本と絵画とリベラルアーツ

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【本の紹介】町田そのこ『ドヴォルザークに染まるころ』

オススメ度:★★★★☆

「お義母さん、ほら見て。クロコンドルの巣が焼けてます。だから、大丈夫。行きましょう」(p.171)

 

町田そのこ『ドヴォルザークに染まるころ』

 

 本書のエッセンス
・廃校前の最後の秋祭りが部隊
・生々しい母親たちの会話と心情
・他人からの印象と内面は全く異なる

 

あらすじ

柳垣小学校は、来年3月に廃校になることが決まっている。

百二十一年の歴史を持つ柳垣小学校であるが、地域の過疎化と校舎の老朽化により、その歴史に幕を下ろすことになった。

最後ということで例年子どもたちの発表を家族が見に来るだけであった「柳垣秋祭り」も地域や卒業生をも巻き込み大規模化され、児童の母親たちは食事の仕込みに前日から追われていた。

 

類は柳垣小学校に通う男の子をもつ母親で、自身も柳垣小学校の卒業生でこの町から出たことがない。父親が町議会議員を務め、夫の悟志も昔からの幼馴染である。

気の弱い類とわがままな悟志はいかにも"九州的"な夫婦であった。

 

ずっとこの町で暮らす類は小学生のころ、町に訪れていた若い画家と当時新婚だった担任教師が教室で不貞行為をはたらいているのを目撃したことがある。その後二人は駆け落ちしてしまったが、類の心には象徴的な出来事として刻まれていた。

 

類が秋祭りの準備をしていると、珍しい男性が訪れてきた。それは画家と担任の行為を共有している唯一の人物である、一つ年下の香坂であった。

香坂との再会に、町に縛られ続けてきた類は新たな感情を抱いていく。

 

小さな町から出られない人と出て行った人、事実と噂話、今と昔、大人と子供、男と女…。さまざまな属性と状況が対比されながらそれぞれの物語が動いていく。

 

感想

他人様の事情や感情について、私たちはついつい分かったつもりになってしまう。

他人のつらさは百ある話に思える一方で、自分の苦しみは唯一無二だと思い込む。

 

この小説では「秋祭り」のなかの出来事を母親たちを中心に多数の視点で描くことで、外から見える印象と本人が抱える感情に大きなギャップがあることを示唆している。

例えば第一章の主人公である類は、地元の名士の家に生まれ、地域に根付いた会社の御曹司と結婚しており、またそのおっとりとした言動と見た目から世間知らずで主張のない人物であると周りから見られている。

しかし実際には類のなかにも出ることのできなかったこの地域に対し檻のような印象をもっており、風景ひとつとっても美しさを感じられずにいた。また夫のわがままを受け入れる良妻に見える一方で、内心は怒りを宿している。

 

特に印象的であったのが校歌合唱の発表でうまく発表のできなかった麦が、このままでは終われないとリベンジを果たすべくカラオケ大会に出場するシーンである。

6人しかいない同級生に参加を呼び掛けるが実際に参加したのは3人だけであったが、彼女らが歌いだすと地元の中学生が演奏を買って出、いつかの卒業生たちも歌いだし大合唱へと輪が広がっていく。

 

外からみると一見少女の行動がみんなを動かした美しい話のように思えるが、彼女の視点からは違った。彼女は一体感のために校歌を歌いたかったのではなく、うまくいかなかった6人での合唱をやり直したかっただけなのであった。

でもやっぱり悲しかった。こんなのはあたしが望んだステージじゃない。わたしはちゃんと歌いたかった。きちんと歌えるところをみんなに見てもらいたかった。(中略)だけど、あたしのリベンジの機会は、もう永遠に失われてしまった。(p.231)

 

相手のことをどれだけわかろうとしても、そこには事情や背景のちがいから一般論では語り切れない部分が必ず残る。そこをわかると言い切ってしまうのはやはり驕りなのであろう。

 

片田舎の雰囲気と秋の空を感じられる秋にオススメしたい小説であった。

 

