本と絵画とリベラルアーツ

※弊サイト上の商品紹介にはプロモーションが使用されています

【価値観】解釈と物語

 

解釈と物語

 

解釈によって自分の物語がつくられる

人生に意味などあるのだろうか。

偶然の重なりによって地球上に有機物がうまれ、より複雑な構造を獲得し、生命が誕生し、進化を繰り返し、人類となり、たまたま私たちとなった。

すべては無数の施行が生み出した偶然であり、ランダムに文字を並べることを永遠に続ければいつかは『ハムレット』と同じ文字列が含まれるように、悠久の時が人をつくり出してしまった。

 

もし突然降り出した雨や、草木の芽吹き、木の葉をゆらす風にどんな意味があると問われたら、私たちは答えることができるだろうか。

雨が落下する原理や草木の成長点、葉の空気抵抗といった原理について、自然科学の言葉を用いて語ることはできるかもしれない。しかしその普遍的な意味といったものを共通の言語で語ることは、詩人や哲学者でも難しいだろう。

 

なぜ目の前の事象に対して意味を見出すことが難しいのかといえば、それは事物に意味が内在していないためである。雨に聞いても雨がなぜ降っているかわからないように、雨それ自体には意味は含まれていない。事物はただ存在・実存するだけであり、意味や理由といったものは先立って持ち合わせてはいない。

物事をじっと見つめても、それらの「意味」というものは表れてはこない。ないものを探すのであるのだから、空の宝箱を開け続けるのと同じようにナンセンスである。

 

では「意味」は存在しないのであろうか。知的生命体は追い求める価値を失い、ニヒリズムのなかで生き続けなけらばならないのだろうか。

私はそうは思わない。事物や出来事に意味は含まれなくとも、「解釈」によって意味を見出し価値を取り戻すことができる

 

例えば玄関にきれいな石が配置されていたとする。

このとき、石それ自体は単なる地球上の一座標上にエネルギー的に安定した状態でそこにあるだけで、それ自体は意味は持ち合わせていない。

しかし私たちはその石の艶やきらめき、光沢や絶妙なカーブと角に神秘性を見出し「この石にはなにか魔術的な力がある。きっと魔除けになるに違いない」と強度の高い原子の塊を「魔術的ななにか」と解釈し、価値を見出すことができる。

ほかにも天気が良い日に外に出て「今日はなんだかいいことがありそうだ」とふと思ったり、餌をもらいにきているだけの虫を「懐いている、家族だ」と解釈して愛しむこともできる。

 

解釈はものの見え方や出来事の受け取り方を変え、別の物語をつくりだす。

その物語は英雄譚であったり、悲劇であったり、人によってさまざまである。

 

「運がいい」と思える人はポジティブな解釈が癖付いている。自分にはいつもいいことが起こるという解釈は、自分は幸せであるという物語をつくりだす。幸せな物語を生きている人には正のオーラが満ちているので、またいい人が集まるようになり、「運がいい」ことがまた起こりよい循環が生まれる。

逆に悲劇のヒロインのような性格の人物は、常に自分の身の回りのできごとを悪い方向に解釈している。噂話を悪意で拡大解釈したり、起きてさえいないことを事実と妄信し、周りの人たちを加害者に仕立て上げる。こうなると周りの人物はどんどん離れていき、その離れていくことも捨てられたと解釈し悲劇のページを増やしていく。

 

たいてい人の人生に訪れるイベントなんてほとんど大差はなく、共通しているのは生老病死くらいである。あとの差異は解釈による違いにすぎない。

 

私自身は自分自身に起きた事柄についてことごとく解釈しなければ気が済まない性格をしている。私に訪れた出来事は偶然ではなく、つねに必然的に私が自ら引き寄せたと確信しなくては腑に落ちない。

これはいい出来事・悪い出来事どちらでも同様で、いい出来事であれば普段の行いがよかったのだな、これまで頑張ってきた成果だなと思い、逆に悪い出来事の場合は「何か天が意図をもって私の人生に干渉したのではないか」と疑い、どのように解釈すれば私の物語と整合が取れるか考える。

解釈された出来事は既存の私の大きな物語に合流し、私の人格をさらに強固に形成していく。

 

例えば私がこれまで通った出来事と解釈は以下の通りである。

受験に失敗し、2浪を余儀なくされたときには、天が何か私に与えたい役割があって、入学のタイミングをズラされたと理解した。結果その後新しくできたサークルに入り存分に楽しみ、幹部まで務めた際にはそのために天が浪人させたのだと解釈と物語を固めた。

天気についても雨が降れば、調子に乗るな、気を引き締めろということだと思い、晴れれば私のために晴れたのだなと思う。

また新しい知り合いが増えた時には、「この人はなんのために巡り合わされたのだろう」と考え、納得のいく解釈を探す。

私は私が幸せになっていくと確信しているので、どのように天が幸せに導くつもりなのか興味がある。私は私が幸せになるストーリーを追っていきたい。

 

 

解釈を意識するメリット

解釈を意識しながら生きていくと、いくつかの面でよりよく生きることにつながると考えている。その中でも特にメリットだと感じている3点を紹介する。

 

出来事をポジティブに捉えられるようになる

一つ目は自分の周りでおきた出来事を、ポジティブに考えられるようになることである。出来事というのはたいていは自分ではコントロールできない事象であり、それでいて必ずしもいいこととは限らない。しかしその解釈は自由に変えることができる。

例えば長いこと使っていたお気に入りのカバンを汚してしまい使えなくなった時には「さすがにカバンの寿命も切れ、天からの買い替えろというメッセージだろう」と解釈すれば、心置きなく新しいカバンを買うことができる。

病気の親戚がなくなってしまったときには「お別れは悲しいけれど、親戚が病気の苦しみから解放されたのであればよかったのではないか」と考えることで、悲嘆にくれることもなくなる。

もちろんすべてがすべて前向きに捉えられるわけではないけれど、普段からポジティブに解釈する癖付けを行うことで、失ったから悲しい、亡くなってしまったから辛いなど短絡的に結び付けずに済むようになる。

 

目的思考になる

解釈をつけるということは、目的志向にもつながる。

ただ単に起きていく出来事に対しそのままに受け取っていると、なぜそれが起きたのかという問いに鈍くなっていく。

解釈するような意識がされていれば「なぜ起きたのだろう」「なんのためにここにあるのだろう」という問いが自然に生まれるようになり、目的の仮説をもって動けるようになる。

 

自分らしさのようなものが見えてくる

出来事を解釈し自分の物語をつくりだしていくと、自分らしさのようなものが見えてくる。

人間というのはただの生物なので、その人生をざっくり言ってしまえば起きて食事をして排泄して働いて寝ての繰り返しでしかない。そこに個性や人格は存在せず、生きるために必要な存在にすぎない。

しかし解釈にあたり「自分はこういう人間だからこういう出来事が起きるのだ」「こういう出来事がおきるのだから私はこういう人間なのだ、こういう物語を持つのだ」という考え方を繰り返していくと、次第に自分の物語というものが見えてきて、それが自分らしさにつながっていく。

物語は相対性をもって確立されていき、自己と他者の境界がはっきりすることでその輪郭があらわになる。

 

人生の意味は解釈によって少しずつ明らかになっていき、自分自身の物語それ自体が意味へと変わっていく。人生にどんな意味があるかは分からないが、意味を見つける手段があることが、ニヒリズムから脱却するひとつの救いになるのではないだろうか。