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【読書感想】辻村深月『家族シアター』【あらすじ】

オススメ度:★★★★☆

 

辻村深月『家族シアター』

著者:辻村深月(1980~)

山梨県石和町生れ。千葉大学教育学部卒業。2004年『冷たい校舎の時は止まる』で第31回メフィスト賞を受賞しデビュー。2018年に『かがみの孤城』で第15回本屋大賞を受賞。ペンネームの「辻」の字は大ファンである綾辻行人から取られている。

 

感想

私が最も印象に残ったのは作品は『タイムカプセルの八年』だ。この物語は、一言で言えば【ヒーロー】の物語である。以下があらすじである。

 

息子が小学六年生になったタイミングで、私は「親父会」なるものに半強制的に参加させられるようになった。息子の担任は生徒からも人気の高い若い男性教師で、イベントや行事は大いに盛り上がり、最後の年は思い出の一年となった。息子は人気の先生に憧れ、将来の夢は「小学校の先生」になった。

先生は最後にタイムカプセルを埋めようと提案、生徒たちは思い思いに手紙や宝物を入れ、八年後の成人式で開けようと約束した。

と、ここまでが前半のあらすじになる。以下ネタバレを含む

卒業から六年が経ち、息子も高校三年生になる年に、どうもあのタイムカプセルは埋められずに倉庫に眠っているらしいと分かる。あんなに先生に心酔していた息子は「あの先生ならやりかねない」と冷ややかな反応。

私は息子の夢と尊厳を守るため、親父会のメンバーとともにタイムカプセルを探し出し、桜の木下に埋めにいく。

 

主要な登場人物を整理する。

主人公である〈私〉は私大の大学教員で、性格は内向的で人見知り。自分優先のところがあり、息子が産まれてからは家族に対する優先順位で妻と喧嘩している。息子が小さい時には、クリスマスに息子へのプレゼントの購入を後回しにしたあげく忘れ、しこたま怒られた。

比留間先生は私の息子が小学6年生の時の担任の先生で、若く熱血漢で、イベントや行事に力を入れ生徒たちから大変慕われていた。私の息子も比留間先生に憧れて教師を志すようになる。しかし人気の裏で、イベントに力を入れる一方授業が疎かになったりと、教師としての資質に欠ける部分もあった。

 

さて、物語の前半では〈私〉は冴えず頼り甲斐のない父親として描写され、サンタクロースの役もうまくこなすことのできない【ヒーロー】とは程遠い存在であった。

一方で息子の担任の比留間先生は学校で一番人気の先生で、息子が憧れ教師を目指すほどの【ヒーロー】である。

 

ところが後半ではこの構図が逆転する。

生徒とタイムカプセルを埋めることを約束した比留間先生であったが、実際にはタイムカプセルを倉庫に放置したままにしてしまっていた。さらに行事に力を入れている一方で、授業がおざなりになるなど、生徒からの人気とは裏腹に教師としての責務が果たせていなかったことが明らかになる。

タイムカプセルが在校生の目に触れ、最悪の場合廃棄されることを知った〈私〉は、比留間先生に憧れ小学校教師になろうと志す息子の夢と、望まない形でタイムカプセルが開かれてしまい尊厳が損なわれてしまうことを防ぐためにタイムカプセルを探し、自分の手で埋めようと考える。

自分優先だった〈私〉が息子のために行動し、当人の知らないところで活躍する姿はまさに【ヒーロー】そのものである。

人見知りだった〈私=親父〉が、苦手だったはずの父親たちと協力して息子のために頑張る姿には目頭が熱くなった。不器用でも、自分も誰かの【ヒーロー】になりたいと思った。

 

 

「竹久夢二伊香保記念館」は竹久夢二を知らなくても楽しめる【口コミ】

先日、伊香保まで旅行へ行った。

宿以外は特にノープランの旅だったので、現地でガイドマップを見ながら行き先を決めていく形になった。地図を見ていると「竹久夢二伊香保記念館」というものが目に入り、行ってみることにした。