 

 

【本の紹介】見城徹『読書という荒野』

オススメ度:★★★☆☆

読書とは「何が書かれているか」ではなく「自分がどう感じるか」だ(p.5)

 

見城徹『読書という荒野』

 本書のエッセンス
・見城徹は"究極のロマンチスト"
・読書によって思考するための言葉が得られる
・見城と生きた作家たちとの秘話

 

感想

幻冬舎社長・見城徹が読書を通じて得ようとしているもの、そして見城徹が学生時代、そして編集者時代を通じて愛読してきた作家とその作品について書かれている。

読むだけで見城徹がどれだけ血と汗を流してきたことがわかる。

内容は『たった一人の熱狂』と被る多く、こちらのほうが編集時代の作家との関りが細かく書かれている。自己啓発としては『たった一人の熱狂』のほうがオススメ。

 

見城徹という男

見城徹とは一言でいえば「高い感受性を持ったロマンチスト」ではないだろうか。

幼いときから高い感受性ゆえに劣等感をもち、居場所をもとめ読書に逃避、そしてのめりこむ日々を送った。

慶応大生時代には時代背景も相まって学生運動に参加する。理想主義をかかげ左傾化していくが就職や逮捕といった「現実という踏み絵」をついに踏み抜くことができずサラリーマンとして働きだす。

しかし自己に対しても社会に対しても理想を実現するというロマンチシズムは変わらず、岩もを通す努力で無理を通し道理をひっこめていき、破天荒な結果を残し続けてきた。

 

読書で思考する言葉を手に入れる

人間と動物を分けるものは何か。それは「言葉を持っている」という点に尽きる。(p.5)

 

人間だけが言葉を持ち、社会や自己について思考し、相手に思いを伝えることができる。このとき正確な言葉を持っていなければ、考えていることも伝えられることも限定的になってしまう

ただし辞書的に言葉や結論を集めていても意味がない。自身の琴線に触れてこそ思考の軸として生きてくる。

読書とは「何が書かれているか」ではなく「自分がどう感じるか」だ(p.5)

 

見城と生きた作家たち

この本では見城徹と生きた作家たちについても多く触れられている。

ここで紹介されている作家たちの多くは野性的で太い作家ばかりである。三島由紀夫、石原慎太郎、村上龍、林真理子、山田詠美など言葉に力があり、プリミティブな感覚が中心にある作家の名前が挙がっている。

付き合い方も野性的かつ太く、人生のどこかを時期を飲み明かして過ごしたり、強烈な方法で口説き落としたり、海外に何度も訪れたりと豪快なエピソードにことかかない。

私も好きな石原慎太郎の晩年の仕事である『弟』『天才』も見城徹との関係の中で生まれたことがこの本でわかる。

 

常人には耐ええぬほどの激務であったことは容易に想像できるが、これだけ太く豪快に生きることができたらどんなに素晴らしいかと思った。日に日に細りゆく自分の仕事を見ると、見城徹の1%にも満たない濃度で生きていると自己反省させられてくる。

太く生きられるのは、見城徹にせよ各作家にせよ、強烈に実現したい価値があったからである。自分はどんな価値をこの社会に生み落としたいのかを内省することで、少しでも近づけるのではないかと妄想した。

 

 

 

話を聞いてほしくてエッセイを読む

 

誰かに話を聞いてほしくてエッセイを読む

 

だれかに話を聞いて欲しいとき、私はエッセイを読む。

書き手は問わない。書店で目のあったエッセイを手に取り、無心で文章を追っていく。

 

本を読むのに、話を聞いてもらうというのは変な話かもしれない。本は沈黙して私たちに情報を与えるだけであり、私たちが語りかけても何も答えない。話を聞いてもらうことのは対極にも思える。

