ウロウロした文章。ほんとの雑記。
未知・自己と他者・無意識

未知
分からないことがたくさんある。
歳を取れば分かることが増えると思っていたのに、予想に反してわからないことは増え続けている。
勉強すればするほど、知ろうとすればするほど分からないことが増える。1つ分かることが増えると、2つ3つと分からないことが増えていく。おかげで分かることは増えたはずなのに、今ではすっかり分からないことだらけになってしまった。
まあ分からなくても仕方がないなと思って生きている時と、どうしても分かりたくて仕方がない時がある。
分かりたい欲が爆発して、山のように本を買い込むこともある。ただそうやって買い込んだ本は読まれないことの方が多い。本棚の見えないところに追いやられ、あとで白骨死体のようにホコリが被った状態で見つかる。
最近は後悔しないように積読は控えるようにしてるけれど、今でも衝動買いはやめられてはいない。
せめてもの対策として積読している本も記録しておくことで、すっかり忘れて無縁仏になることを防いでる。忘れないと忘れないで、後ろ髪を引かれて次の本を買いにくくなるのが難点である。
なにも分かるようにする手段は読書だけというわけではない。分からないことが知識なら本を読むのが手っ取り早いけれど、知識以外でも分からないことがたくさんある。
分からないこと。
自分のこと、他人のこと、社会のこと、仕事のこと。
仕事のことは割とシンプルであり、人に相談したりしていくうちに解決することが多い。ぴったりの本が売っていることもある。
困るのが、それ以外の分からないことである。
他人のことも社会のことも分からないことだらけだけど、これらの問題は突き詰めていくと自分自身について知らないことが原因のことが多い。
社会のことというのは結局自分がどういったメガネで世の中を見ているかによることであるし、他人もたいていの場合、自分が関わることを選んだ他人についての話になる。
例えば社会が自然をなぜ大切にしないのかと思うときには、その命題よりもなぜ自分が自然に強い思い入れをしてるかのほうが重要である。
またこの人好きだなと感じるときも、その人のどこが好きかより、自分のどの部分が惹きつけられているかのほうが重要な問題だろう。
結局、いつも問題は自分のことになる。
自分の根源は何なのか、何を欲し何に感動するのか、何になっていくのか。
答えのようなものが出ては隠れていく。
キリスト教の教理問答の基本的なものに以下があるという。
Where does humanity come from? / Where is it going to? / How does humanity proceed?
これはゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』の元となった問答でもある。神学校で学んだゴーギャンはのちにキリスト教を否定しつつも、この問答に影響を受け傑作『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』を描いた。
自分が悩み、追い求めているものはまさにこれであるではないだろうか。
この絵が答えですということにしたいが、なにも腑に落ちていないので問を片づけられない。
どうしたら自分のことが分かるようになるだろうか。
どこまでが先天的に自分で持っているもので、どこからが後天的に手に入れた自分か。
まずい、思考が発散してきた。
自己と他者
私は構造主義者である。
構造主義とは、ある構造が人間の背後に分布のように存在しており、その標本として人間があるという考え方である。
人間が生まれた時から完全に自由な存在なのではなく、(平たく言えば)育った環境によって人格が規定される。何を構造とするかは学者によって異なり、ソシュールは言語体系が、マルクスは経済体系(下部構造)が背後にあると考えていた。
私はマルクスに近い立場をとっているので、経済がどういった人間をつくるか決めると考えている。苛烈な資本主義もとで育つのと牧歌的な封建制のもとで育つのとで思考体系が変わるのは自明に思えるからだ。
そして他者の自由意思をあまり認めていない。
認めていないというのは認可しないという意味ではなく、自分以外の人間に自由意思があると信じていないという意味である。「人」が何か言っているとき、それは「人」の発言ではなく、その背後にある構造が「人」に言わせていると思っている。つまりヘーゲルの世界精神のようなものに全体が支配されており、人間はその現象にすぎないという立場をとる。
