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『コンビニ人間』村田沙耶香【感想・あらすじ】

オススメ度:★★★★☆

「本当に、ここは変わらないわねえ。」

(p.70)

 

村田沙耶香『コンビニ人間』

 

あらすじ

 主人公は36歳未婚、コンビニバイト歴18年の古倉恵子という女性。彼女は情や「普通」といったものが理解できず、幼少期から社会に馴染むことができなかった。 そんな彼女が唯一「世界の部品」となることができたのがコンビニ店員であった。

ある日、安寧の場所であったはずのコンビニに白羽という35歳の男がバイトとして入ってきた。サボり癖があり、あからさまに「コンビニ店員」を見下す白羽は婚活目的でコンビニバイトを始めたという。白羽は古倉を「ムラのお荷物」だとこき下ろすが、ふたりは奇妙な利害の一致から同棲をはじめることなる…

 

感想

この小説を読むと、「自分」というものがいかに曖昧なものなのかを思い知らされます。普段私たちが生きているときには、自分が変わっていっているということになかなか気が付きません。ロルフ・ドベリは『Think clearly』の中で

ほとんどの人は、空港や駅や町と違って、自分の性格がこれから変わるとは思っていない、あるいは変わるとしてもごくわずかだと思っている。

・・・(中略)・・・

実際には、私たちはこれからも、ほぼこれまでと同じように代わり続ける。(『Think clearly』p.170)

 と、人の性格が不定であると語っています。

 

この小説の主人公である古倉は「自分らしさ」というものを持っていないので、その性格や口調、仕草までもが他人のコピーにすぎません。

今の「私」を形成しているのはほとんど私のそばにいる人たちだ。三割は泉さん、三割は菅原さん、二割は店長、残りは半年前に辞めた佐々木さんや一年前までリーダーだった岡崎くんのような、過去のほかの人たちから吸収したもので構成されている。(p.26)

ここまで極端でないにせよ、振り返ってみると私たちの性格というのはその大半が周囲の人間から受け継いだものだとわかります。私たちは常に周囲の人間・環境・社会によって、自分のうちのほとんどを規定されているのです。

もし今自分が「なりたい自分」でないと感じるならば、自分を顧みる前に自分の周りの人間をよくよく観察してみることが重要になるのではないでしょうか。

 

 

経済学部生と読む『資本論』【第一巻 第四篇 第十一章 「協業」】

カール・マルクスの大著『資本論』を通して読み解いていく企画。

使用しているのは岩波文庫版(向坂逸郎訳)の『資本論』です。あくまでここでの見解、解釈は私個人のものであり、必ずしも一般的なものとは限りませんので、その点につきましてはあらかじめご了承願います。

 

 

第一巻 第四篇 第十一章 「協業」

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資本主義の出発点のカギとなるのが今回のテーマである協業です。なぜ協業が資本主義的生産の出発点になるのか、という点に注目しながらこの章をみていきます。

 

協業の定義

まず協業の定義について。

同一の生産過程において、または相異なってはいるが関連のある諸生産過程において、計画的に相並び、相協力して労働する多数の労働の形態を、協業という。(p.254) 

家内で完結せず、ほかの労働者と一緒に働く体系を協業といいます。マルクスが資本論を描いた当時においては、同じ場所に労働者が集まることが協業の条件だと考えられていました。今でしたらリモートワークでの協業も可能ですね。

 

協業はコスト削減をもたらす

協業は二つの面で生産コストの引き下げを達成することができます。ひとつが道具・機械の節約であり、もう一方が人件費の相対的節約になります。

不変資本の価値成分は低下し、したがって、その大いさに比例して、商品の総価値も低下する。 (p.253)

 家内制手工業では各手工業者ごとにひとつの道具が必要でしたが、協業を行うことによって道具のシェアができるので、必要な道具を減らすことができます。その分コスト(不変資本)を抑えることができ、結果として安く商品を販売できるようになります。

 

次に人件費について。

ゆえに、資本家は、100の独立した労働力の価値を支払うのであって、100という結合労働力の価値を支払うのではない。(p.267)

人は協力して働くことで生産性を上げることができます。例えば、一人が生産できる量が1だとしても、100人集まることで150生産できることがあります。この場合でも資本家が支払う給与は一人1に過ぎないため、残りの分は資本家の取り分となります。

 