「話を聞いて欲しい」というのはどういう状態であろうか。私が思うに「話を聞いてほしい」には2種類の要素が含まれている。

一つは自分の内なる声を外に出したいという要素、もう一つがだれかの頭の中を覗いてみたいという要素である。

一つ目の声を出したいというのは喉にまつわる身体的な話なので読書によって解消されようがないが、後者はエッセイを読むことで満たされる。

新書や他の本でも人の意見はもらえるじゃないかと思うが、頭の中を覗きたいときというのはアドバイスが欲しいのとはちょっと違っていて、あくまで他人の自然な思考というのがどのように流れているかが知りたいだけなのである。結論は欲しくない。こういったときはエッセイが向いている。

 

というわけで話を聞いて欲しかった私は3人の作家のエッセイを続けて読んだので、それぞれ感想を以下に残す。

 

アンディ・ウォーホル『ぼくの哲学』

20世紀のアメリカで商業アートの分野で成功をおさめたアンディ・ウォーホルによる書き散らし。

一貫したテーマがあるわけではなく、ウォーホルがそのときそのときに感じたこと、思ったことが無造作に並べられている。

 

天才というと普段霞でも食べているのかというイメージを持ってしまうが、案外エッセイなどで私生活を知ると親近感をおぼえたりすることが多い。

しかしウォーホルは見た目通りの変わった人であった。もちろんこの本の中でもキャラを通している可能性もあるけれど。

20世紀アメリカのデパートの雰囲気が感じられたのがよかった。

 

綿矢りさ『あのころなにしてた?』

作家・綿谷りさの初のエッセイ。「あのころ」というのは2020年のことで、この年の1月から12月までが日記形式で綴られている。

 

2020年といえばコロナが蔓延をはじめ、東京五輪が延期となり、世界中が手探りでコロナとの関わり方を模索していた時期である。

綿谷りさは子どもをもつ一市民という目線でコロナによって変わっていく社会、それに対応する人々を描いている。

そこで書かれている不安な気持ちというのは当時の自分の気持ちとまったく同じであり、読みながら「あのころ何してたっけな」と自然に思い起こされていった。

あのころは世界中の人の頭の中がコロナでいっぱいであり、いつまで続くのであろうという不安でいっぱいであった。それが数年経ち、コロナも落ち着くと、すっかりあの頃の気持ちは意識しないと思い出せなくなってしまっている。

人間の慣れという性質はのは恐ろしいと同時によくできているなと感じた。

 

谷川俊太郎『一人暮らし』

国語の教科書でおなじみの詩人・谷川俊太郎。

このエッセイが書かれたのは2001年で、谷川俊太郎が70歳くらいのときである。このときですでに老人としての体で書かれているが、2024年現在でもご存命のため今から見ればまだまだ若かったと感じているかもしれない。

 

詩人という仕事は何をしているのかイメージのつきにくい職業である。どこか高尚な印象がある一方で、ディオゲネスのような生活をしているようにも思える。

どちらにしろ一日中詩のことを考えているものだと思っていたが、意外とそうでもないらしい。メール対応などの雑用が多くあり、その合間を縫って詩をつくっている。

また著名な筆者は朗読会や詩人の集まりに招かれることも多いようで、国内外問わず出向いては詩を発表している。中国やデンマークまで出向くこともあるようで、アクティブな70歳だなと感じた。

 

エッセイと一口にいってもこちらの3作品は三者三葉で違った気分で味わえた。

また誰かに話を聞いてほしくなった時には、エッセイを読みたいと思う。

 

【本の紹介】千葉雅也『センスの哲学』に全部書いてあった

オススメ度:★★★★★

「センスがいい」というのは、ちょっとドキッとする言い方だと思うんですよ。(p.10)

 

千葉雅也『センスの哲学』

 本書のエッセンス
・「センス」とはリズムである
・リズムはアナログ/デジタルの両側面を持つ
・リズムは反復と差異から成る

 

あらすじ

 

前半までの感想

これまでブログを書く上で悩んでいたことの答えが、すべてこの本に書かれていた

このブログではいくつかのジャンルについて記事を書いているが、その中でも多いのが読書と映画の感想文である。私が実際に読んだり観た作品の中で、ぜひ紹介したいと思えるものの概要と感想を記事にしている。

