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【座右の書】神谷美恵子『生きがいについて』

オススメ度:★★★★★★

自己に対するごまかしこそ生きがい感を何よりも損なうものである。(p.40)

 

神谷美恵子『生きがいについて』

 

 本書のエッセンス
・未来を向いているとき「生きがい」を感じられる
・目標達成は本質的には目的ではない
・自己に対するごまかしが「生きがい感」を損なわせる

 

あらすじ

精神科医で美智子さまの主治医でもあった神谷美恵子は精神医学的調査のためハンセン病の療養所を訪れた。そこで行ったテストにて、多くの患者が未来に希望を持てないとしていた中、一部の患者は生きがいを持ち続けていることに気が付く。

同じ条件の中でも生きがいを持てるものと持てずにいるものの違いは何かという問いから出発し、生きがいとは何か、どこから生まれるのか、また生きがいを損なわせるものはなにか、生きがいを失った人間はどのようにして取り戻していくのかという本質に迫っていく。

 

私見と感想

生きる意味

生きる意味というものを、ずっと考え続けてきた。

 

ある時は生きる意味が具体性を持って目の前に現れるように感じられるときもあれば、そんなものなんてないと厭世的になることもある。

例えばかつて見たことのないようなすばらしいエンターテイメント・ショーを見て感動したときには、自分もいずれこのように人を感動させるものを作り出してみたい、そうでなくても関わって生きていきたいと思えるときもある一方で、たまたま発現した人間という有機物に意味を見出そうとするなんてナンセンスだと感じられるときもあった。

生きる意味をどう捉えるかは、生きていくなかで生じたイベントや読んだ本、他者とのかかわりの中でたえず揺れ動いてきたし、厳密な意味では現在でも同定されているわけではない。

 

そんな形で生きる意味について紆余曲折を経ながらも私なりの答え(のようなもの)がある。

私にとっての生きる意味(人生の目的)とは幸福追求」であり、幸福とは「前よりもよい状態になっていると感じられること」と定義している。

この定義の肝は幸福とは状態ではないということである。例えばあなたが10億円をもっているとしたとき、それは金持ちという状態といえるが、私はそれを幸福だとは考えない。私が幸福だと考えるのは時系列での上向きであるから、お金でいうならば給料が増加しているときが幸福なときだと考える。

『FACTFULNESS』の中で宝くじの高額当選者の幸福度についてある調査結果が掲載されていた。それは高額当選者の幸福度は3ヶ月で当選前の水準に戻るというものであった。つまり当選直後は当選前と比べて資産が増えているため幸福になるが、以降は資産は横ばいか減少するため幸福度は落ち着いていくのだ。

お金に限らず、時間軸上で状態が上向いているときに幸福を感じられる。これは必ずしも自分に限ったことではなく、子どもがいる人ならば子どもの成長を幸福と感じるだろうし、庭に植えた花がつぼみから開花していくときにも同じように幸福を感じられると考えている。

 

さらに言えば実態も直接的には幸福に関係しない。もし実態の推移が幸福度を決めてしまうならば、必然的に衰退の一途をたどる老いのフェーズにおいて幸福を感じることが難しくなってしまう。しかし実際には歳を取ってからも幸福を感じられるわけで、これは状態をどう感じているか、つまり状態を自分のものさしで解釈したときに上向いて入ればよいわけである。

私の祖父は仕事人間だったためリタイア後は萎れてしまうかと心配したこともあったが、いまは現役時代に無縁だった料理に目覚め新たな料理のレパートリーが増えることに日々幸福を感じている。

 

繰り返すと、生きる意味とは自分自身や周囲、あるいは社会がよりよい状態になっていると感じられるように日々を送ることだと考えている。そしてそのために必要なキーワードが「生きがい」と「没頭」である。

 

生きる意味と生きがい

なぜ『生きがいについて』の感想の前に私一個人的な主義信条の話をしたかといえば、私のコアといえる幸福自体が「生きがい」に支えられており、もっといえばそもそもこの主義信条自体に至った出発点こそこの『生きがいについて』であった。

 

自分自身や周囲、あるいは社会がよりよい状態になっていると感じられるようにするためには、いたずらに日々を送っていてはならない。生きる意味と行動を一致させるためには意識的に自己実現できる環境をつくりだす必要があり、このあたりのイメージはマズローの欲求5段階説のピラミッドに近い。つまり下部で安心・安全が担保され、上部に自己実現の欲求が鎮座している状態である。

そしてこの自己実現と生きがいをもって生きている状態が同義であると考えている。

 

自己実現の欲求が満たされているときというのは何かしら自己や周囲に対して価値を生み出せていると感じられているときであり、このとき広義での自己が向上していると感じられているはずであるから、結果として幸福感を得られる。

つまり生きがいを持てていることは、幸福感を得るためすなわち生きる意味を持てることのの十分条件である。

 