資本主義の出発点

従来の家内制手工業では効率的に多くの労働者を使って生産を使うことが困難でした。これがひとつの工場に集め協業を行うよう変化したことで、空間的、時間的ロスがなくなり労働全体を指揮するのも以前と比べ簡単になりました。この中で新たに中間管理職のような役割の労働者も生まれていきます。

 

資本主義的生産とは資本家が多くの労働者を雇い、労働者から剰余価値を搾取することで利潤を蓄積するシステムでした。したがって協業とは多くの労働者を一か所に集め効率的な生産を可能にした点で生産様式の転換期となっているのです。

協業とは資本主義的生産の出発点なのです。

 

【オススメ】内田樹『寝ながら学べる構造主義』【感想・要約】

オススメ度:★★★★★

「ことばとは、『ものの名前』ではない。」

(p.60)

 

フランス文学者である内田樹が構造主義の入門書として書いた本。構造主義の解説ながら数式などは一切出てこず、具体例が多く挙げられているため初心者でもとても読みやすい本になっている。  

 

要約

第一章

「ポスト構造主義」とは、構造主義の思考方法がひろく社会に浸透したために構造主義そのものが自明なものになった時代である。現代では構造主義的にものごとを考えることは普通になったが、この考え方が超歴史的に存在したわけではない。

構造主義の源流として、マルクスとフロイトを挙げることができる。マルクスは労働することによってのみ「私」を直観できるとし、私たちの思考を規定するのは生産関係だと考えた。一方でフロイトは私たちが無意識こそが私たちの思考を規定すると考えた。またニーチェも二人とは違った側面からほとんどの人間の思考が自由でないこととを主張している。ニーチェは主体性を持たない群衆を「奴隷」と呼び非難し、内からの衝動によって行動する「貴族」やその究極体である「超人」になるべきだと説いた。

 

第二章

ソシュールは構造主義の父と言われている。 ソシュールが構造主義にもたらしたものの一つは、「ことばとは、『ものの名前』ではない」ということである。 これは存在に名前をつけるのではなく、名前をつけることで私たちの思考にある観念が生まれることを意味している。ある言語を使っていることは、すでにある価値体系に取り込まれていることを意味する。このように考えると、私たちの考えのほとんどが外部から取り込まれたものだということが分かる。伝統的に西洋ではまず「私」という主体があり、その主体が外部に働きかけていくという「自我中心主義」が跋扈していた。ソシュール言語学は発想を逆転させ、自我中心主義に致命的な影響を及ぼすことになった。

 

第三章

私たちはあらゆる物事には始まりと取り巻く歴史があることを忘れ、歴史が「いま・ここ・私」に向かって単線的に進んできたと勘違いしがちである。フーコーはこの事実を指摘し、系譜学的思考を受け継ぎある制度が「生成された瞬間」までさかのぼり考察を行った。「生成された瞬間」はのちにロラン・バルトによって「零度」と名付けられている。

 

第四章

ソシュールの定義によれば「記号」とはしるしと意味がセットになっていて、かつその二つの間にいかなる自然的、内在的関係を持たないものを指す。例えば、「稲妻」や「あくび」は自然的な関係で結ばれているため「徴候」と呼ばれ、トイレを示す紳士用の人型マークは現実的な連想で結ばれているために「象徴」と呼ばれ、「記号」とは区別される。

ソシュールは記号学を予言したが、実際に文化現象を「記号」として読み解いたのはバルトであった。ソシュールが言語によって人々の思考が規定されていることを明らかにしたが、バルトは規定要因を「ラング」と「スティル」に分けた。「ラング」とはその名の通り言語のことで外からの規制を指している。一方の「スティル」とは一人ひとりがもつ固有の言語感受性のことで、文体と訳されることもある。

バルトはさらに第三の規制である「エクリチュール」を発見した。「スティル」が個人的なものであったのに対し、「エクリチュール」とは集団における好みを指している。バルトは遍く広まった一見中立的なエクリチュールにも偏見や予断が含まれており、それらが人々のあいだで無意識に蔓延していることを危惧した。

「エクリチュール」と並んでバルトの重要な概念に「作者の死」というものがある。これは作品には作者がいて、その人が言いたいことが作品を媒介して読者に伝達されるという単線的な一連の流れを否定したものである。バルトは作品の代わりにテクストという言葉をつかい、作者のもつ創作の起源から現れるのではなく無数のファクターが固有に絡まりあってできるものだと考えた。

 