 

その際にいつも悩むのが、作品全体で言いたいことと、作品の細部に描かれていることに違いがあり、どちらにフォーカスを当てて語るべきかということである。全体について書くと当たり障りのない内容になってしまい、一方で細部について記載すると話が限定的になってしまい読者に伝わるかという不安があった。

結果的には全体について書くことがほとんどだが、ほんとに言いたいことは細部についてなんだよなとモヤモヤすることがしばしばあった。

 

なぜこのような悩みが生まれるか。これについて『センスの哲学』では大意味と小意味という言葉を用いて説明している。

大意味と小意味についての解説に入る前に、筆者による「センスとは何か」という問いに対する答えのサマリを先に記載する。

 

第一章

センスとは、上手い・下手というベクトルから降り、写実的で再現性のある=上手いからのズレであるウマヘタに近い。センスを自覚するとは、上手い・下手という1次元的なベクトルから意識的に外れてみるということ。

 

第二章

次に対象が「意味」を持つ手前の段階を想定してみる。上手いということは、モデルを巧妙に再現するということであり、ここには意味が見出されている。そうではなく、意味を見出す前のものごとに着目する。するとものごとそれ自体がリズム=強弱の並びとなっている。

すなわちものごとをリズムであると捉えることがセンスである。

リズムは音楽だけの話でなく、形や色についても同様に表現することができる。

 

第三章

リズムは時間的で運動性を持つもの。これは連続的な変化というアナログ的な見方もできるし、存在/不在という0/1のデジタル的な見方もできる

 

第四章

さらに踏み込み「意味を脱意味化」することで意味までもリズムの形にできる。絵や物語、人生は全体で大きな意味(テーマのよつなもの)を持つ。一方でそれぞれをパーツごとの集まりとして見ると、そこにはリズムが存在している。

 

歴史の話

かつては大きな意味を表現することだけが芸術だった。これへのアンチテーゼとして生まれたのが「ツッパリ・フォーマリズム」で、部分から生まれるリズムへ過度に注目することで従来の権威を挑戦しようしようとした。

筆者は「意味がわかることもまた重要である」として、リズムと大意味を両立させようとしている。

 

第五章

人は生存戦略として予測という機能を持ち合わせている。基本的には予測通りにいくことを期待しているが、一方で予測が外れることを楽しめるマゾヒズムも持ち合わせている。つまりリズム=反復と差異であり、反復=安定、差異=予測誤差とも言い換えられる。

 

感想と自分なりの解釈

『センスの哲学』というのはオシャレなタイトルだけれど、何が書いてあるのだろうというのが本書を最初に手に取った時の素直な感想であった。

筆者の自伝のようなものなのか、センスというものに対する哲学的研究の歴史を紹介するものなのか表題からは読み取れなかったからである。

 

 

試しに本を開いてみると、最初の章は以下の文から始まる。

「センスがいい」というのは、ちょっとドキッとする言い方だと思うんですよ。(p.10)

この言葉にまったくその通りだなと思うと同時に、この一文自体にも引き込まれた。なにかこのあと素敵なことが買いてあるのだろうという直感が、この一文から働いた。

 

ではこの本に何が書かれているのかというと、それは「人間のものごとをどう知覚するか」についてである。つまり本当にセンスという捉えどころないテーマの言語化を試みているのだ。

本書の具体例では映画や絵画がよく持ち出されているが、実際のスコープは全芸術をも超えて人間の一般生活を含めてた全知覚対象となっている。

読み進めながら筆者の本書でやりたいことの全容が見えてくるたびに、その壮大さと見事な構成に感動した。

 

○センスとは何か

結論、千葉氏によるセンスの説明の要約は以下である。

①「センス」とはリズムである

② リズムはアナログ/デジタルの両側面を持つ

③ リズムは反復と差異から成る

 

