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【女子禁制】大槻ケンヂ『グミ・チョコレート・パイン』

オススメ度:★★★★★

「人生よ。あたしはね、人生ってグミ・チョコレート・パインだと思うの」

 

大槻ケンヂ『グミ・チョコレート・パイン』

著者:大槻ケンヂ(1966~)

東京国際大学中退。筋肉少女帯など、複数のバンドでボーカルと務める。バンド活動の他にも作詞・作曲を行い、小説家としての顔も持つ。『くるぐる使い』『のの子の復讐ジグジグ』など著書多数。

 

あらすじ

毎日毎日自慰行為に明け暮れる高校二年生、大橋賢三。「学校のくだらないやつらと自分は違う」という思いを映画への熱量に変え、日々映画館通いにいそしんでいる。親友は同じを思いを持つロック好きのカワボン、浅く広い知識をもつタクオ。三人は「何者かになる」ために仲間を集め、ロックバンドの結成することを決意する。しかしその裏では賢三が「くだらないやつら」の一人のはずの山口美甘子に恋に落ち…。

 

感想

読み始めたときは「自分には遠く過ぎた青春物語」だなと、少し引いた目で見ていましたが、パイン編に入ったときには完全に17歳の自分に引き戻されていました。

さてこの小説は見どころが大きく2つあります。一つは恥ずかしくなるほど青春がありありと描かれていること。そしてもう一つは大人になるための試練について。

 

全男子が必ず経験してきただろうもんもんとした高校時代が見事に表現されていて、あまりにも心当たりがありすぎて読んでいて恥ずかしくすらなるほどでした。

例えば賢三が美甘子に遊ぶ予定を確認するときに「ところでこれってデートってやつかな?」と直接聞いてしまう場面があります。はるか昔に青春を置いてきた人からすればなんと無粋なセリフだろうと思うでしょうが、きっと高校生の自分なら聞いてしまったに違いないだろうなと思いますし、なんなら聞いた気もしなくはありません。

このようなリアリティのある高校生の描写がこの小説の面白さを支えています。

 

もう一つの見どころが、大人になることについて。

この小説では「自分の世界に引きこもる高校生」がその殻を破るという流れが幾度かあります。例えば賢三の同級生で引きこもりの山之上を説得して部屋から出そうとするシーンでは山之上のじいさんが、

 人はみんな赤ん坊のころ、半径5メートルの世界で生きておる。自分を中心に世界が動いておると信じ込んでおる。つまり天動説じゃ。ところがこの世の真理は天動説ではない。本当は人間なんぞというのは社会、そして現実という太陽の周りをクルクルクルクルまわるちっぽけな衛星のひとつにすぎんのじゃ。この世の真理は天動説ではなく地動説なのじゃ。自分の小ささを認め、口惜しかろうが無念であろうが、わがままの通用せぬ地動説という真理を認めることが大人になるということじゃ。[グミ編]

と語り、またパイン編ではメンブレを起こした賢三に対しまたじいさんが

「こっちの質問が先じゃ。どうして映画の中の血しぶきは美しくさえあるのに、今お前の吐いたわずかな血はおそろしく思えるのか?」

「教えてやろう。それは現実だからじゃ。現実は痛みと恐怖の連続じゃ。どれだけ映画を見ようと本を読もうと現実の痛みだけは体験しなければ絶対にわからんのじゃ。そして現実の恐怖は・・・立ち向かわなければ乗り越えることができないんじゃ。」(パイン編 p.137)

と話す場面があります。

 

これら二つの場面で共通して訴えているのは、「大人になるということ=理不尽を受け入れる」ということです。

 

『寝ながら学ぶ構造主義』のなかで大人になるということについて、以下のような説明があります。

「父」の干渉によって、「うまくゆかない」ことの説明を果たした気になれるような心理構造を刷り込まれることを、私たちの世界では「成熟」と呼んでいるのです。(p.194)

ここでの「父」とは、「私の十全な自己認識と自己実現を抑制する強大なもの」を指しています。自分たちが生まれる前に世界の分節が完了していて、しかしその分節がどのような基準によって行われたのか分からない=理不尽を受け入れることが大人になることだというのです。

なぜ自分が世界の中心として生まれなかったのか、なぜ現実は痛みをともなうのかは決して理由を知ることができません。ただ理不尽な事実だけが立ちはだかっているのです。そして大人になるためには、その理不尽をまるごと受け入れるしかないのです。

 

ただ青春を甘酸っぱく描くのではなく、むしろ大人への過渡期の脱皮の痛みと痒さが表現されたすばらしい小説でした。おすすめです。