近頃自己肯定感という言葉をよく耳にする。
本屋でも自己肯定感に関する本や、自己肯定感の強い子供の育て方の本をよく見かける。
それだけ自己肯定できずに悩んでいる人がいる証左ともいえる。
私はこれまで自己肯定の無さに苦しんだことはない。確かに思うようにいかず自己嫌悪に陥ることはあるし、自分の全てが好きだというわけでもない。
自分の全てが好きだというのはただのナルシズムにすぎず、自己肯定感があることと同義ではない。
むしろ行きすぎたナルシズムは自己肯定できないことの裏返しでさえある。
正しい自己肯定感は自分を強くし、健全な道徳心にも結びつく。
私の周りにも自分をイマイチ受け入れられないと言う人は多い。
自己肯定感の無さは負のスパイラルをもたらす。
そんな人に少しでも参考になればと、自分なりに思う自己肯定感の意義と克服の仕方を書いてみた。
自己肯定感とは何か
そもそも自己肯定感のとはなんだろうか。
"感"とつく以上自己肯定感は主観的な感情に過ぎずハッキリと定義するのは難しい。
一口に言ってしまえば自分を信じているということになるが、それだけでは不十分である。
あえて定義するならば、
自分を信じてくれる人がいると信じている自分を信じている
ということではないだろうか。
他者を想定しない自己肯定はナルシズムにすぎない。真の自己肯定をもってすれば他者を信じられる。
他者を信じるためには、他者を信じると決めた自分を信じるしかない。自分には人を信じることができる能力がそなわっている、人を信じるか信じないかという判断を下すことができる。
すなわち自分の理性と悟性を信じられるということが、他者を信じることの前提にある。
自分の判断能力を肯定しながら他者を否定すれば、人はニヒリズムに陥ってしまう。
他者を信じることは難しい。
それでも人間が確固たる何かを得るためには信じるという行為が不可欠になる。
『ビューティフルマインド』でも自身の判断力に絶対的な自信を持ちながら、他者を信じることを恐れる天才が描かれている。
自己肯定感獲得のためには、独りよがりや情緒の欠如を乗り越えていかなくてはならない。
自己肯定感を獲得する
それでは実際に自己肯定感を獲得していくためには何が必要であろうか。
私たちが何かを得るため、すなわち信じるためには2つのルートが存在する。
一つ目は論理である。
人間(特に西洋人)が人を納得させるときには論理を用いる。正しい論理によって道筋を示してやることによって人は未知の何かを受け入れることができる。
たとえ見たことがなくても酸素と水素から水ができていることはよく知っている。何か新しいことを得る上で、論理は有効な手段である。
ただしこれには、論理の前提を批判する能力が自分に備わっていると確信していることが必要となる。
二つ目は経験である。
私たちの獲得する知のうち、大半は経験から得られる。
たしかに経験は限定化であるという批判はあるが、それでも実際人間が知から経験を排除するにはその絶対数が大きすぎる。
日常のありふれた出来事からコミュニケーション、行動の最適化まで無意識のうちに経験は組み込まれ応用されている。
突き詰めていけば科学でさえも経験にすぎず、明日も同じように科学が通用するとは限らない。万有引力もテコの原理も明日には逆転しているかもしれない。
自己肯定感もまた経験によって得られる。
自己肯定感の出発は人に信じられるところから始まる。
人に何度も何度も信じられることによって、自分は人に信頼されるに値しうる人間だと認識していく。
こうして得られた被信頼感は次第に信頼というエサがなくとも安定するようになり、自己肯定感の土台が完成していく。
はじめはただの思い込みであっても、長い期間を通じて思い込めば信じることと同義になる。
神がいると思い込み続けることが信仰と同義であるのと同じ関係である。
自己肯定スパイラル
自己肯定感を獲得したとしても、それが未来永劫続くわけでない。
信仰でさえもいつか解けてしまう日がくるかもしれない。
常に自己肯定を続けるためには、常に自分に魔法をかけ続けてやる必要がある。
そしてこの魔法も自己肯定を燃料にして繰り返されれる。
そして自己肯定スパイラルをつくり出す。
自己肯定スパイラルは
①何かうまくいかないことがある
②自己肯定感によりそれでも自分は大丈夫だと勇気づけを行う。
③できるまでやる
④できる
⑤自分に自信が付き、自己肯定感が補填される
①に戻る
というサイクルで回り続ける。
自己肯定する癖がついていれば、たとえ小さな火種からでもこのスパイラルを大きくしていくことができる。
おおきな問題や高い壁にぶつかったとしても自分で自分を励まし続け、ついには乗り越えることが出来る。
自己肯定スパイラルを獲得することとは、自分の人生を生きやすくすることなのだ。