これらについて、あえて千葉氏とは別の順序で説明を試みたいと思う。

まずあらゆる対象を一緒くたにして扱うために、高度な抽象化を行う。

前提:感覚で捉えられる万物は「反復と差異」で表現できる

 

反復とは規則性でありお決まりであり、その領域におけるセオリーである。

例えば絵画の色であれば赤、赤、赤と続けば反復であり、料理の食感であれば柔らかい、柔らかい、柔らかいと続くのが反復である。

実際にはもう少し複雑なセオリーが各分野で発達していて、教科書通りであれば次はこれがくるというのが確立されている。

さらに抽象化してデジタル的に捉えるのであれば、000100010001のような並びは規則性があり反復しているといえる。

 

一方で差異とな規則性を裏切るような動きのことで、デジタルで表現すれば000100011100のような形を取る。

シャキシャキという規則的な食感のサラダの中にあるクルトンや音楽の中にあえて不協和音を入れたりと、調子を外すような役割を負う。

大事なのは具体例がどうであるかということではなく、すべての認知できる対象を抽象化すると「反復と差異」に還元できるということである。

 

この「反復と差異」を手触りのある言葉に言い換えたのがリズムである。

リズムは規則性だけでは面白みが出ない。優れたリズムはセオリーを押さえた上で、あえてそこからはみ出す。すなわち反復の中に絶妙に差異を混ぜているのだ。

つまり反復の中に絶妙に差異を入れられたり、見出せることこそがセンスなのである。

 

さてここまで「反復と差異」をデジタル的に表現してきたが、現実はアナログである。

物語の中に0の状態から1への変化がある時、たとえば生き別れの母に会うようなストーリーであれば「母がいない=0からいる状態=1」への変化が描かれるが、0→1という変化の過程には母の気配を感じたりとグラデーションが存在する。この連続した変化はアナログ的なものであり、人はデジタル的な変化に「ハラハラドキドキ」を感じながら、連続したアナログ的な変化に複雑な面白みを見出す。

 

なぜ人間がセンスという価値観をもつのかという説明のために、人間の身体性を持ち出す必要がある。

人間は恒常性をもつ動物であるので、安定をよしとして過度な環境の変化を嫌う。安定とは無風ではなく状態が規則的に存在できているということであるから、「反復」といえる。

一方で人は適度なストレスを好むマゾヒズム的な側面をも持っている。無限に規則き続いていくような状況では脳が停止していくのを感じることがあるのと同じである。「差異」があることで一定の刺激が生まれ、それが適当であれば快楽へと変化する。

すなわち「反復と差異」がバランスよく存在してる状態というのは、人間にとって心地の良い状態だといえる。

 

このことを筆者は以下のような印象的な言葉で表現している。

ゲームにせよ、芸術的な宙づりにせよ、人間にとって楽しさの本質というのは、ただ安心して落ち着いている状態ではないわけです。楽しいということは、どこかに「問題」があるということです。漠然と問題があって、興奮性が高まっていることが、不快なのに楽しい。楽しさのなかには、そのように「否定性」が含まれている。普通は、否定的なものは避けようとするので、このことは意識に上ってきません。しかし、芸術あるいはエンターテイメントを考えるときに、これは非常に本質的なことです。(p.198)

 

これというのはつまり、神谷恵美子が『生きがいについて』で語っていたことと同義なのではないだろうか。

生きがいは安定からは生まれてこない。なにか腹の底から変えたい、解決したい対象があり=「否定性」、そのためにすべてを賭けるような態度が生きがいである。

 

筆者はセンスを日常の中に落とし込む方法として、まず対象を要素の並びであると見ることから始めるよう提唱している。

身の回りのものから一旦意味を捨象し「反復と差異」として見ることで、ものごとのリズムが見えてくる。そしてそのうち良いリズムというものが身についてくるのである。

 

すぐれた本とは世界の見え方を変えてくれる本だと思う。まさにこの本は新たな視点をわかりやすい言葉遣いで表現しているすばらしい本だと思った。

 

 

