本と絵画とリベラルアーツ

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押し付けられた責任感に意味などない

責任感という言葉を聞いてどんな印象を持つでしょうか。

 

責任感が強い人は立派な感じがして、

逆に責任感の弱い人はどこか頼りない印象を受けます。

 

小学校の時の通信簿を見ると、責任感があるかという欄があり、強い責任感を持っていることが良しとされているのがわかります。

 

社会に出ると、社会人としての責任感を持て、無責任だ、と

責任感があることが当たり前に強要されるようになってきます。

 

それどころか、責任感を持っていることこそが社会人としての最低ラインであり、責任感のない人は社会から退場させられることになります。

 

これだけ責任感が当たり前のように課せられている世の中では、人々は責任感を持たされることに疑問を感じなくなってきています。

その中で、責任感に押しつぶされ消耗してしまう人々も多く出てきています。

 

私たちはこのまま責任感を持ち続けてもいいのでしょうか。

 

そもそも責任感とは何か

《求められるのは責任》

そもそも責任感とは何なのでしょうか。

 

責任責任感の違いから考えてみます。

 

 

まず責任はどんな場面で発生するでしょうか。

 

例えば、あなたが何か買い物をしたとします。

この時、売り手は製品に対して責任を負わなくてはなりません。

具体的には、もし不良品が消費者の手元にいってしまった場合に返金するなり正常な品と交換するといった補償をしなくてはなりません。

 

これを売り手か責任制といい、消費者保護に役立てられきています。

 

この場合の責任は、責任感ではなく責任です。

 

 

もしあなたが掃除機を買ったとして、その掃除機が最初からうんともすんとも言わないのでメーカーに問い合わせるとします。

 

この時、メーカーの人が責任感のある人であるかどうかは重要なことでしょうか。

 

たしかに、対応が誠実であったり丁寧であることは好印象を与えて、企業のイメージにもつながります。

 

しかし対応が誠実であるとか丁寧であるとかということは、責任感の所与するところではありません。

極論責任感なんてなくても長年の経験とビジネススマイルさえあれば、表面的なものなどいくらでも再現することができます。

 

私たちは責任さえしっかり負ってもらえれば、その内に責任感があるかないかなどどうでも良いのです。

 

責任感では何も補償することはできません。

 

企業に求められているのは責任であり、責任感ででは無いのです。

 

 

《責任感は個人的な問題》

では世間でさんざっぱら押し付けが横行している責任感とはどういったものなのでしょうか。

 

大前提として、責任感は人から負わされるものではない。

 

責任感とは、責任に"感じる"がくっついたものです。

満足と満足感と同じ関係にあります。

 

"感じる"がくっつくことによって、これらの言葉には違いが生まれます。

感じるとは完全に個人的なことであり、絶対的なものです。

 

例えばだれかが寒いと感じたならば、その場の他の人がどんなに暑いと主張しようともその人にとっては寒いのです。

周りの人間が「いや、それはおかしい。お前は間違っている。暑いに訂正しろ。」なんておかしなことを主張したとしても、まかり通るわけがありません。

 

責任感や満足感も個人が感じることである以上、周りからとやかく言うことはまったくもっておかしな話なのです。

 

 

責任を感じる場面について一つ例を挙げておきます。

 

ある女性が10ヶ月近い妊娠期間を無事乗り越え、赤ちゃんを出産し、我が子の顔を初めて見てその手に抱きかかえます。

圧倒的に無力な、希望に満ちた温かさをその手の中に感じながら「この子を何があっても絶対に守ろう」と心に誓います。

 

これは責任でしょうか。

赤ちゃんに押し付けられてこういう気持ちにこのような気持ちになったわけではありませんね。

この女性は自らの内側から溢れる責任を感じたのです。

これこそが責任感そのものなのです。

 

責任感とは、情緒豊かな人間が利他心を感じた時にその内側から溢れ出てくる特別なものなのです。

 

責任感で消耗してはいけない

社会では、人の責任感に干渉できると勘違い人がしばしば責任感の侵害をおかして悩みのタネになっています。

 

責任感が個人的である以上、他者がどうこうしようとすることはおこがましいことなのです。

 

寒いと感じる人に暖かいと感じさせるために部屋の温度を上げることはできても、その人に暖かいと感じさせられるかどうかはまったくの別問題です。

 

 

マネジメントの上手な上司は部下に責任感を与えるのが上手です。

京セラフィロソフィで知られる稲盛和夫は自著のなかで部下にいかに責任感を与えることが大切か繰り返し説いています。

 

一方で、人の上に立つ器量を持たない人が上司となってしまった人は悲惨です。

上司にあれこれと見当違いの手段でケツを叩かれ、ミミズ腫れを作りながら仕事をする羽目になります。

痛みから逃れるために仕事をし、上司は自分のやり方が正しかったと締め付けをきつくする。

まるで鞭打って奴隷を働かせてたからとなんら変わりません。

 

ここで人がいい人は欲しくも無い責任を感じるようになっていくのです。

自分の内から生まれたのでは無い、外的な責任感を背負い続けるのはストレス以外の何物でもありません。

 

一度背負った責任感は二度と軽くなることはなく、上司は載せられるだけ載せてやろうとあなたが潰れるまでいくらでも責任感を載せていきます。

 

重くのしかかった責任感にあなたの足腰は悲鳴をあげ、背骨は軋み、最後はとうとう歩けなくなってしまうのです。

 

他者の用意した責任感に潰されるなんて、そんな面白くないことがあるでしょうか。

 

 

載せてしまって責任感を下ろす方法が一つだけあります。

 

いい人をやめることです。

 

人から責任感を受け取るのをやめるのです。

責任感をやめたって仕事ができなくなるわけではありません。

 

責任感があろうとなかろうとプログラミングのスキルが落ちることもありませんし、運転が下手になるということは無いのです。

 

プログラミングがちゃんとできれば、安全に運転できればなにも問題はありません。

 

人から押し付けられた責任感で消耗してはいけません。

自分の人生を生きるのです。

 

 

もちろん責任感が仕事に人生にプラスに作用することは間違いありません。

 

大事なのはその責任感が内部から生まれたものなのか、誰かに押し付けられたものなのかということです。

 

もし自然に責任感が芽生えたならば、そんな素晴らしいことはありません。

 

芽生えた責任感を大切にするべきです。

責任を感じられることに全力を注ぐべきです。 

 

まとめ

*責任は社会契約の中で補償を担保するためのもの。

*責任感は利他心によって生まれる侵害されえない個人的なもの。

*責任感を人から押し付けられてはいけない、自分の内部で生まれた責任感を大切に愛でよ。