第五章

レヴィストロースは『野生の思考』でサルトルの『弁証法的理性批判』を痛烈に批判し、フランス思想界に君臨していた実存主義に死亡宣告を突きつけた。サルトルの実存主義は従来の実存主義にマルクスの歴史観を加えたもので、いわば単線的な歴史観を内包していた。レヴィストロースは『野生の思考』において「未開人の思考」と「文明人の思考」の違いは歴史的発展による違いではないことを明らかにし、サルトルの実存主義の前提である「歴史的状況」を否定した。

レヴィストロースは音韻論用いて親族関係の分析を行い、人間が社会構造をつくり出すのではなく、社会構造が人間をつくりだすことを発見した。さらにレヴィストロースは研究の中で人間の本性というべきものを見つける。それが贈与と反対給付である。贈与と反対給付は「社会を絶えず変化させること」そして「欲しいものは人から与えられることでしか手に入らない」という二つのルールを生み出す。このルールは歴史や地域を超えて人間社会に普遍的に存在している。

 

第六章

ラカンは精神分析を専門とする学者で、その思想はとても難解であることが知られている。本書で紹介されているラカンの概念は「鏡像段階」と「父-の-名」の二つの理論である。「鏡像段階」とは、人間の赤ちゃんが初めて鏡を見たときに「私そのものではないもの」を「私」として受け入れ段階を指していおり、これにより人間は"狂った"状態で生をスタートさせることになる。

二つ目の「父-の-名」とはラカンが「父の否/父の名」という語呂合わせで語ったもので、問題を抱え社会不適合者になってしまった人を再び社会に向かい入れる「エディプス」を指したものである。精神分析における父とは、「私の十全な自己認識と自己実現を抑制する強大なもの」をいう。父は子に母との癒着を禁じ、ものには「名」があることを子に教える。また「名」を教えるということはすでに世界は分節化されており、その意味を知ることはできないという不条理を受け入れることをも同時に伝えている。子はこの不条理を受け入れることで「成熟」するのである。

 

感想

長々と書いてしまいましたが、乱暴にまとめてしまえば構造主義とは社会構造によって人々の思考の大部分は規定されてしまうよ、ということだと思います。

ここから導かれるのは違うバックグラウンドを持っていれば、考えることも見えているものも違うということです。現在の私たちからすればこれは当たり前のことであり、この構造主義的な思考が当たり前になった社会のことを筆者は「ポスト構造主義」と呼んでいるのです。

 

この本のなかで私が最も印象に残ったのは以下の文章です。

ですから、「私が語っているときに私の中で語っているもの」は、まずそのかなりの部分が「他人のことば」だとみなして大過ありません。(p.74)

この後の文章では「アイデンティティ」を軸に考える西洋哲学を批判していきます。そうすると、「私」というものはなくなってしまうのでしょうか。

私はそうは思いません。なぜなら、私のことばが他者からの借り物であっても、そのことばや考えが私たちの中で腹落ちし消化できているならばそれはもう「私のもの」といっていいのではないでしょうか。つまり、私に影響を与えた他者をもひっくるめて私だといえるのです

 

さて世の中に広く受け入れられている構造主義ですが重大な問題もはらんでいると考えています。それは構造主義が相対主義に陥ってしまうという問題です。

構造主義では歴史や社会、共同体ごとに道徳や善悪が決まってしまうという説明ができます。この考え方はエスノセントリズムから脱却できる一方で、あらゆる価値観を同等に扱ってしまうために明らかな悪、すなわち虐殺や差別を否定しえなくなってしまうのです。

ポスト構造主義に生きる私たちはこの点についても十分に考え、乗り越えていかなくてはいけないのではないのでしょうか。 

 

 

【あらすじ】ブレイディみかこ 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』【感想】

オススメ度:★★★★☆

「それは、カトリック校の子たちは、国籍や民族性が違っても、家庭環境は似ていたからだよ。」(p.59)

  

あらすじ

 ブレイディみかこの息子である「ぼく」の中学生活の最初の1年半をえがいたエッセイ。ブレイディ家はアイルランド人の父と日本人の母(ブレイディみかこ)とその息子である「ぼく」の三人家族で、イギリスで暮らしている。息子の「ぼく」が通う小学校は市内1位の公立のカトリック校で、その卒業生は市の中学ランキング1位のカトリックに進むのが普通となっている。ところが中学校入学申請を出す直前、「ぼく」が選んだのは1位のカトリック校ではなく、元・底辺中学校であった。

