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【オススメ】内田樹『寝ながら学べる構造主義』【感想・要約】

オススメ度:★★★★★

「ことばとは、『ものの名前』ではない。」

(p.60)

 

フランス文学者である内田樹が構造主義の入門書として書いた本。構造主義の解説ながら数式などは一切出てこず、具体例が多く挙げられているため初心者でもとても読みやすい本になっている。  

 

要約

第一章

「ポスト構造主義」とは、構造主義の思考方法がひろく社会に浸透したために構造主義そのものが自明なものになった時代である。現代では構造主義的にものごとを考えることは普通になったが、この考え方が超歴史的に存在したわけではない。

構造主義の源流として、マルクスとフロイトを挙げることができる。マルクスは労働することによってのみ「私」を直観できるとし、私たちの思考を規定するのは生産関係だと考えた。一方でフロイトは私たちが無意識こそが私たちの思考を規定すると考えた。またニーチェも二人とは違った側面からほとんどの人間の思考が自由でないこととを主張している。ニーチェは主体性を持たない群衆を「奴隷」と呼び非難し、内からの衝動によって行動する「貴族」やその究極体である「超人」になるべきだと説いた。

 

第二章

ソシュールは構造主義の父と言われている。 ソシュールが構造主義にもたらしたものの一つは、「ことばとは、『ものの名前』ではない」ということである。 これは存在に名前をつけるのではなく、名前をつけることで私たちの思考にある観念が生まれることを意味している。ある言語を使っていることは、すでにある価値体系に取り込まれていることを意味する。このように考えると、私たちの考えのほとんどが外部から取り込まれたものだということが分かる。伝統的に西洋ではまず「私」という主体があり、その主体が外部に働きかけていくという「自我中心主義」が跋扈していた。ソシュール言語学は発想を逆転させ、自我中心主義に致命的な影響を及ぼすことになった。

 

第三章

私たちはあらゆる物事には始まりと取り巻く歴史があることを忘れ、歴史が「いま・ここ・私」に向かって単線的に進んできたと勘違いしがちである。フーコーはこの事実を指摘し、系譜学的思考を受け継ぎある制度が「生成された瞬間」までさかのぼり考察を行った。「生成された瞬間」はのちにロラン・バルトによって「零度」と名付けられている。

 

第四章

ソシュールの定義によれば「記号」とはしるしと意味がセットになっていて、かつその二つの間にいかなる自然的、内在的関係を持たないものを指す。例えば、「稲妻」や「あくび」は自然的な関係で結ばれているため「徴候」と呼ばれ、トイレを示す紳士用の人型マークは現実的な連想で結ばれているために「象徴」と呼ばれ、「記号」とは区別される。

ソシュールは記号学を予言したが、実際に文化現象を「記号」として読み解いたのはバルトであった。ソシュールが言語によって人々の思考が規定されていることを明らかにしたが、バルトは規定要因を「ラング」と「スティル」に分けた。「ラング」とはその名の通り言語のことで外からの規制を指している。一方の「スティル」とは一人ひとりがもつ固有の言語感受性のことで、文体と訳されることもある。

バルトはさらに第三の規制である「エクリチュール」を発見した。「スティル」が個人的なものであったのに対し、「エクリチュール」とは集団における好みを指している。バルトは遍く広まった一見中立的なエクリチュールにも偏見や予断が含まれており、それらが人々のあいだで無意識に蔓延していることを危惧した。

「エクリチュール」と並んでバルトの重要な概念に「作者の死」というものがある。これは作品には作者がいて、その人が言いたいことが作品を媒介して読者に伝達されるという単線的な一連の流れを否定したものである。バルトは作品の代わりにテクストという言葉をつかい、作者のもつ創作の起源から現れるのではなく無数のファクターが固有に絡まりあってできるものだと考えた。

 

第五章

レヴィストロースは『野生の思考』でサルトルの『弁証法的理性批判』を痛烈に批判し、フランス思想界に君臨していた実存主義に死亡宣告を突きつけた。サルトルの実存主義は従来の実存主義にマルクスの歴史観を加えたもので、いわば単線的な歴史観を内包していた。レヴィストロースは『野生の思考』において「未開人の思考」と「文明人の思考」の違いは歴史的発展による違いではないことを明らかにし、サルトルの実存主義の前提である「歴史的状況」を否定した。

レヴィストロースは音韻論用いて親族関係の分析を行い、人間が社会構造をつくり出すのではなく、社会構造が人間をつくりだすことを発見した。さらにレヴィストロースは研究の中で人間の本性というべきものを見つける。それが贈与と反対給付である。贈与と反対給付は「社会を絶えず変化させること」そして「欲しいものは人から与えられることでしか手に入らない」という二つのルールを生み出す。このルールは歴史や地域を超えて人間社会に普遍的に存在している。

 

第六章

ラカンは精神分析を専門とする学者で、その思想はとても難解であることが知られている。本書で紹介されているラカンの概念は「鏡像段階」と「父-の-名」の二つの理論である。「鏡像段階」とは、人間の赤ちゃんが初めて鏡を見たときに「私そのものではないもの」を「私」として受け入れ段階を指していおり、これにより人間は"狂った"状態で生をスタートさせることになる。

二つ目の「父-の-名」とはラカンが「父の否/父の名」という語呂合わせで語ったもので、問題を抱え社会不適合者になってしまった人を再び社会に向かい入れる「エディプス」を指したものである。精神分析における父とは、「私の十全な自己認識と自己実現を抑制する強大なもの」をいう。父は子に母との癒着を禁じ、ものには「名」があることを子に教える。また「名」を教えるということはすでに世界は分節化されており、その意味を知ることはできないという不条理を受け入れることをも同時に伝えている。子はこの不条理を受け入れることで「成熟」するのである。

 

感想

長々と書いてしまいましたが、乱暴にまとめてしまえば構造主義とは社会構造によって人々の思考の大部分は規定されてしまうよ、ということだと思います。

ここから導かれるのは違うバックグラウンドを持っていれば、考えることも見えているものも違うということです。現在の私たちからすればこれは当たり前のことであり、この構造主義的な思考が当たり前になった社会のことを筆者は「ポスト構造主義」と呼んでいるのです。

 

この本のなかで私が最も印象に残ったのは以下の文章です。

ですから、「私が語っているときに私の中で語っているもの」は、まずそのかなりの部分が「他人のことば」だとみなして大過ありません。(p.74)

この後の文章では「アイデンティティ」を軸に考える西洋哲学を批判していきます。そうすると、「私」というものはなくなってしまうのでしょうか。

私はそうは思いません。なぜなら、私のことばが他者からの借り物であっても、そのことばや考えが私たちの中で腹落ちし消化できているならばそれはもう「私のもの」といっていいのではないでしょうか。つまり、私に影響を与えた他者をもひっくるめて私だといえるのです

 

さて世の中に広く受け入れられている構造主義ですが重大な問題もはらんでいると考えています。それは構造主義が相対主義に陥ってしまうという問題です。

構造主義では歴史や社会、共同体ごとに道徳や善悪が決まってしまうという説明ができます。この考え方はエスノセントリズムから脱却できる一方で、あらゆる価値観を同等に扱ってしまうために明らかな悪、すなわち虐殺や差別を否定しえなくなってしまうのです。

ポスト構造主義に生きる私たちはこの点についても十分に考え、乗り越えていかなくてはいけないのではないのでしょうか。