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【ベストセラー】細谷功『具体と抽象』【なぜ議論はかみ合わないのか】

オススメ度:★★★★☆

抽象度の高い概念は、見える人にしか見えません。(p.111)

細谷功『具体と抽象』

 

 本書のエッセンス
・具体と抽象の入門書
・噛み合わぬ議論は抽象レベルが原因かも
・抽象度のピラミッドは降りられない

この本を読んで、上司との会話で噛み合わない理由が分かった。

自分が具体的な事象を主張しているのに対し、上司はそれを抽象化し解釈して話していたのだ。そしてそのことに気がついてない私がさらに事象の特殊性を主張し、モヤモヤ…となっていた。

 

具体⇄抽象の概念自体が抽象度が高く、応用範囲が高いのでぜひとも身につけたい能力だと感じた。

 

上流・下流と抽象度・自由度

仕事が上流から下流に進むにつれ、求められる思考が抽象から具体へと移り変わっていく。

 

構想段階といった上流の仕事は創造性が重視され、少人数によって行われる。

一方下流に進むにつれ仕事内容は体系化・標準化できるものとなっていき、分業が進み参画者も増えていく。別の視点で見れば、下流に進むと抽象度と自由度が小さくなっていくともいえる。

 

抽象度のピラミッドは降りられない

言葉や法則、観念といった抽象化のツールは一度手にすると簡単には手放すことができない。

理解するまでは何回な概念だと思われたことも、一度自分のものにしてしまうと、それを使わずに思考すること自体が難しくなってしまう。

 

言葉では、「業界用語」や「カタカナ用語」も同様です。「使っていない人」から見ると、これほど使われて不愉快なものはないですが、使っている人の側からすれば、これを使わずに過ごすのは難しいでしょう。これも抽象化の「一方通行」の例です。(p.119)

 

これは新しいことを学ぶ時によく実感できる。

なんでこんな抽象的な言い回しをするのだろうと初学の時点では不思議に思うものでも、一度理解してしまうとその言い回しが最も適切に思えてくる。これが教える側と教わる側に間に溝を作る原因にもなる。

 

噛み合わない議論

噛み合わない議論というのは、往々にしてみられる。どちらの意見も理にかなっていて、おかしいところは見られないのに、なぜか話がチグハグになる。

このような現象の原因として、それぞれの抽象-具体レベルが異なる可能性がある。

 

本書で紹介されている、「リーダーたるもの、いうことがブレてはいけない」「リーダーは臨機応変に対応すべき」という2つの対立する主張を例に説明する。

この2つの主張はどちらも正しそうに見え、かつ一見真反対のことを言っているように思える。

しかしこの例も、話者の抽象-具体のレベルが異なることによって生じている。

 

前者の「ブレてはいけない」というのは、抽象度の高いレベルでのブレてはいけないという意味である。末端への指示レベルでブレてはいけないという意味ではなく、方針や目的というレベルでブレるべきではないことを指している。

一方後者の「臨機応変に」というのは状況に応じて末端への指示は変わりうることを示しているのであり、核となる目的をコロコロ変えるという意味ではない。

 

すなわち抽象-具体のレベルが異なるだけで、真反対に見えたこれら二つの主張は同じことを話していたのだ。

 

このように噛み合わない議論というのは、主張の違いではなく抽象-具体レベルの違いによって引き起こされている可能性がある。

抽象度の低い側から高い側は見ることができず、逆に抽象度の高い方はこれを手放すことができないのだ。

 

労農派vs講座派

高い抽象レベルの視点を持っている人ほど、一見異なる事象が「同じ」に見え、抽象度の低い視点の人ほどすべてが「違って」見えます。(p.123)

視点の抽象レベルの違いの違いで議論がかみ合わないことが分かると、戦前マルクス経済学の大論争である労農派vs講座派の原因も同じ構造であることが分かる。

 

労農派と講座派の主張の違いというのは、ざっくり言えば日本の経済発展の段階が特殊性を持つか、それとも法則の内側にあるかというところにある。

労農派は諸外国と日本の経済構造の違いに注目し、日本が社会主義に至るには独自の道が必要だと主張している。この方法論は「日本型経営」といった特殊性に重きを置く言説に引き継がれている。

一方の講座派は日本経済の構造も諸外国と同じように封建制→資本制へと移り変わっていると主張した。

 

この違いに注目する方法論と同じ部分に着目する方法論はまさに、この本で繰り返し述べられている<具体の世界に生きる人>と<抽象の世界に生きる人>の方法論の違いと一致する。

 

抽象レベルの違いによるかみ合わない議論は個人の単位だけではなく、アカデミアの単位も起こりうることがわかった。