正直なところあまり竹久夢二には詳しくなく、行って楽しめるか不安が少しあった。しかし実際に行ってみると、数々の仕掛けと展示によって、竹久夢二を知らなくても十分に楽しめることがわかった。

 

この記事は竹久夢二に詳しくない人から見た「竹久夢二伊香保記念館」を楽しむススメとなっている。

竹久夢二伊香保記念館

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100年前の音色

竹久夢二の代表作「黒船屋」の名前を冠した館、本館 夢二黒船館長で受付を済ませると、広いロビーでアンティーク調の古時計が出迎えてくれる。古時計は今も動いているそうで、30分に一度音が鳴る。

 

そのまま奥に進むと、横長の椅子が並んだ小さな音楽堂のような部屋がある。部屋には100年以上前の大きなオルゴールやピアノが展示されている。これらのアンティークは今でも実際に動かすことができ、かつての音色を聞くことができる。

オルゴールと聞くと、綺麗だが少し甲高い音をイメージする。しかしこの大きなオルゴールは高いながらも重厚感のある、アルトのような素敵な音色を奏でていた。

またピアノ奏者がいる時にはピアノの方の試演が楽しめる。私も幸運なことにその演奏を聞くことができた。

 

ピアノ奏者の後ろには洋館らしい大きな窓があり、その奥の森では蝉が鳴いている。仄暗い部屋に窓から内に光が射し、ベーゼンドルファーと奏者にあたっている。空間は奏者の服装以外一世紀前の変わらない。まるで聴いている私も一世紀前に連れ出されたような気持ちになった。

140年以上前につくられたベーゼンドルファーは、ピアノが弦楽器であったことを思い出させるような音色だった。

 

この演奏が聞けただけでも、この記念館にきた価値があったと感じるほど素晴らしかった

 

和洋融合した空間

通常の入場料に+α支払うと、新館に案内してもらうことができる。せっかくここまできたので、私もその新館に案内してもらうことにした。

 

新館は同じ敷地内にあり、本館からは徒歩3分くらいのところにある。向かう道の途中ではコロナ禍の前まで実際に使われていた喫茶室や、綺麗に手入れされた日本庭園を見ることができる。

 

西洋風であった本館とは変わって、新館は日本建築となっている。

新館では歴史的な日本のガラス作品を見ることができる。そのバリエーションは多岐に渡り、食器、文房具からランプシェード、ステンドグラス、ドアノブまであった。

特に珍しいと感じたものとしては、ウランのグラスがある。これはガラスにウランを混ぜることで黄色がかった色味が出るらしい。グラスそのものには危険性はないが、作る過程で職人が被曝することはあったらしい。今では作成が禁止された大変珍しい作品であった。

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イラストレーターとしての夢二

さて本記念館のメインである竹久夢二の素晴らしい作品ももちろん見ることができる。

竹久夢二と言えば代表作「黒船屋」のような画風のイメージが強い。実際私も夢二についてはあまり詳しくなく、教科書で見た「黒船屋」のイメージしかなかった。

そのため夢二と言えばゴリゴリの日本画家だと思っていたが、そうではなく、多岐に才能を発揮した人物だということが展示を見て理解した。

 

その中でも印象的だったのが、当時の楽譜や商品の表紙を描いたものである。これらの作品は色が鮮やかで、見ていてとても分かりやすい。現代で言えば、イラストレーターと呼べるのではないだろうか。またその画風は漫画に通ずるものがあるとも感じた。

 

 

【感想】『王様の剣』は作画がいい【ディズニー】

オススメ度:★★☆☆☆

1964年公開のディズニー長編作品。

 

イギリスのアーサー王伝説がもととなった作品で、少年アーサーが伝説の王様の剣を抜くまでを描いている。

『王様の剣』



感想

1964年、東京五輪が開催された年に公開されたディズニー映画。アーサー王伝説を元にした小説『永遠の王』の一部を原作として作られている。

私のこの映画のお気に入りポイントは、その絵柄・画風にある。

この映画と近い時期に作られたアニメーション映画には、『眠れる森の美女』、『101匹ワンチャン』、『ジャングルブック』、『おしゃれキャット』などがある。これらの映画は線が手書きのように多重になっていて、柔らかい印象を受ける。

