近代絵画の父とも呼ばれる巨匠エドゥアール・マネ。今でこそ大画家としての名誉をほしいままにしていますが、彼のキャリアのほとんどは批判の連続で、実際に評価されるようになったのは最晩年のなってからでした。
彼の傑作たちは当時どのように評価され、どのような人生を送っていったのでしょうか。
この記事を読めばマネの生涯とその作風についてのおおよそをつかめるようになります!
マネを理解するポイント
・マネが描きたかったのは"現実の社会"
・巨匠ベラスケスから受け継いだ空間表現
・ジャポニスムに影響を受けた平面的な画風
近代絵画の父:エドゥアール・マネの紹介
マネの生涯
少年時代
マネは1832年、パリの裕福な家庭の長男として生まれました。母方の伯父は芸術に造詣が深く、マネにデッサンの手ほどきをしたり、ルーブル美術館に連れて行ったりしました。マネはこれらの経験を通して芸術家に興味を持つようになります。
マネが画家への興味を強めていく一方で、司法官だった父はマネが法律家の道に進むことを望んでいました。マネもその意向を受け一度は海軍士官を志しましたが、二度の入試落第を経て芸術家に進むことになりました。
画家としてのキャリア
画家の道を歩み出したマネは画家トマ・クチュールの画塾に入ります。当時すでにパリは社会的にも芸術的にも変革期に入っていましたが、クチュールのアトリエでは伝統的なスタイルに強くこだわっていました。
目の前の現実を描き出す、新しい芸術を模索していたマネはクチュールとしばしば対立し、入塾から6年後アトリエを去りました。クチュールのアトリエを去った後には友人とパリの一角にアトリエを構え、ルーブル美術館で巨匠たちの作品の模写に勤しむようになります。
数年後、サロン(王立の美術展覧会)で入賞する画家にまでなったマネでしたが、1863年に行われたサロンの落選展で展示した「草上の昼食」がスキャンダルを巻き起こします。
草上の昼食は当時はやっていたピクニックを題材として描かれた作品で、何人かの男女がゆったりと昼食を楽しんでいます。二人の男性は現代的な服装を纏い、左の女性は娼婦であることがうかがえます。問題はこの娼婦の女性でした。
キリスト教では欲情をあおる裸婦画はタブーとされています。例外的に許されるのは神話や聖書など、人間でないものをモチーフとした女神像や寓意像に限定されていました。女神は人間と違いあくまで神であり、完全な神である以上布きれで体を隠す必要はない、という理屈です。
それまでの数百年間、キリスト教世界で書かれた裸婦画はすべて女神など人間の女性でないものを主題にしたものでした。
マネは人間の裸婦画、しかも娼婦を描いたことでパリの知識人から怒りを買ってしまうのでした。
これに懲りずマネは2年後サロンに作品を送り、入選します。この時の作品「オランピア」が再び激しい批判に火をつけます。
「オランピア」では人間の女性がはっきりと娼婦と分かる形で描かれ、また当時の王道の技法である立体感のあるタッチからもかけ離れたものでした。この独特の描き方については次の絵画の特徴で解説します。
「オランピア」は「草上の昼食」にもましてパリの紳士淑女の怒りを買い、この絵を見たうちの一人が怒りのあまりステッキを振り回したため急きょ絵画に2人の守衛をつけるという事態にまで及びました。
このように、現在ではマネの代表作とされるこれらの作品も当時は悪評にさらされた不遇の作品だったのです。
晩年
彼がついに名声を得ることが出来たのは晩年になってからでした。
50歳を目前にした頃からマネは、16歳の時にブラジルで感染した梅毒の症状が悪化するようになり、左脚の壊疽が進んできました。そんな中でも制作を続け、1881年のサロンに出品した肖像画で銀賞を獲得し、この功績により以後サロンに無審査で出品できることになりました。
また親友が美術大臣になった際にはフランスの最高クラスの勲章を受章することができました。
晩年にして認められるようになってきたマネは1881年末から最後の大作「フォリー・ベルジェールのバー」の制作に取り掛かります。フォリー・ベルジェール劇場とはパリの有名はミュージックホールで、著名なスターを数多く輩出したことでも知られています。
「フォリー・ベルジェールのバー」は好評を博し、マネの画家としての地位は確固たるものになりました。
マネはこの大作を制作して一年後より著しく衰弱していき、壊疽が進んだ左足を切断する手術を受けましたが体調が回復することなく51歳でその生涯を閉じました。
面倒見の良かったことで知られるマネの葬儀には様々なグループ画家が参列し、マネより2歳年下で親交も深かった印象派のドガは、「我々が考えていた以上に彼は偉大であった」と語りました。
マネの絵画の特徴 -ベラスケスとジャポニスム-
近代絵画の父と呼ばれるマネは、それまでに活躍した巨匠たちの技法を受け継ぎながらマネ自らも新しい芸術にチャレンジしていきました。
巨匠ベラスケスから受け継いだ空間表現
マネがルーブル美術館で模写や研究を繰り返す中で最も影響を受けたのが17世紀スペイン絵画の巨匠ベラスケスでした。「オランピア」騒動のあとのスペイン旅行以降は特にベラスケスへの心酔するようになり、ベラスケスの中に自分の理想を見出したとまで手紙に残しています。
マネがベラスケスから受け継いだのは背景の表現技法です。ルネサンス以降絵画の背景は遠近法を用いて立体的に表現されるのが普通でしたが、ベラスケスは遠近法を捨てわずかな影によって奥行きを表現することに成功しました。
ベラスケスの背景表現は自然に見る人を人物に導きます。マネはこのことを空気が人物を包んでいると表現し、生涯研究の対象にしました。
敬愛するベラスケスにインスピレーションを受けた「笛を吹く少年」でしたが、残念ながらこの作品もまたパリでは不評でした。ちなみに描かれている笛は木製のファイフという横笛で、この指の形で吹くとソが鳴るそうです。
ジャポニスムに影響を受けた平面的な画風
1868年から始まった明治維新前後、多くの浮世絵・屏風・染め物などの日本の芸術品がヨーロッパやアメリカに流出し、欧米ではジャポニスムと呼ばれる日本ブームが起こりました。近代への過渡期にあった芸術分野でも日本文化はもてはやされ、多くの芸術家がその影響を受けた作品を制作しています。
マネもジャポニスムの影響を強く受けた画家の一人です。それまでの西洋絵画は科学的に正しく描くことが良しとされ、遠近法や影を用いて三次元空間を表現する明暗法により立体的に描かれてきました。
これに対して極めて平面的に描かれた浮世絵は当時のヨーロッパでは斬新に映りました。マネはこの浮世絵の大胆な色遣いに感銘を受け、平面的で影の少ない新しい画風を生み出しました。また人物の輪郭を力強い筆使いで描くのもマネが浮世絵から取り入れた表現の一つです。
新しすぎたこれらの芸術は当時のパリでは受けませんでしたが、のちに近代絵画の父と称される所以となりました。
マネの代表作の紹介
ここまで有名な作品を取り上げてきましたが、ぜひ知っておきたい他の作品も紹介しておきます。
「エミール=ゾラの肖像」
マネの友人で小説家のゾラを描いた肖像画。後ろに相撲絵の浮世絵が飾られています。また相撲絵の右下に飾られているモノクロの作品はサロンで酷評を受けた「オランピア」。
「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」
女流画家としても有名なモリゾをモデルとして描いた作品。モリゾはのちにマネの弟と結婚しました。先ほど紹介した「バルコニー」で手前に腰かけている女性もモリゾをモデルにしています。
マネの有名な作品の詳しい解説はこちら