日本でも人気のある印象派。その中でもルノワールは特に人気が高く展覧会も頻繁に開かれています。
そんな人気のある画家ルノワールですが、彼の人生や作品について説明できる人は少ないのではないでしょうか。
ぜひ展覧会の前この記事でルノワールについて知って、より展覧会を楽しんできてください!
ルノワールを理解するポイント
・楽しく明るいテーマしか描かなかったルノワール
・時代ごとの画風の変化
・印象派ながら"自然"よりも"人物"を重視
印象派の巨匠:ルノワールの紹介
ルノワールといえば印象派の画家として有名です。しかし、その画風は時代によって変化していきました。
彼は何に影響を受け、どのように画風を変化させていったのでしょうか。3つの時代に分けて紹介していきます。どの時代の作風が好きか考えながら読んでみてください!
彼らは色を混ぜて塗るのではなく、原色を並置する手法(筆触分割)を生み出すことで瞬間の光を表現することに成功しました。
印象派という名前は、印象派たちによる最初の展覧会を見たある批評家が「こんなものは印象に過ぎない」とルポに書いたことがきっかけで呼ばれるようになりました。今では人気の印象派も、当時は伝統的手法を無視した前衛作品とされなかなか認められませんでした。
ルノワールの画風①:印象派として(1860年代~80年頃)
ルノワールは画家をめざし20歳のときに入った画塾でのちの印象派のメンバーと出会いました。
印象派のメンバーは瞬間の自然を表現するために、"筆触分割"というテクニックを生み出しました。これに技術によって色味を失うことなく色を混ぜて見せ、光を表現することに成功しました。
ルノワールがモネ一緒に並んで描いた「ラ・グルヌイエール」はその最初期の作品だと言われています。
彼らはサロンより自由な発表の場を求めグループ展を開くようになります。印象派という名前は第一回の展覧会をみた評論家が「こんなものは印象に過ぎない」とルポに書いたことが由来になりました。
ルノワールは第三回印象派展に大作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を出品し、注目を集めました。この絵はルノワールの印象派としての最高傑作となりましたが、以降ルノワールは印象派から距離を置くようになっていきます。
ルノワールの画風②:古典への傾倒(1880年代~90年頃)
印象派の主要メンバーであったルノワールですが、風景よりも人物を描くことを好んだためもともと自然を描くために誕生した印象派とは次第に距離を置くようになっていきました。
他の印象派のメンバーと異なり裕福な出ではなかったルノワールは絵をサロンに出し売っていく必要がありましたが、印象派展を主催するメンバーがサロンを毛嫌いし、サロンか印象派展のどちらかにしか出展できなくなっていたのも離脱の原因になりました。
印象派から距離を置いたルノワールは自分の絵のスタイルに悩んでいました。
そんな中訪れたローマで、彼はラファエロの絵に衝撃を受けます。これを機にルノワールは古典に回帰し、今までの色彩重視からデッサンや構図を意識するようにシフトしていきました。
輪郭や線が段々とはっきりしてきていることからも、印象派から離れて行っていることがうかがえます。
人物を描くことに関心があったルノワールは、新古典主義の巨匠アングルの影響を受け裸婦も好んで描きました。「大水浴図」は完成まで3年をかけた大作で、古典的な画法と現代の絵画を調和させようと労苦しました。
ルノワールの画風③:晩年(1890年代以降)
ここまで様々な画家に影響を受け、ロココ、新古典主義、ロマン主義、印象派と自らのスタイルの確立に苦しみ続けたルノワールでしたが、50歳の頃ついに様式にとらわれない境地にたどり着きます。
ルノワールは古典主義のハッキリとした線とも、印象派時代のおぼろげとも違う質感のある輪郭を生み出しました。
この時代の作品はどれも温かみのある、大地のエネルギーを感じられるような作品が特徴です。
晩年のルノワールは小さな息子を優しいタッチで描くとともに、豊満な裸婦に根源的な生命賛歌を見出しました。
おわりに
印象派の人気画家であるルノワールですが、生涯を見通してみると作風がだいぶ変化していることが分かりました。
みなさんのお気に入りの時代は見つかったでしょうか。
ぜひ美術館でルノワールの作品を鑑賞するときにはその"時代"にも注目してみてくださいね!
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