私は小さい頃『101匹ワンチャン』が大好きで、無限ループで見ていた。そのため私の中のディズニー映画の絵柄のイメージはこの時期のものが印象深く、『王様の剣』も疑似的な思い出補正で懐かしく感じる。

またこの時期の作品の特徴的な点として、動物が多く登場することが挙げられる。『眠れる森の美女』のフクロウ、『101匹ワンチャン』のダルメシアン、『おしゃれキャット』のネコ、そして『王様の剣』では魔法使いが魔法で様々な動物に変身し、登場する。

 

最近のディズニー映画は動物であってもそれぞれに個性が与えられ、「ディズニーっぽい犬」を想像しろも言われても、人によって思い浮かべるものがまちまちだと思う。一方『王様の剣』を含む、ディズニー初期の動物たちの絵柄はだいぶ似通っている。多少の違いはあるが、最初の長編作品である『白雪姫』から、1970年代の『くまのプーさん』あたりまでこの傾向が見られる。おそらく目の描き方や身体の構造が共通していることが、全体的なイメージに統一感を与えているのだろう。

『王様の剣』に出てくる動物も「他で見た覚えあるなあ」というものが多々ある。例えば鳥のアルキメデスは『眠れる森の美女』のフクロウとよく似ているし、魔法使い同士の対決で出てくる動物は『ジャングルブック』の動物たちとよく似ている。

私はこの時期の動物の書き方が大好きで、また見たいなとずっと思っているが、すっかり立体感のある質感にシフトしてしまった今ではもう見られることはないだろう。

 

このように作画・絵柄については私の大変好みで素晴らしい作品であったが、ストーリーについては贔屓目に見てもイマイチだと感じた。特に起伏のない流れに、終わりもあっさりしていて拍子抜けした面が否めない。

良かったと思うのは、魔法使いのマーリンが自然主義(科学主義)という設定で、これは目新しさあって良かった。ヨーロッパの世界観を自然主義のアメリカ人が調理したらこうなるのかと納得させられた。

ただその設定も中途半端で、結局戦いは魔法で行ったり、科学の力があまり生かされていなかったのはもったいないなと感じた。

 

西洋の大ストーリーである「アーサー王物語」という素材がいかしきれていかないのが残念だったが、とにかく作画は好みでよかった。

 

 

【感想】『プリティ・プリンセス2/ロイヤル・ウェディング』

オススメ度:★★★☆☆

アン・ハサウェイの映画デビュー作で大ヒット作品の『プリティ・プリンセス』の続編。

 

アン・ハサウェイ演じるミアの女王即位にあたってのいざこざと、スキャンダラスな恋を描いた作品。

『プリティ・プリンセス2/ロイヤル・ウェディング』

あらすじ

21歳となったミアは、祖母であるクラリス女王に代わりジェノヴィア女王に即位するためジェノヴィアに入国する。即位はスムーズに進むはずだったが、近縁者の一人がある法律を持ち出し、自分の甥っ子を国王にするためミアの女王即位を阻止しようとたくらむ。

その法律とは「未婚女性は女王になれない」というものだった。

ミアは女王になるため急遽花婿探しを行う。いい花婿候補者も見つかりすべてが丸く収まると思われたころ、渦中の甥っ子がミアに接近し、二人はただならぬ関係になっていく。

 

感想

サクセス・ストーリーとして完成していた前作とは異なり、今作はスピンオフとしての要素が強めの作品となっている。主には前作で描き切れなかったミアのジェノヴィア女王即位に関する話や、クラリス女王と付き人ジョーの恋の模様が描かれている。

 

気になったのはミアの性格がかなり変わってしまっている点だ。前作でも、初め人前で話そうとすると極度の緊張から吐き気をもよおすほどの内向的な性格が終盤では180度変わっていてたが、今回も180度変わった後の性格が引き継がれ、まるで内気だった設定はなかったかのようになっている。

ただこの勝気な性格は『プラダを着た悪魔』や『マイ・インターン』でも引き継がれているので、アン・ハサウェイの魅力をもっとも引き出す性格だったのかもしれない。

 