【普通なる人の使命について】角田光代『タラント』

オススメ度:★★★★☆

挫折したら、そうしたらまた、ちいさな私たちの使命をさがそう。(p.551)

 

角田光代『タラント』

 

 本書のエッセンス
・発展途上国ボランティアにのめりこんだ学生時代のみのり
・義足の祖父、不登校の甥、若きパラアスリート
・点と点がつながり着火する、そして情熱へ

 

感想

使命感や情熱を感じなくなったのはいつからであろうか。

学生のときは興味のあることややりたいことも沢山あったし、少しでも気になれば飛び込んで話を聞いたりしていた。学内でたまたま見かけたポスターをみてビジネスコンテストに参加したり、誰もとっていない大学院の授業をひとりで受けたりしていた。

どれもこれも強い意思をもって挑戦したことではなかったが、やっていくうちに少しずつ情熱が大きくなり、モチベーションがわき、自分が大きくなっていくのを感じていた。

 

しかし社会人になってからというものそういった情熱の火種は少しずつ小さくなっていき、勉強時間も減り、新しいことに興味を示さなくなり、目の前のことをこなすだけの小さな人間になってしまっている。

 

主人公のみのりも学生時代はなんなくから始まった発展途上国へのボランティアにのめり込んでいき、いつしか自分自身の力で誰かを助けたいという情熱をもつようになっていった。

しかし周りの環境の変化からいつしか関心を失っていき、アラフォーとなったいまではちょっとした変化や責任からも逃れようとする性格へと変わっていた。

学生時代に無邪気にもっていた志は現実に打ちのめされ、結局大きなことを成せるのは選ばれた人たちであり、その他の人間はうかつに手を出すべきではないと。

 

ではその他大勢の人間は使命や情熱とは無縁なのではあろうか。

そうではない。だれだって願望や課題感、問題意識を無意識に持ち合わせている。あとはそれが発芽するかどうかの違いだけである。点と点が繋がるだけでなく、そこに着火されて初めて使命となる。

 

みのりの中では、祖父の友人のパラアスリートの話やアンマンでの難民キャンプでの出来事が点と点として繋がっていた。そこに新聞で何気なく読んだ、ガザで負傷者が増え義肢が不足しているというニュースが飛び込んでくる。

この時の情熱の着火の表現がこの小説のなかで最もゾワっとし、なぜだか目頭が熱くなっていくのを感じた。

え、今、思ったじゃないですか。その記事見て、義足足りないんだ、って思ったじゃないですか。(p.433)

 

心のどこかで使命が自分の元にくるのをみのりは待っていた。自分なんてもうと卑下しながらも、情熱がもう一度湧き上がればなと望んでいた。もちろん自分の意思を変えて周りが動いていくことに恐怖はある。それでも人は情熱を欲しているのだ。

 

私自身情熱を感じなくなった今とてつもない喪失感とつまらなさを感じているが、またどこかで情熱や使命を取り戻せたら良いなと思った。

 

挫折したら、そうしたらまた、ちいさな私たちの使命をさがそう。(p.551)

 

 

【全ブロガー必見】三宅香帆『「好き」を言語化する技術』

オススメ度:★★★★★

好きなものを言語化すると、好きでなくなった時に保存された好きだった気持ちに触れられる(p.60)

 

三宅香帆『「好き」を言語化する技術』

 

 本書のエッセンス
・感情を表現する方法がわかる
・ポジティブな感情は<共感>or<驚き>から生まれる
・うまい書き出しのコツがわかる

 

感想

このブログではこれまで100冊以上の本や映画の紹介記事を書いてきた。しかし心から満足のいく記事がかけたのは数記事程度だと思っている。

自分の感じたことを将来の自分に送る手紙のように書き残せたらいいなと思いこれまで書いてきた。

ただ具体的に良い記事を各トレーニングやコツについて体系的に学んだことはなく、そんな都合の良い教材もないだろうと思いながら文章術の本などを応用して自分なりの記事を書いてきた。

