなかったように、そろそろと体を動かし、やりかけの仕事のつづきを始めるのだ。

 

ここでの男と集落の対立は、論理の強制によって生じたわけだが、論理の強制自体は珍しいものではなく有史以降絶えず行われてきた。

現代で言えば社会に通念する論理とは資本主義であり、その主体≒集落は資本家である。労働者は這い上がることのできない砂の底に永遠に閉じ込められている。

もちろん、それ自体が不幸というわけではない。穴底の家で同じように暮らす男と女だが、集落の論理側に立つ女はこの暮らしの中にささやかな楽しみを見出し、ラジオを買うために内職にいそしんでいる。一方男は理不尽に抗い、生きるために必要な砂かきを拒否するが、状況は悪化の一途を辿る。

男と女の最大の違いがどこにあるかと言えば、自由をもがれている実感があるかないかである。状況が同じであっても、それをどう受け取り実感するかで世界は変わってくる。

 

最後のシーン、穴に縄梯がかけられていつでも脱出できるようになっても、男はすぐには出なかった。しかし男の中で大きく変わったことがあった。それは自由を実感していることである。

結局、私たちが無条件で砂の穴底に閉じ込められている以上、世界を疑い、通念と戦いながら男のように生きるか、全てを受け入れて、その中で小さな幸せをみつけ女のように生きるか選ばなくてはならないのだ。