例えば、デモが起きたとして、各デモ参加者の自由意思がそうしていているのではなく、背後にある経済構造が、言語体系が、世界精神がたまたま現象したものだという風にとらえる。
もちろん普段人と会話しているときに、この人は意志がなく社会構造のマリオネットだなとはさすがに思っているわけではない。「人」は構造であるが、名前を持つ一個人には自由意思を持っていると思って尊厳をもって接している。
めちゃくちゃなことを言っていると思われると思うが、これらは自分の中で全く矛盾していない。
当然自分自身は自由意思を持っている。
自分だけは構造の影響をまったく考慮することなく生きていけると思っている。
もちろん理論上は背後にある構造に支配されていないわけがないが、カルフォルニアの蝶の羽ばたきに影響を受けないように、実質的に無視できると思っている。
もっと言えば、無視しなければならないと思っている。
なぜならば自分自身が完全な自由意思を持った存在でないと考えてしまうと、自分自身に発生したできごとについて責任転嫁してしまうからだ。「この領域においては自分に自由がなかったから、この問題は自分のせいではない」という論法が成り立ってしまう。
確かに自分の意志でどうにもならないことはいくらでもある。
震災や人為的理不尽、避けがたい不運について自責で生きるのは難しい。しかしどこまでが自責の範囲でどこからが他責の範囲かを自分で決めてしまえば、際限なく他責の範囲が広がっていく。他責の人生は自分の人生ではない。自分の人生でなくなれば、死んでいるのと変わらない。
自分の人生を生きるためには自責の範囲を広げなくてはならず、責任が持てるということは自由であるということである。したがって自分の人生を100%生きることと、100%自由意思があると思って生きることは同義である。
ここで他者にも100%自由意思があると思うと、別の問題が発生する。
その問題とは何か。シンプルに腹が立つのである。他者に自由意思を認める場合、その人に期待してしまう。
自由意思がなければ「仕方がない」で済む。電柱とぶつかって電柱に腹を立てる人はいないが、人とぶつかれば腹が立つ。相手によける自由があるからだ。
しかし他者を自由意思によって動く生命体だと思わず、社会構造の現象体だと思えば余計な腹を立てることもなくなる。
無意識
話を少し戻す。
問いは自分のことをどうすれば分かるかということだった。
もし完全に自分が自由意思を持っているならば、自分のことも完全にわかるのではないか。
そして分からないことがあるということは、自分自身が完全なる自由意思で出来ていないことの証左ではないか。だとすれば、自分自身を自由意思によって動かしている部分と、自由意思によって動かない部分に分ける必要がある。
それは意識と無意識ということになるはずだ。
コントローラブルである意識は自由意思によって動かしているはずであるから、知りたいのは無意識ということになる。
つまり私がこの問いのために向かうべき先は無意識の領域になるのであろう。
ここで、無意識が構造によって規定されると考える。
無意識が構造によって規定されるとき、無意識は自己よりも他者と似ていることになる。なぜなら他者は自由意思を持たず、背後にある構造によって何であるか、どうあるかが決まるからだ。
構造から生まれたの標本であるならば、同じ分布から生まれたほかの標本を調べることで自己の無意識の背後にある構造に迫ることができそうだ。
では同じ日本人、あるいは人類全体を対象に標本の調査を行い構造の同定を行うのがよいだろうか。もちろんこれも一つの正解ではあるだろう。実際社会学者のブルデューは大規模な調査によって階級について解き明かし、文化資本に関わる領域で大きな成果をあげている。
しかし私が調べる対象は、そんな大規模なものである必要はない。なぜなら私が知りたいのは私自身であり、人類一般ではないからだ。
私を知るために必要なのは、私と近い構造をもったごくわずかな親しい知人や友人だろう。社会一般について平く調べるよりも、彼らについてよりつぶさに知ることの方が、自分自身についてより近づけると思える。
私が本当に分からないことの多くは、私自身に通じていた。そして私自身のうち知らない領域とは無意識のことで、無意識が構造に規定されると仮定するならば、私の親しい人々の構造を探ることで、私自身そして本当に分からないことを知ることにつながるのではないか。
以上、雑記。