さてこの映画の一番の見どころはジュリー・アンドリュースの美声を聞ける点ではないだろうか。『メリー・ポピンズ』や『サウンド・オブ・ミュージック』といった名作で歌唱を披露してきたジュリー・アンドリュースの歌声を聞くことのできる貴重な機会となっている。

しかし実はこの時、彼女の声は万全のものではなかった。1997年に行ったのどの手術の影響で、もともと4オクターブあった声域が大きく縮小してしまっていた。そのため今作での歌唱も音域の狭い曲でのものになってはいたが、内からあふれるオーラや存在感は変わらぬままで、印象的なシーンとなっている。

 

全体としてはアメリカ映画らしい大団円で終わる、シンプルに見ていて楽しい作品になっていた。気軽な気分で見られるので、『プリティ・プリンセス』を見た人はぜひ見てほしい。

 

【あらすじ】『プリティ・プリンセス』は『プラダを着た悪魔』の前に見るべし【感想】

オススメ度:★★★★☆

大女優アン・ハサウェイの映画デビュー作。

アン・ハサウェイ演じるミアは、サンフランシスコの高校でさえない高校生活を送っていた。そんなミアのもとに、15年間音沙汰なかった父方の祖母から連絡が。

それは祖母がヨーロッパの小国の女王で、ミアはその唯一の王位継承者であるという知らせであった。

 

15歳のミアが自分の家族や将来、友人そして気になる異性との関係に悩みながら成長していく、コメディ・サクセスストーリーになっている。

『プリティ・プリンセス』

 

あらすじ

15歳のミア・サーモポリスはサンフランシスコの高校に通うさえない高校生。

学校内では目立たない存在で、本人もそれを望んでいる。とにかく人の前に立つのが苦手で、クラスのディベートでは吐き気を催してしまうほど。友達も少なく、親しくしているもは親友リリーとその兄マイケルくらいであった。

 

ミアの両親は離婚しており、ミアは母親と一軒家に二人で住んでいる。父とは1年に1回誕生日にプレゼントが届くだけの関係であったが、不慮の事故で2か月前に亡くなってしまった。

そんな頃、ミアの母のもとにとある人物から連絡が入った。それはミアの父方の祖母クラリスからであった。そして生まれて初めて会うクラリスから、ミアは初めてクラリスがヨーロッパの小国の女王クラリス・レナルディであり、父亡き後ミアが唯一の王位継承者であることを知らされる。

 

突然の知らせに驚き困惑したミアは王位継承を拒否するが、ひとまず次の建国記念日に行われる舞踏会まで王女としてのレッスンを受けることに同意する。

 

ミアがプリンセスであることは秘密にされるはずであったが、王女としての訓練の中でミアを担当したスタイリストがこのことを口外してしまう。

この暴露によってマスコミは一斉にミアに注目、ミアは学校でも注目の的となってしまう。マスコミはミアを追いかけまわし、デートの様子までもをゴシップする。

 

舞踏会当日の日、ミアは自信をなくしプリンセスとしての自分を放棄し旅に出ようとする。しかしその時たまたま父が遺した手紙を発見し、励まされる。

ミアは雨の中舞踏会に出席すべく飛び出し、来賓の前で王女となることを宣言する。

 

『プラダを着た悪魔』との比較

私の好きな映画の一つに『プラダを着た悪魔』という作品がある。一流ファッション雑誌「ランウェイ」のワンマン編集長ミランダ(メリル・ストリープ)のもとで働き始めたアンディ(アン・ハサウェイ)が悩みながらも自分の道を見つけていくストーリーだ。

本作と『プラダを着た悪魔』には多くの共通点が見出せる。

 

まず一つ目は主演がアン・ハサウェイであるということ。本作はアン・ハサウェイが18歳の時の作品で、映画デビュー作でもある。そして『プラダを着た悪魔』はアン・ハサウェイが23歳の作品になる。

 