 

両親は心配していたが、当の本人はあたらしい生活をエンジョイしているようであった。そんなある朝、母は掃除のためのぞいた息子の部屋でノートの落書きを発見し、ショックを受ける。そこに書かれていたのは、"ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー"という彼の複雑な心境を表現したと思われる言葉だった。

 

ワイルドな環境の中で「ぼく」は人種差別、いじめ、貧富の差、アイデンティティなどさまざまな問題と“ぶち当たり”、乗り越えながら少しずつ親子で成長していく。

 

感想

制度面における日本とイギリスの違いが興味深かったのと同時に、やはり差別問題の背後には経済的分断があると感じた。

まず驚いたのがイギリスの貧困家庭で暮らす子どもが多いことだ。イギリスでは2010年に政権が労働党から保守党に変わったのを機に減っていた子供の貧困が増加し、2016~2017年では貧困家庭で暮らす子どもの割合が1/3にまで増えてしまっている。

家庭の経済事情の変化は子どもたちの社会にも影をおとす。このことを象徴するこんな会話があった。

「...小学校の時は、外国人の両親がいる子がたくさんいたけど、こんな面倒なことにはならなかったもん」

「それは、カトリック校の子たちは、国籍や民族性は違っても、家庭環境は似ていたからだよ。 ...でもいまあんたが通っている中学校には、国籍や民族生徒は違う軸でも多様性がある。」(p.59)

 

生活は文化や慣習よりも経済によって規定される。差別は文化や国籍よりむしろ、生活水準の違いによって生じてしまう。人間は自分と似た環境の人には心を寄せやすいが、生活様式が異なる人には共感しにくい。経済格差が拡大すると人々の生活の違いも増幅させ、結果として民主主義を支える概念である「連帯」を弱めてしまう。

経済格差はミクロレベルでもマクロレベルでも社会を分断してしまうのだと、この本を読んで強く感じた。

 

 

【月300冊読む読書術】佐藤優『読書の技法』【感想】

オススメ度:★★★★★

「重要なことは、知識の断片ではなく、自分の中にある知識を用いて、現実の出来事を説明できるようになることだ。」

(p.58)

 

博覧強記で知られる元外交官の佐藤優氏。 月平均300冊、多い月には500冊もの本を読む佐藤氏はどのように本を読み、その内容を血肉に変えているのだろうか。この本では読み方から始まり、基礎知識の習得法や本の選び方までが語られている。

 

熟読・速読・超速読

この本のエッセンスはなんといっても熟読・速読・超速読という筆者独自の読み方であろう。すべての本を同じ読み方で読むのではなく、本の内容・目的に応じて三つの読み方を使い分けていく。ここでの速読とは一般的に言われている「流し読み」などのテクニックによるものではないことを注意しておく。

熟読…読書ノートをつくりながら3周かけてじっくり読む
速読…一冊30分で読み、その後30分かけて読書ノートを作成する
超速読…一冊5分でよむ

筆者はこの三つの方法を使い分けることで月に300冊もの本を読破している。具体的な内訳としては熟読(3, 4冊)、速読(50~60冊)、超速読(240冊~250冊)と圧倒的に超速読で処理している本の割合が多い。

たった5分しかかけない超速読では何も頭に残らないのではないかという心配があるが、実はこの超速読は十分な理解を目的として行うものではない。超速読の一番の目的は、じっくり読むべき本かどうかを見極めるという点にある。超速読で読むべきと判断された本は熟読、速読に回されることになる。

 

佐藤氏がこのような本の読み方をする背景には「時間が有限である」こと、彼が功利主義者であることがある。人が一生のうちに読める本の数は限られている。だからこそ私たちは本当に向かい合うべき本を厳選し、その本を読む効果が十分得られるよう熟読しなければならない。

『Think clearly』の著者であるロルフ・ドベリも同書のなかで生涯の中で熟読する本の数を決め、2,3度繰り返し読むことを推奨している。

 

目的意識をもって読む

この本でもっとも印象に残ったのは冒頭の引用にも紹介した

「重要なことは、知識の断片ではなく、自分の中にある知識を用いて、現実の出来事を説明できるようになることだ。」(p.58)

 という部分で、これは学術書を読むうえでの目的を端的に示されている。

 