 

なんとなくいいなあと思うフレーズやシーンはあるのに、それを切り貼りして紹介するばかりで本当に伝えたいことがうまく表現できない、もしくはそもそも何が書きたいのか自分の中で具体化されない。そういった歯痒さをずっと抱えていた。

 

この本はそんな悩みをに効く特効薬である。

 

具体的な表現ステップ

表現ステップ

0. 先に他の人の感想を見ない
1. 心に残った部分をメモする
2. その時の感情を言語化する
3. 想定読者との知識差を測る
4. 書き出しを考える
5. 修正する・コツの確認

 

0. 先に他の人の感想を見ない

人の感想に触れると、無意識のうちに他の人の感想に引っ張られてしまう。自分の感想を言語化しきるまでは他人の感想を見てはいけない。

 

1. 心に残った部分をメモする

なるべく詳細に記載することでオリジナルな感想になる。

 

2. その時の感情を言語化する

ポジティブな感情を言語化するヒント
① [共感]自分の体験との共通点を探す
② [共感]好きなものとの共通点を探す
③ [驚き]どこが新しいのかを考える

 

3. 想定読者との知識差を測る

自分の本当に伝えたいことを想定読者に伝わるようにするには、どの情報が必要かを逆算して考える。また専門用語はなるべく説明する。ただし調べてわかることを書きすぎないようにする。

 

4. 書き出しを考える

書き出しで詰まっても元も子もないため、とりあえずエイヤで書き始める。書き出しのコツとしては、メモから良かった要素を取り出して書く、自分語りをしてから共通項を示す、その作品の社会の流れの中での文脈・構造を提示する、問いから始めるなどがある。

 

5. 修正する・コツの確認

作家・森見登美彦は「プロとアマチュアの違いは、修正の数だ」だと述べている。具体的な修正にあたっては文章の順番を変える、削る、見出しをつけるといった方法がある。

 

難しいテクニックながら抽象的なアドバイスにとどまらず、具体的かつ応用の聞くコツが体系的に書かれている良書だった。

特に印象に残ったのは以下の文章である。

好きなものを言語化すると、好きでなくなった時に保存された好きだった気持ちに触れられる(p.60)

まさにこの部分が私がブログを続けている理由であり、書いてきてよかったなと改めて感じた瞬間であった。

ここに書かれているアドバイス、コツを生かしてよりよい記事を書いていきたい。

 

 

【無料駐車場はココ】大洗海岸で日の出が見られるおすすめスポット

大洗は関東屈指の日の出人気スポットである。

とはいえ茨城の海岸線は南北に長く、どこで見るか、またどこに車を停車させるのがベストか悩むところである。

この記事では私が実際に訪れてよかった日の出観測スポットと付近の駐車場を紹介している。

 

おすすめは大洗磯前神社付近

観測スポットのおすすめは、やはり海上の岩場に建てられた鳥居と朝日を同時に拝むことができる 大洗磯前神社付近のスポットだ。

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私が訪れた日は日曜ということもあり、50人以上の人が日の出を拝んでいた。

 

駐車場のおすすめはこの大洗磯前神社に近い、大洗公園 駐車場である。地図での目印は大洗美術館が近い。

大洗公園の駐車場はいくつかあるが、これはめんたいパーク方面から大洗公園に向かい、大洗鳥居下交差点を右折して大洗美術館を抜けた最初の駐車場である。

search.ipos-land.jp

 

おすすめポイントは以下の3点
・無料駐車場(時期時間帯により例外有)
・人気の大洗神社の鳥居と日の出をセットで撮れるスポットまで徒歩2分
・比較的空いている(非正月)

 

私は7月の日曜日に訪れ、日の出時間の30分前くらいに着いたがまだあまり具合は4割程度だった。高速道路の出口からも行きやすく、運転しやすい道のため初心者にもおすすめである。

 

実際に訪れた感想は以下記事にまとめてあるので、気になる方は一読いただきたい。

 

www.artbook2020.com