二つ目はさえない人物のサクセスストーリーであること。本作の主人公のミアは校内でもしょっちゅう人にぶつかられてしまうほどの存在感の無さで、見た目もゴワゴワの髪に分厚い丸メガネと、ダサい格好をしている。そんなミアもスタイリストによって見た目を変え、女王のレッスンを受けることで立ち居振る舞いが洗練、最後には堂々と自分の意見を大勢の前で述べられるほど立派に成長する。

『プラダを着た悪魔』ではもともと着る物なんかに何も意識せず、クローゼットから適当に取った服を着回してるだけだったアンディが、華やかな世界で働くうちにジミーチュウの靴を履き、シャネルの香水を振りかける美々しい女性へと変化し、その中で自分の生きる道を見つけていく。

 

最後が大物助演女優賞の存在だ。

本作ではミアの祖母でありジェノヴィア女王役としてジュリー・アンドリュースが、そして『プラダを着た悪魔』ではメリル・ストリープが出演し、存在感の演技を見せている。ジュリー・アンドリュースについては次の章でもう少し触れる。

 

このように『プリティ・プリンセス』と『プラダを着た悪魔』には多くの類似点が見出せる。

 

個人的な好みとしては、『プラダを着た悪魔』の方が総合的に見て面白いと思った。どちらも素晴らしい映画であったが、キャラ・ストーリーの深掘りやビジュアル面といった点で優っていると感じた。

 

もちろん、『プリティ・プリンセス』の方が優れている点もある。『プリティ・プリンセス』はコメディ要素が多く盛り込まれ、笑いどころがたくさんある。

特にミアが晩餐会に招待された際の数々のトラブルは、思わず吹き出してしまった。ベタなネタばかりだが、きちんと面白い。

特に気に入ったのは、ミアがテーブルマナーが身についていないために粗相を起こすたびに、首相夫妻が王女に恥をかかせてはいけないと同じ行動をとってくれるシーン。これより滑稽な行動が連鎖して、たたみかけるような笑いになり最高のコメディになっていた。

 

というわけで、どちらも十分に面白い作品であるのだが、両方見るなら絶対に『プリティ・プリンセス』を見てから『プラダを着た悪魔』の順番がいい

アン・ハサウェイの役柄が『プリティ・プリンセス』では学生で『プラダを着た悪魔』では社会人なので、この順番で見る人生の流れとして自然になっている。

またストーリーやキャラの作り込みが『プラダを着た悪魔』の方が深いので、試聴感の重み的にもこの順番がいいと思う。

 

ジュリー・アンドリュースという女優

この映画にハリを与えているのが、祖母でジェノヴィア女王クラリス役で出演しているジュリー・アンドリュースの演技である。

 

ジュリー・アンドリュースは『メリー・ポピンズ』や『サウンド・オブ・ミュージック』で主演を務め、前者ではアカデミー主演女優賞を受賞した名女優だ。

 

『プリティ・プリンセス』では気品ある立ち居振る舞い、ハリのある声で存在感のある演技が印象的だった。「レッツダンス」というセリフは『メリー・ポピンズ』を彷彿とさせ、内心テンションが上がった。

この映画で私が彼女の演技で感動したのは、彼女が女王の気品と一人の祖母としての心情を同時に表現し切った点である。

映画のクライマックス、大勢の名士を招いた舞踏会で、ミアは王女になるか否かを宣言する予定であった。しかしミアはなかなか現れない。女王クラリスはこれ以上招待客を待たせるわけにいかないと、挨拶のスピーチを始める。このシーンの演技がとにかく素晴らしい。このシーンは女王として常に気品を保ち、冷静沈着であろうとしながらも、孫娘が心配でならない祖母の気持ちが混ざり合った複雑な心境を表現した素晴らしい演技になっている。 

 

ささった名言

この映画のメインテーマとなっているのは、ミアが人生の岐路でどのように考え選択していくかという点である。女王のレッスンを受けるか、王女になるかといったミアが悩むポイントでは、様々な人物の言葉がミアを後押ししていく。

普段ならあまり作中の言葉に気を止めないが、今回は自分の中のモヤモヤしているものに刺さったものがあったので、ここに記録しておく。

 