もちろん読書には小説のように娯楽的な要素や勉強を想定しない楽しみ方もあるが(この点についても本書では触れられている。)、私が今目指している読書は知識を積み重ねていくための読書である。もし知識を蓄積するための読書であるならば、その知識を現実世界にいかしていかなくてはただの「物知り」になってしまう。

 

ただの「物知り」に陥らないためには目的意識をもって読書に臨むことが重要になる。本書でも速読する際の極意として目的意識を持つことが挙げられている。また本書では『詳説 政治・経済』を用いた勉強法が紹介されているが、この中でも

ビジネスパーソンの場合、テーマは仕事をする上で、現在もしくは将来必要なる事項がテーマとなる。今日のための外国語や歴史というような、動機があいまいなままだらだら学習することは時間と機会費用の無駄なのでやめた方がいい。(p.171)

目的意識をもって学ぶことの重要性が指摘されている。

ビジネスや勉強している際には目的意識を持つことは普通であるが、これが読書になるとついつい忘れがちになる。特に内容が難解になるについ「難しいことを知っている」という優越感ばかりが先行し、本来の意味を忘れてしまう。

 

 

私なりの読書ルーティン

本書の内容を踏まえて、私なりの読書法を考えてみた。この方法は今まで自分が実践してきた方法に佐藤氏の技法を加えて改良したものになる。完全に自分用につくったので一般性に欠ける部分があるかもしれない。

《私の読書ルーティン》
⓪読みたいテーマを考え、本を選ぶ 
①タイトル・前書き・目次・結論を読む
②その本を読む目的を考える
 →読書メモに書き込む
③目的を踏まえて本文を一読する  
 →気になった箇所・重要な箇所をコメントとともにメモする
  この時自分の意見だけでなく、前に読んだ本についても触れる
④メモした部分を再読する
 →さらにメモ・コメントする
⑤できあがったメモを再編し、ブログにまとめる
(⑥人に内容を話してみる)

 

昔から行われてきた読書という行為ひとつとっても、方法論を意識するかしないかでその効果は大きく変わってくる。もしあなたが今まで漫然と読書をしていたならば、ぜひこの本を読んで技法を学んでみてほしい。これらの技法を習得したあかつきには、今までよりワンランク、ツーランク上の読書体験ができるに違いない。

 

 

 

 

マルクス・ガブリエル/中島隆博『全体主義の克服』【レビュー・概要】

オススメ度:★★★★☆

今日ではデジタル革命が必要です。民主的な方法で「シリコンバレーの魔女たち」を王座から退位させなくてはなりません。(p.43)

 

 「新実在論」にて一躍時の人となったマルクス・ガブリエル。大学ではシェリングを専攻し、まさにドイツ哲学の延長にいると思われた彼だが、実はその背景には中国哲学があった。この本では中国哲学者である中島隆博とともに、ガブリエルのラディカルな議論が展開されている。

 

現代にはびこる全体主義

 現代の社会的な問題を語るうえで真っ先に挙げられるのはポピュリズムの問題であるが、ガブリエルはこの切り口はあまり有効ではないという。

彼は有効でない理由として、「ポピュリズム」自体が指し示すものが曖昧という点を挙げている。

 

ポピュリズムに代わり彼が現代社会を見るのに持ち出すのは、全体主義の問題である。

近代化は私的な領域と公的な領域に境界線を引いてきた。私的所有が規定され、労働と生活も分離された。これに対し、全体主義とは私的領域を壊すものである。日本や中国、ナチスドイツに見られたように、戦前の全体主義は国家主導で私的空間を破壊していった。家族同士であっても密告が行われ、生活から私的空間が奪われた。

 

一方で、現在進行している全体主義の核心はデジタル化である。国家に代わりIT企業が全体主義的な帝国を形成している。普段私たちはSNSに私的領域をさらけ出し、私的領域と公的領域の境界線を自ら喜んで破壊(すなわち私的領域の破壊)している。各国政府はデジタル化によって私的領域が破壊されていくのを食い止めようと躍起になっている。これが現在の大きなトレンドである。

 

またGAFAといった大手IT企業は利用者から剰余価値を搾取している点にも言及している。わたしたちがインターネットを利用すると、情報がGoogleへ蓄積されていく。Googleはこの蓄積されたデータをもとにサービスを展開し、利潤を得ている。つまり、わたしたちは知らず知らずのうちにGoogleの無給の「労働者」になっているのだ。

