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哲学初心者にもオススメされることの多い、ルネ・デカルトの『方法序説』。
岩波文庫で100ページほどの薄い本ですが代表的な古典として絶大な人気を集めています。
今回はこの『方法序説』を簡単にまとめ、さらにデカルトがなぜ「近代哲学の祖」と呼ばれるようになったのか分かりやすく解説します!
ルネ・デカルトはなぜ「近代哲学の祖」と呼ばれるのか
デカルトとは?
デカルトは 16世紀を代表する哲学者・数学者です。
中学校で習った平面座標を発明したことでも知られています。
法官貴族の子どもとして生まれたデカルトは、10歳の頃よりイエズス会経営の名門校で当時のヨーロッパにおける最高の教育を受けます。
その後デカルトはポアチエ大学に進み、ここでは医学と法学を学び法学士号を取得しました。
大学卒業後は見聞を広げるためヨーロッパを旅してまわり、この過程で『方法序説』の肝となる普遍数学の構想を固めていきます。
最終的には自由に研究できる環境であったオランダに移住し研究を進めますが、その後講師として招かれたスウェーデンで体の弱かったデカルトは肺炎のため命を落としてしまいました。
学生時代、病気がちだったデカルトは朝が苦手でした。しかし抜群に頭の良かったデカルトは学校の特別待遇によって朝の講義が免除されてたといいます。
そんなある日、朝デカルトがベッドで寝ていると壁に一匹のハエが止まっているのが見えました。デカルトはそのハエの位置を正確に人に伝える方法はないかと考え、座標を発明したと言われています。
なぜ「近代哲学の祖」と呼ばれるのか?
デカルトは「近代哲学の祖」と呼ばれることがあります。
なぜデカルトは近代哲学の祖と呼ばれるのでしょうか?
これを明らかにするためにまず「近代哲学」とそれ以前について簡単に説明しようと思います。
近代哲学とそれ以前を分ける重要なポイントは、 哲学において根源的な問いである「何が存在して、何が存在しないのか」を決定する役割を神が果たしているのか、人間が果たしているのかという点にあります。
近代哲学以前においては、「何が存在して、何が存在しないのか」を決定することができるのは神だけでした。
神だけが自然を超越した存在であって、人間には決定権は与えられていないと考えていました。
神に決定権が与えられている以上、自然の存在・現象について人間が最終的な判断を下すことはできません。
これを覆すきっかけをつくったのが、デカルトでした。
デカルトは神によって与えられた理性ではありましたが、「人間理性が存在を判断することができる」ということを合理的に証明したのです。(完全なる神からの脱却はカントまでお預けになります。)
ここから、独立した判断力をもった近代的個人が生まれ、理性に基づく自然科学が発展していくことになります。
これこそがデカルトが近代哲学の祖と呼ばれる所以なのです。
ルネ・デカルト『方法序説』
なにが書いてあるのか
『方法序説』という名前からだと、具体的に何が書いてあるか想像しにくいですよね。
『方法序説』は正確には、『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(方法序説)。加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』という本の、序文にあたる部分を指します。
本書は彼の母国語であるフランス語で書かれています。
当時の学術的な文章はラテン語で書かれるのが普通であったことを考えると、デカルトがいかに革新的な考えを持っていたかが分かります。
内容に移ります。
『方法序説』にはデカルトが見つけた真理の探究の方法が書かれています。
そしてその方法に深く関係してくるのがかの有名な「コギト・エルゴ・スム(われ思う、ゆえにわれあり)」です。
これについては以下で説明します。
真理に至る方法
デカルトの関心はもっぱら真理にいかにして至るかということでした。
デカルトは真理に近づくにあたり、闇雲に考えるのではなく、一定のルールのもとで思索を重ねていくことで迷わず真理に近づいていくことができると考えました。
そして真理を得るために4つの規則と3つの格率(学問・思想を導く規準)を設けました。
4つの規則
②分析の規則…なるべく細分化して考える
③総合の規則…単純なものから順序立てて考える
④枚挙の規則…見落としがないようにする
3つの格率
②一度決めたことに一貫して従うこと
③自分の支配の及ぶ領域においてのみ改善を試みる
デカルトはこれらのルールから彼の代名詞ともいえる重要な「真理」を導き出しました。
「われ思う、ゆえにわれあり」
デカルトは真理探究のため、正しいと言い切れないものは全て捨てていくことにしました。
このように一つ一つ疑うことで真理に辿り着こうする考え方を、方法的懐疑といいます。
方法的懐疑はやみくもにあらゆるものを疑う「懐疑主義」とは異なり、あくまで真理探究の手段として疑うことを指します。
デカルトはこの方法でまず曖昧である感覚によって知覚された全てを捨て去り、次に不注意によるミスを否定しきれない幾何学の推論を捨て去りました。
このように疑って考えていくと、「夢の中で考えていることもあるのだから、今考えていることが夢の中でないとは言い切れない…」「すべては夢の幻想なのでは…?」と複雑な循環に陥ってしまいます。
しかしここで、デカルトは重要なことに気がつきます。
「たとえ幻想や夢に過ぎないとしても、本物か夢かを判断する"何か"は確実に存在する…!」
「すなわち、考えるということは"考えている何か"が存在する…!」
そしてデカルトは考えている"わたし"は存在するとして、
「われ思う、ゆえにわれあり」
だけは疑うことのできない堅固な真理、すなわち哲学の第一原理だと判断しました。
心身(物心)二元論と本質
以上の通り、デカルトは方法的懐疑によって唯一疑い得ぬものを"精神(わたし)"のみと判断しました。
ここから、デカルトは精神と肉体を分けて考えていることがわかります。
精神と肉体(心と身体)を別々のものとして捉える考え方を心身(物心)二元論といいます。
そしてデカルトは精神の本質を思惟(考えること)、物体の本質を延長だと考えました。
延長というのはやや分かりにくいのでもう少し説明します。
デカルトは、物体は感覚で認知するものであるから存在疑いうると考えました。
では存在を捨象したとすると何が残るのでしょうか?
物体が消えた後に残るのは、何もない空間的な拡がりだけです。座標軸だけがあって、その上に何もないと考えてみてください。
この空間の拡がりを、デカルトは延長と表現したのです。
まとめ
・デカルトが「近代哲学の祖」と呼ばれるのは、人間理性に存在を判断する力があると考えたから。
・『方法序説』は真理の探究方法が書かれた本。
・デカルトは方法的懐疑によって、「コギト・エルゴ・スム(われ思う、われあり)」にたどり着いた。
・デカルトは心身二元論の代表的な哲学者で、精神の本質を思惟、物体の本質を延長とした。