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【本の紹介】瀬川松子『中学受験の失敗学』【要約と感想】

オススメ度 : ☆☆☆☆

 

年々過熱していく中学受験市場。

たくさんのサクセスストーリーが生まれる裏側では、その何倍もの屍が横たわっている。

 

筆者は10年以上の経験を持つ家庭教師。子供と親との間という一番近くで中学受験を見つめる筆者は中学受験に対する疑問を持ち、また暴走する親たちに警鐘を鳴らす。

 

この本のあらすじ

この本は

第1章 止まらないツカレ親の暴走 驚愕エピソード集

第2章 ツカレ親を分析する

第3章 対策編 志望校全滅を避けるために

の3部構成になっている。

 

第1章では筆者が実際に遭遇したトンデモ家族が紹介されている。

どれもこれも読んでいてブン殴りたくなる一家ばかりで、家庭教師と振り回される家族の気苦労がよくわかる。

 

第2章は学校のモンスターペアレントの中学受験版である、ツカレ親の特徴についてみていく。

ツカレ親については後で解説する。

我が子を思う気持ちと世間体と勘違いが合わさったツカレ親はどこまでも暴走し、家族を引きずり回す。

 

最後の章では当事者である子供がバッドエンドを迎えないために、現実的な対策を提案している。

しかし勝手にヒートアップしている親に対して何を言っても焼け石に水であり、家族を救うことができなかったという筆者の気苦労も感じられる。

 

ツカレ親とは??

《ツカレ親の定義》

要領のいい子どもがいる一方で、世の中には思うように勉強が進まない子どもが大勢いる。

不幸なことに、一部の親の中にはこのことが理解できておらず、やればやった分だけ成績が上がると勘違いしている親がいる。

 

筆者はこのような親をツカレ親と呼び、以下とおりに定義している。

 

「子どもの学力に見合わない志望校を掲げ、塾や家庭教師に費やした時間が勉強した時間だという勘違いのもと、どこまでも暴走を続けてしまう親」

 

塾や家庭教師のもとに子どもをやれば成績が上がると信じている親は、本当に必要かわからない苦労まで子どもに負わせることになる。

 

十分に復習する時間も与えられないままインプットを強要される子どもの頭はパンクし、むしろ成績上昇の妨げることさえある。

 

 

⦅ツカレ親の種類⦆

ツカレ親と一口に言っても、親の学歴や裕福度でその性格はまちまちである。

 

筆者はその中でも強烈な3種類のツカレ親について分析している。

 

・庶民系ツカレ親

庶民系ツカレ親は子供に自分よりいい学歴を得てもらい、フリーターやニートになってもらわないために中学受験を考えている。

しかし自分自身は教養が薄い上、受験自体に対する興味は低いため塾に丸投げしようとする傾向がある。

 

ツカレ親ポイントとしては、中途半端にしか知識や関心がないために現実を適切に把握できておらず、無理な受験校でも楽観して特攻してしまう傾向にある。その結果、受験校全滅という悲劇も。

 

・セレブ系ツカレ親

セレブ系親の特徴は、学歴や社会的地位が比較的高く、自らを「勝ち組」であると自負していることだ。

それにより子供を高い学歴を得させようとする庶民系とは対照的に、セレブ系では子供が「負け組」になることを過剰に危惧する。

世間体の現状維持のために名門中学へ子どもを入れようと、小さいうちから英才教育を施そうとする。

 

子どもの成績が思うように上がらないとき、とりあえず塾の量を増やせば解決できると考え、ずぶずぶと塾や家庭教師に依存するようになっていってしまう。

 

・エリート系ツカレ父親

またセレブ系ツカレ親に顕著な例として、エリート系ツカレ親父の存在があげられる。

挫折を知らない彼らは、思うように学力をつけられない子供を理解することができず、それどころか自分の子供だからできて当たり前とプレッシャーをかける。

自分で稼ぎ、話し合いの面でも論理的で押しが強いため暴走すると母親よりタチが悪いのがこのエリート親父である。

 

感想

東京で塾講師をやるようになり、地方と都会で私立に対するモチベーションにズレがあることは理解していたが、その裏でこのようなツカレ親が生まれていたことには驚いた。

 

紹介されているツカレ親のエピソードはどれもこれも想像を絶するものばかりで、あまりの酷さにたびたび笑ってしまった。

 

まだ幼い小学生に中学受験をさせるには親の役割が重要なポイントであることは間違いないが、

あくまで受験するのは子どもであり、

子どもが主体でなくてはならない。

 

親や周りの大人が子どもの判断力をどこまで認めるかは分からないが、

それでも受験し、

中高一貫校に6年通い、

大学に進むのは

紛れもなく子ども本人なのである。

子どもの人生においては、子どもが常に主体でなくてはならない。

親に引きずられて傷だらけになりながら受験したってなんの意味があるだろうか。

 

ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』でも周りの大人に期待されるがままに自我を殺し勉強し、入学した学校で壊れていく少年が描かれている。

 

受験する子どもにとっても親は大変頼りになるありがたい存在である。

しかしその親が子どもに対し最大限の関心を払い協力してくれるのでなければ、親の存在なんてものはありがた迷惑の塊でしかないのだ。