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【本の紹介】大江健三郎『芽むしり仔撃ち』【あらすじ】

オススメ度:★★★★☆

「いいか、お前のような奴は、子供の時分に締めころしたほうがいいんだ。出来ぞこないは小さい時にひねりつぶす。俺たちは百姓だ、悪い芽は始めにむしりとってしまう」(p.218)

 

大江健三郎『芽むしり仔撃ち』

 

あらすじ

第二次世界大戦の終わりごろの冬、不良少年たちを集めた感化院の一同が集団疎開をする。しかし受け入れ先の村では「疫病」が流行しており、村民たちは少年たちもろとも村を封鎖し、外へ逃げ出してしまう。

感化院の少年らは一緒に取り残された疫病で母を失った少女、朝鮮人の少年、逃亡中の兵士、野犬とともにその村で自分らの共同体を形成する。閉ざされた村で自由を甘受していた少年たちだったが、村人の帰還により共同体と自由は破壊される。

 

感想

「少年らによる理想郷の形成」と言って、まず私が思いつくのが宗田理の『ぼくらの七日間戦争』である。この小説はある夏休みの前日、中学1年生が河川敷の廃工場にバリケードを張り大人たちとの戦争を繰り広げるというものである。どちらにも共通しているのが少年らによる理想郷の形成という点と、社会疎外者(子ども、感化院、朝鮮人)と共同体構成員(大人、村民)の対立である。

社会という分節化(既存の構成員によって秩序が決定されている状態)されているところに新しくやってきた人々と既存の構成員の間には常に摩擦が生じる。『芽むしり仔撃ち』も『ぼくらの七日間戦争』も、入り口はこの摩擦にある。

 

この摩擦に対して『ぼくらの七日間戦争』と『芽むしり仔撃ち』では2つの点で異なる描き方をしている。それはファンタジーと現実とも言い換えることができる。

 

一つ目が自らの意思で「閉じこもった」のか外部の力によって「閉じ込められた」のかという点である。『ぼくらの七日間戦争』では子どもたちが自らの意思で閉じこもり戦争を始める。一方で「芽むしり仔撃ち」では疫病の流行によって村民たちが逃げ出したうえで唯一の村の入り口にバリケードを張り、銃を持った見張りまで立てて感化院の少年らを隔離する。隔離された少年らは当初見捨てられたことに困惑するが、次第に理想郷の形成へと気持ちを一つにしていく。

ここで「閉じ込められて」いながら自由を感じている様子は、安倍公房の『砂の女』とも共通している。自由の本質が状況ではなく心持にあることが分かる。

 

もう一つの違いが衝突の勝敗である。『ぼくらの七日間戦争』では少年らが最終日に盛大に花火を上げ、自分たちが自由を獲得したことを高らかに宣言する。そして最後は大人たちへの世界(日常)へ自分らの意思で戻っていくことで尊厳を失うことなく大人になっていく。

他方『芽むしり仔撃ち』では閉鎖した村に戻ってきた大人たちが、暴力によってその理想郷と少年らの自由を破壊して回る。その結果大半の少年は自らの意思とは関係なく大人たちの世界に戻ることを余儀なくされる。そして最後まで自分の意思を貫き通した「僕」は共同体の外へとつまみ出され、世界から消し去られていく。この圧倒的不条理によってむき出しの現実をありありと描き出している。

 

住みよく生きるためには、社会が分節化されているという現実を前にその不条理を理解し、不条理の内側で自由を感じる努力をする必要があるのではないだろうか。