奥行きの感じられない狭い空間の中に4人の男女が密集しています。
右から二番目の男に注目してみるとその左手は隣の女性の胸元に伸びていて、右手には硬貨を見せているのが分かります。
この絵は『取り持ちの女』と言う絵で、取り持ちの女とは売春婦の紹介を生業とする女のことです。
フェルメールの家には同時期の画家バビューレンが描いた同じタイトルの絵があり、フェルメールの絵画にはしばしばその影響が感じられます。
実際にバビューレンの『取り持ちの女』はフェルメールの絵の中にも登場しています。
あまり有名な絵ではありませんが、左の男性が実はフェルメールの自画像でないかと言われていたりと考察するには面白い絵であります。
さっそく秘密に迫っていきましょう。
この絵画を見るポイント
・この絵のモチーフ:放蕩息子とは?
・左の男性はフェルメールの自画像だった?
フェルメール『取り持ちの女』の解説
この絵のモチーフ:放蕩息子とは?
フェルメールといえば風俗画(普段の生活を描いたもの)の印象が強いですが、彼はキャリアの初期には宗教画を多く描いていました。
この作品はその過渡期を象徴する作品で、一見単なる売春宿の光景を描いた作品(風俗画)に見えますが、そのモチーフは新約聖書の一説である「放蕩息子」だと言われています。
「放蕩息子」は新約聖書ルカ福音書の15章に出てくる話で、神の懐の広さを説いたたとえ話です。
*放蕩(ほうとう)・・・酒や女におぼれること
ある男に2人の息子がいました。
そのうち次男は早々に財産の分け前をもらうと旅に出て、そのお金を放蕩三昧によって使い果たしてしまいます。
無一文になり次男が帰ってくると、父は宴会を開き息子との再会を喜びました。その様子を見たずっと父を手伝っていた真面目な長男は納得がいかず、父に詰め寄ります。すると父は彼をたしなめて言いました。「お前はいつも私とともにいる。私のものはすべてお前のものだ。しかし弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった。」
父が問題にしていたのは兄弟の功績ではありませんでした。父は子を平等に扱い受け入れる心を持っていたのです。
この話を主題にした作品は当時多く作られ、同じく17世紀のオランダの巨匠であるレンブラントも「放蕩息子」をモチーフに作品を制作しています。
こちらは放蕩息子の帰還を描いたもので、次男の背中と父の顔に優しい温かみのある光が当たり、寛容さが見事に表現されています。
フェルメールの描いた放蕩息子は一文無しのズタボロになるまえの放蕩の限りを尽くすドラ息子そのもので、ろくでもない色男の感じがよく出ていますね。
このあと飢饉の中で飢え苦しむと思うといい気味です笑。
左の男性はフェルメールの自画像だった?
さてこの絵の登場人物が右から、売春婦、放蕩息子、取り持ちの女であることは分かりましたが、そうすると一番左の人物の存在が不自然じゃありませんか?
居合わせた人にしては他の三人と距離が近く、また視線も彼らの方ではなく鑑賞者の方を向いていてなんだか変な印象を受けます。
実はこの人物はフェルメール本人の自画像でないかと言われています。
この人物には当時の画家たちが作中に自身を登場させるときの特徴がいくつか現れています。
まず最初の特徴は、人物がこちら(鑑賞者)の方を向いて意味ありげに微笑んでいるということです。
まっすぐこの絵を眺めていると、この男性と目が合うことが分かると思います。
この視線はたまたまこちらを向いたものではなく、明確にこちら(鑑賞者)を意識してみているように感じられます。
他の自画像の特徴としては、異国の帽子をかぶっている、乾杯するようにグラスを掲げている、人々の端にいるなどがあげられ、この絵はそれらを満たしています。
この人物がフェルメール本人だと思うと、なんだかタイムスリップした彼が目の前にいるような不思議な感じがしてきます。
他の3人が物語の中の登場人物であるのに対し、フェルメールだけがすべてを知っていて物語を進行させているかのようにも見えてきます。
きっと掲げられたグラスも、私たちに対するものなのでしょう。
まとめ
以上「取り持ちの女」を鑑賞する上でのポイントをまとめると
①フェルメールが宗教画から風俗画に移るときに描かれたものである
②モチーフは「放蕩息子」
③左の男性はフェルメール本人だと考えられる
です。
知っているのと知らないのとでは絵画を見るときの面白さが格段に変わります!
他のフェルメールの作品についても解説しているので、よかったらご覧ください。