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【あらすじ】『ピノキオ』で妖精がかけたのは祝福か呪いか【感想】

オススメ度:★★★★★

ゼペット、あなたは人々に幸せを与えてました。願いを叶えましょう

 

『ピノキオ』

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あらすじ

昔々、ネコや金魚と暮らすゼペットというおじいさんがいた。ゼペットは松の木でできた男の子の操り人形を完成させ、願い星に「本当の子どもになりますように」と願った。

するとその晩、願い星の妖精が現れ、操り人形に命を吹き込みピノキオは動けるようなった。

しかしピノキオはまだ本当の男の子にはなっていなかった。本当の男の子になるためには、勇敢で正直で思いやりがなくてはならない。妖精はジミニー・クリケットをピノキオの良心として働くよう魔法をかけた。

明くる日、ピノキオは本当の男の子になるために学校に向かうが、道中現れた誘惑に負けてしまい...

 

感想

小学生のころ、図書館でカルロ・コッローディの『ピノッキオの冒険』を読んだ。とても分厚く重たい本だったが、とても面白く読み切った覚えがある。

 

ディズニー映画『ピノキオ』はその『ピノッキオの冒険』を原作としたアニメーション作品である。原作は社会風刺のきいた残忍なシーンもある少々グロッキーな作品であったが、映画ではディズニーらしい物語に変更されている。

さて『ピノキオ』のカギとなるのが、ただの操り人形であったピノキオに魔法をかけ人間の子供のように動けるようにしたブルー・フェアリーの存在である。ゼペットじいさんが祈った願い星の化身として、ピノキオたちの前に現れる。

ブルー・フェアリーはストーリーの中で5回魔法をかける。1回目はピノキオを意志をもった操り人形に変えた時。2回目はジミニー・クリケットをピノキオの良心に変えた時。3回目は嘘をついて伸びてしまったピノキオの鼻を元に戻す時。4回目でピノキオを人間の子供に変え、5回目でジミニー・クリケットに金のバッジを授けた。

 

そもそもなぜブルー・フェアリーはゼペットじいさんの願いを叶えたのだろうか。映画の中ではピノキオに魔法をかける際に、ブルー・フェアリーはこのように言っている。

ゼペット、あなたは人々に幸せを与えてました。願いを叶えましょう

たしかに童話としては良いことをした褒美として魔法で願いを叶えるというのは自然である。しかし、ゼペットは周りの人に幸せを与えるような利他的な人間なのだろうか。

ゼペットは時計やオルゴール、人形作りの職人として、自宅兼お店のような場所で猫と金魚と一緒に生活している。猫や金魚と仲良くしていることから、ゼペットがどちらかというと内向的な性格であることが見てとれる。

そんなゼペットを周りの人間はどのように見ていたのだろうか。おそらく一種の狂人のような扱いを受けていたのではないだろうか。老人が一人で子供の人形をつくり、ともに踊り回る様はどう見ても異様である。どのような人生を経て今の状況に落ち着いたかは分からないが、少なくとも現状として周囲から人望を集めるような雰囲気は伝わってこない。

そう考えると、ブルー・フェアリーが「ゼペット、あなたは人々に幸せを与えてました。願いを叶えましょう」と言い魔法をかけたことに違和感が湧く。本当にブルー・フェアリーは祝福をもたらす女神なのだろうか。

 

ここからは完全な妄想になってしまうが、私はブルー・フェアリーが祝福でなく呪いをかけたのではないかと思う。

祝福ではなく呪いであることを示す事柄が2つある。1つ目は先ほどのゼペットの振る舞いである。そうして2つ目がブルー・フェアリーのかけた魔法の内容である。

 

前述の通り、ブルー・フェアリーはストーリーの中で5回魔法をかけた。

これらの5回の魔法の中で重要なのが、1・2・4回目である。この3回の魔法では、登場キャラクターの存在に役割を与えている。ピノキオはただの操り人形から意思を持った操り人形、そして本当の子どもに、ジミニー・クリケットはただのコオロギから「ピノキオの良心」への変わる。

 

ピノキオは生を受けたことによって、避けることのできない苦しみを味わうことになる。愛するものとの別れ、求めるものが得られない不満、恨みや辛み、それらすべてと向き合っていかなくてはならない。もしピノキオが木の操り人形のままであれば、苦しみを知ることなく愛され続けたのにである。

ジミニー・クリケットも悲惨である。ただのさすらいのコオロギであったのに、ブルー・フェアリーの魔法によりピノキオから離れることができなくなってしまった。ジミニーは自由を奪う呪いを受けたのだ。

 

このように『ピノキオ』のストーリーは狂人のもとに妖精が呪いをかけに来たと見ることもできる。長々と書いたが、まあ半分冗談で半分本気である。

 

古典作品はさまざな読み方ができる。もちろんこの見方は少数派であるだろうが、他の作品についても自分なりの解釈ができると面白いかもしれない。