まずはミアがプリンセスになることよりも学校生活の方をやっていきたいと付き人ジョーに愚痴り、王女の継承を辞めてしまいたいと話した時の付き人ジョーのセリフ

自分をやめることは誰にもできない

このセリフはミアが生まれつき王位継承者であるから、プリンセスはミアの存在の一部であり、たとえ職務から逃れてもプリンセスからは逃れられないという意図の発言である。

ただ私はこのセリフを「仕事は辞められても、自分は辞めることはできないから、自分だけは裏切らない」と受け取った。なんとなく自分に失望している時期だったので、歪曲ではあるが、刺さるセリフとなった。

 

そしてもう一つ、最後にミアが舞踏会からエスケープしてしまおうと逃避行の荷造りをしているシーンで見つけた亡き父の手紙での名台詞。

勇気とは恐れぬことではない、恐れを克服しようと決心することなのだ。

臆病者として生きる人生に価値はない。

自分のキャリアから逃げ出してしまいたいと考えていた私には、二言目の「臆病者として生きる人生に価値はない。」というセリフがグサッときた。

 

上手くいかなかったり希望が持てなかったとしても、自分にとって自分の代わりはいないし、自分の代わりにキャリアを歩んでくれる人もいない。最後は自分をどれだけ信じられるかだと気付かされた作品であった。

 

 

 

【あらすじ】ヘミングウェイ『老人と海』【感想】

オススメ度:★★★☆☆

「あれを持ってくるんだった」そういうものはたくさんある、と老人は思った。だが、持ってこなかったんだよな、じいさん。ま、ない物を嘆いたところで仕方がない。あるもので何ができるかを考えるこった。(p.117)

 

ヘミングウェイ『老人と海』

著者:ヘミングウェイ(1899~1961)

アメリカ合衆国イリノイ州生れ。1954年ノーベル文学賞を受賞。1961年散弾銃により自殺。代表作に『日はまた昇る』『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』などがある。

 

感想

ピューリッツァー賞やノーベル文学賞を受賞したヘミングウェイの作品ということで、かなり期待して読み始めました。分かりやすいストーリーや魅力的な登場人物は気に入りましたが、正直なところ、途中までは「他の作品とそんなに違うかな」という感想でした。

 

評価がガラッと変わったのは、巨大なカジキとの戦いを終えた後に入ってからサメとの戦いと、港についてからのシーンでです。

見たこともないほど大きなカジキとの一騎打ちに打ち勝ち、カジキを舟にくくりつけ町まで引いていた老人は、今度はカジキを狙うサメに悩まされます。

幾度にも及ぶサメの襲撃を受け、小さな舟の老人は武器や道具を失っていきます。絶体絶命の危機に陥る老人ですが、悲観的になったり諦めることなく状況に立ち向かい続けます。

「あれを持ってくるんだった」そういうものはたくさんある、と老人は思った。だが、持ってこなかったんだよな、じいさん。ま、ない物を嘆いたところで仕方がない。あるもので何ができるかを考えるこった。(p.117)

が、何とかやってみよう、オールと短い棍棒と舵棒がある限りは。(p.119)

困難の中でも決して諦めない姿勢に心打たれました。○○が無いから出来ない、◇◇だから出来ないではなく、「今あるものでどうしたらできるか」のマインドが普遍的に求められて求めらていることが伝わってきます。

 

不屈の精神もこの作品の素晴らしいポイントですが、それ以上に感動したのが戦った"あと"の描写でした。

沖合から帰る過程で、幾たびも獰猛なサメの襲撃を受けたカジキは肉が食い荒らされ、見るも無惨な姿になってしまいました。大物を持ち帰ることを夢見て戦ってきた老人でしたが、満身創痍でその夢は打ち砕かれ、残っていたのは母港に帰る思いだけでした。

港に着き、カジキの残骸の括り付けられた船を止め、一通りの仕事道具を片付けた後、老人は泥のように眠りました。もはやカジキとの死闘は記憶の果てに行き、勝敗や大物を持ち帰る夢は老人に頭には残っておらず、老人はただ使い果たした生命の回復に努めました。