この現実に対しガブリエルは「デジタル革命」が必要だと主張している。わたしたちは民主的な方法をもって、「シリコンバレーの魔女たち」を王座から引きずり降ろさなくてはならない。

 

意識

多くの哲学者、科学者によって議論されている意識の問題について、ガブリエルはラディカルな主張をしている。

 

意識はニューロンの発火ではない。脳の一部をなす格子状の構造によって、意識は生まれますが、意識は脳の活動とは何の関係もないのです。(中略)意識は脳の活動ではなく、脳の数学的な構造・形式なのです。 (p.136)

 

これは一見すると脳の構造・形式を物質的に実現することで意識を人工的に生み出せるという主張にもつながりそうだが、ガブリエル自身はそうは考えていない。むしろ、その構造の複雑性により完全な再現は不可能というスタンスをとり、脳自体の完全なシミュレーションはできないと主張している。

 

 

【3本の矢とは】伊東光晴『アベノミクス批判』【失敗か成功か】

オススメ度:★★★☆☆

「安倍首相の現状認識は誤っている」

 

アベノミクスが始まってから7年以上が経つ。この間に安倍政権は戦後最長を更新し、日本経済史・政治史を振り返るうえでも欠かせない出来事となった。

この本ではアベノミクスの初めの3年間ほど(3本の矢が盛んに叫ばれていたころ)についての批判がなされている。 

 

アベノミクス:3本の矢とは

3本の矢とは2013年に「日本再興戦略」で全体像が発表されたアベノミクスの政策運営の柱である。アベノミクスという言葉自体は第一次安倍内閣からあり、2012年11月の衆議院解散あたりに朝日新聞が使用したことがきっかけで使われ始めた。

 

3本の矢は①大胆な金融政策、②機動的な財政政策、③民間投資を喚起する成長戦略の三つからなっている。①大胆な金融政策とは俗にいう「異次元の金融緩和」のことで、インフレを達成するために市中にお金を流し続けることを指す。②機動的な財政政策は、南海トラフ地震に備え大規模な対策(10年間で200兆円)を行う「国土強靭化計画」をはじめとする一連の財政出動を指す。そして三つめの成長戦略は民間の技術革新促進のため規制緩和を行うものである。

 

アベノミクス批判

この本のタイトルからもわかる通り、筆者である伊東教授はアベノミクスについて懐疑的な見方をしている。もう少し正確に言うと元日銀副総裁であった岩田規久男教授への批判が中心となっている。

 

まず一つ目の矢である金融緩和についてみていく。政府はこの金融緩和によって有効需要を増加&物価上昇を期待していた。そして確かに物価上昇は起こった。

しかし筆者はこの物価上昇を「異次元の金融緩和」によるものではないと指摘する。筆者によれば物価上昇は大きな円安によって輸入品価格が上昇(つまり原材料が上昇)したため「コストプッシュ」という形で価格が上昇したのであり、金融緩和の帰結ではないとする。

また日本の株価上昇は、リーマンショック後各国は低金利政策によって株価上昇を遂げた中、残った市場であった日本に外国ファンドが資金を注入したのが原因であり、アベノミクスの成果ではないと話す。実際にデータをみると日銀が「異次元の金融緩和」を発表した時期よりも前から株価の上昇が始まっていたことが分かる。

 

次に2本目の矢である財政出動だが、政府は10年間で200兆円規模の予算を組んで「国土強靭化計画」にあてると話していたが、筆者は実際にはそんな予算は現実的に組みえないと話す。

 

最後に三本目の矢である民間投資の喚起であるが、これは民間で技術革新が起こることを期待した政策であり、技術革新が起こる方法を有しているわけではない。政策そのものに具体性が見られないのだ。あくまで他力本願の政策であり、実現されるかどうかは不透明であると筆者は指摘する。

 

 

感想

この本の中だけでは説明が足りていないと感じている部分(例えば、アベノミクス以前から株価上昇が始まっていたと話すが、アベノミクスが実際にどの程度株価に影響を与えたのかという計量的なデータは示されてない)などはあったが、全体としてケインジアンの立場として適切な批判であったと感じた。

 

ただ終盤は安倍首相の政治的スタンス(筆者はこの部分を第四の矢と表現している)批判が中心となり、経済の話から離れてしまったのが残念であった。伊東教授はこの本から読み取れる中だとやや親中寄りであり、中国大使を務めた丹羽宇一郎氏の名前もたびたび上がっていた。