本と絵画とリベラルアーツ

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『生きがいについて』

人生を豊かにし、ハリを与えるものの正体は何なのであろうか。経済的・物質的な豊かさは幸福に直結するのであろうか。

人類に共通するこの問題のヒントとして、この本では「生きがい」を挙げている。

 

p.9 同じ条件のなかにいてもあるひとは生きがいが感じられなくて悩み、あるひとは生きるよろこびにあふれている。

*『夜と霧』でも収容所で絶望するものと、英雄的なものがいた。

 

p.11 生きがいの重要性

わざわざ研究などしなくても、はじめからいえることは、人間がいきいきと生きて行くために、生きがいほど必要なものはない、という事実である。それゆえに人間から生きがいをうばうほど残酷なことはなく、人間に生きがいをあたえるほど大きな愛はない。

 

p.16 生きがいとは何か

なんといっても生きがいについていちばん正直なものは感情であろう。もし心のなかにすべてを圧倒するような、強い、いきいきとしたよろこびが「腹の底から」、すなわち存在の根底から湧きあがったとしたら、これこそ生きがい感の最もそぼくな形のものと考えてよかろう。

 

p.20 子供はみな「生きがい感」をもつ

しかし子供にとっては「あそび」こそ全人格的な活動であり、真の仕事、すなわち天職なのであるから、そこで味わうよろこびこそ子供の最大の生きがい感であろう。

 

p.24 充実した時間の感覚

あまりにもするすると過ぎてしまう時間は、意識にほとんど跡をのこさないからである。...したがって生きるのに努力を要する時間、生きるのが苦しい時間のほうがかえって生存充実感を強めることが少なくない。ただしその際、時間は未来にむかって開かれていなくてはならない。いいかえれば、ひとは自分が何かにむかって前進していると感じられるときにのみ、その努力や苦しみをも目標への道程として、生命の発展の感じとしてうけとめるのである。

 

p.25 どのような構造の中に生きるか

人間はべつに誰からたのまれなくても、いわば自分の好きで、いろいろな目標を立てるが、ほんとうをいうと、その目標が到達されるかどうかは真の問題ではないのではないか。ただそういう生の構造のなかで歩いていることそのことが必要なのではないだろうか。その証拠には一つの目標が到達されてしまうと、無目的の空虚さを恐れるかのように、大急ぎで次の目標を立てる。結局、ひとは無限のかなたにある目標を追っているのだともいえよう。

*自分が勉強の目標を立て続けてきたのはそういうことだったのか

 

p.40 ごまかし

自己に対するごまかしこそ生きがいに感を何よりも損なうものである。

*自助論でも、自分の心の目についての記述があった。

 

p.64 承認欲求

他人に存在をうけ入れてもらう性質のもので和なくては、生きがい感はうまれにくいであろう

*人生の目的論で社会性を重視していたことと同じ

 

p.65 リボー

ひとは自分が世話になったひとよりも世話してやったひとのほうをこころよく思う

*その通り

 

p.

たとえ宿命的と形容されるような苦境にあっても、いっさいを放り出してしまおうか。放り出そうと思えば放り出すこともできるのだ。放り出して自殺やその他の逃げ道をえらぶこともできるのだ。そういう可能性を真剣に考えた上でその「宿命的」な状況をうけ入れることに決めたのならば、それはすでに単なる宿命でもなく、あきらめでもない。一つの選択なのである。そこにはもうぐちの余地はない。そしてぐちこそ生きがい感の最大の敵である。

*夜と霧と本質的には同じこと。今の自分の環境はいかなる事情によるものであれ、究極的には自分で選択したものであり、そこに不平不満を垂れることは人生にいっさいの効用をもたらさない。

 

p.152 悲しみとの融和

悲しみを受け入れるためには、まず「あるがまま」を受け入れ悲しみを客観視し、その上で目標を設置し未来志向に生きる必要がある

*あるがままを受け入れる→実存的に生きるということ

 

 

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