明くる朝、地元の漁師は老人の舟に括り付けられた巨大物を見て驚きました。

老人の舟のまわりには漁師たちが群がって、わきにくくりつけられたものを眺めていた。…(中略)…「鼻から尻尾まで十八フィート」計っていた漁師が大声で叫ぶ。(p.129)

 

カジキをサメに散々食い荒らされた老人は、この戦いで得たものはもう何も残っていないと感じていました。きっと読者も、老人が全てを失ってしまったと感じたと思います。

しかしそうではなかったのです。カジキの大きな骨が港にあると分かった時、胸が熱くなる思いをしました。

その日の午後、観光客の一段が〈テラス〉でくつろいで、海を見下ろしていた。すると、ビールの空き缶やカマスの死体が浮くなかに、大きな尻尾のついた白くて長い巨大な背骨が浮き沈みしているのに、一人の女性が目を留めた。湾口の外では東の風がどっしりと海を波立てており、つられて背骨も揺られていたのだ。(p.134)

港には、嘴から尾まで繋がった巨大な白い脊椎が、眠る老人の知らないところで優雅に漂っていました。

たしかに、老人は元々の目的であったカジキの肉を失いました。それでも、全力で挑戦し、戦った証は確実にそこに残り、老人には名誉が与えられたのです。このことは、全力で挑み戦うことそれ自体に価値があることを示唆しているのだと感じました。

 

 

【解説】村上春樹『1973年のピンボール』【感想】

オススメ度:★★★☆☆

しかしピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試行)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ……、まるでピンボール・ゲームそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思える。

 

村上春樹『1973年のピンボール』

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著者:村上春樹(1949~)

京都府京都市生れ。早稲田大学第一文学部卒業。1979年『風の声を聴け』で群像新人賞を受賞しデビュー。1987年に発表した『ノルウェイの森』は上下巻1000万部のベストセラーとなり、村上春樹ブームが起こった。2006年にはフランツ・カフカ賞をアジア圏で初めて受賞。主な作品に『海辺のカフカ』『1Q84 』などがある。

 

感想

夏らしい小説であったシリーズ(鼠三部作)前作の『風の歌を聴け』とは打って変わって、一貫してどんよりとした雰囲気の作品だった。他の村上春樹の作品でどんよりした空気を感じ取ったものには『ノルウェイの森』があるが、こちらは死の匂いが充満したようなどんより感で、今回の『1973年のピンボール』は秋が終わり、木々に残った葉が散っていくようなどんより感である。

そんな雰囲気の作品であるため自分自身が元気であるときにはあまり読み進める気にならず、少し嫌なことがあった日や、虚無感に襲われた時にちょっとずつ読み進めた。

 

この本を読んで私が読み取ったのは、「秋から冬へと変わる空気感」だった。

〈僕〉とピンボール、双子の関係や、〈鼠〉と女の子とジェイとの関係もすべてここに集約されるのではないかと思う。初めはストーリーを追いながら読もうとしたが、読み進めていく中で出来事の間の関係性を探すよりむしろ、それぞれの要素が総じて秋から冬への変化のメタファーだと捉えるのが正解だと個人的に感じた。

このように考え方を転換すると、季節感という抽象的なものをここまで長く、かつ正確に描写する村上春樹の力量に脱帽せざるをえない。私はこの頃自分の感じたことや思ったことをできるだけ文章に落とし込もうと努めている。もともとは要約に価値を感じていたが、むしろ主観の多く含まれる感想文の方が私自身の価値に繋がるのではないかと考えるようになった。しかし思ったことを書くのは想像以上に難しく、うまく書けたと思っても読み返してみると本当に言いたかったことから逸れてしまっていることが少なくない。

村上春樹は自身が感じた季節を、具体的な事象に落とし込んで一冊の小説として描いた。この壮大なメタファーは素人には書けない。村上春樹の文体や構成を苦手とする読者もいるかもしれないが、このような視点で読むと評価も変わるのではないだろうか。

今回は真夏に読んだが、11月の終わり頃また再読したいと思った。