未来性

「生きがい」とは何か、神谷は複雑で妙味のあるこの言葉をひとことでは表せないとしつつ、様々な角度から見ることでその正体を明らかにしようとしている。これを明らかにするため、まず「生きがい」を生きがいの対象そのものと、生きがいを感じている心に分けて論じている

 

例えば推し活が生きがいである人であれば、推しが「生きがい」そのものであり、その推しに強く惹かれる心がその人のなかに存在している。生涯をかけて特定の競技に打ち込んでいるアスリートであればそのスポーツが「生きがい」であり、そこから得られる熱狂や快感、達成感などが「生きがい感」になるであろう。

 

本書ではそれぞれについて詳しく分析しているが、私が特に重要だと考えているのが生きがいを感じるとき、それは心が未来を志向しているときであるという神谷の指摘である。

あまりにもするすると過ぎてしまう時間は、意識にほとんど跡をのこさないからである。...したがって生きるのに努力を要する時間、生きるのが苦しい時間のほうがかえって生存充実感を強めることが少なくない。ただしその際、時間は未来にむかって開かれていなくてはならない。いいかえれば、ひとは自分が何かにむかって前進していると感じられるときにのみ、その努力や苦しみをも目標への道程として、生命の発展の感じとしてうけとめるのである。(p.24)

 

現実は常に過酷であり、生きていくのは辛いのが常である。逆に何の苦労もなく人生が進んでしまったら、それはそれではりあいが無い人生になってしまう。

この現実の辛さを耐え忍び歩みを進めていけるのは、未来に向かって進んでいるという実感があるためである。このしんどさの先に未来があると確信しているからこそ、心折れずに突き進むことができるし、生きがい感を得られる。

すなわち生きがいを感じる心には本質的に未来性が内在している。人間には未来に生きようとする意志が備わっているのだ。これを神谷は「生の構造」と呼んでいる。

 

人間はべつに誰からたのまれなくても、いわば自分の好きで、いろいろな目標を立てるが、ほんとうをいうと、その目標が到達されるかどうかは真の問題ではないのではないか。ただそういう生の構造のなかで歩いていることそのことが必要なのではないだろうか。その証拠には一つの目標が到達されてしまうと、無目的の空虚さを恐れるかのように、大急ぎで次の目標を立てる。結局、ひとは無限のかなたにある目標を追っているのだともいえよう。(p.25)

私もこれを読んで、なぜ資格を取得すると次の資格を取得しようと思っていたかに気が付かされた。これまでは自分のスキルを増やすために資格を取得しようとしていると思っていたが、本質的には自分の目指す目標が欲しくて資格を断続的に取り続けていたのだった。

もちろんこれは資格勉強に限らず、キャリアにしろ生き方にしろ自分が目指す先を常に欲しておりそれらは絶えず更新され続けてきた。神谷が指摘しているようにこれは達成することを目的としているわけではなく、自分の人生を見失わぬよう目指す先が明確に存在することが大切なのだと思う。

 

生きがい感を損なわせるもの

生きがい感が失われるのはどのようなときであろうか。

対象としての生きがいが失われることは理不尽や不条理によっても往々にありうる。それは事故で四肢を失ったときであったり、病で愛する人を失ったときであったりする。

一方で「生きがい感」が失われるとき、それは理不尽や不条理によるものでなく、自分自身の責任において生じる問題である。

自己に対するごまかしこそ生きがい感を何よりも損なうものである。(p.40)

 

サミュエル・スマイルズの『自助論』のなかで、だれの監視がないなかでも盗みを働かなかった少年がなぜ盗みを行わなかったか語ったエピソードがある。それは「確かに見ている人がいた、それは自分自身だ」というものである。

自分自身に対する欺瞞を自分自身はよく知っている。できるのにやらなかったこと、頑張れなかったこと、あきらめたこと、間違いだとわかって行った行動は、短期的に利益を得たとしても自己の奥深くに突き刺さり血を流し続ける。

このごまかしが「生きがい感」を損ねていく。

 

『夜と霧』との共通項

最後に私のもう一つの座右の書であるフランクル『夜と霧』との共通項について触れて締めくくりたいと思う。

 

『生きがいについて』ついてはふつうであれば絶望してしまうような、実質死を待つのみとなってしまっていたハンセン病患者の心の持ちようを観察することで絶望的な環境下においても「生きがい」を見出すことができることを発見・分析した作品である。

そのなかでも人間の活力、気力、気高さを象徴するエピソードとして、愛生園にて盲人たちがハーモニカの楽団を組織し、夕焼け小焼けを演奏したときの話がある。

しかし眼がみえず、指も麻痺しているひとたちのグループであるから、まず唇と舌を頼りに読む点字楽譜の勉強から始めなくてはならなかった。「唇がしびれ、舌先から血が滲みでる」ような努力と日数を経て、ようやくともに音楽を奏でることができるようになったときのよろこび―(中略)これほどすばらしい生命の燃焼の光景を筆者はあまりみたことがない。(p.220-222)

 

このエピソードを初めて読んだ時、胸の奥が熱くなり震えるのを感じた。

どんな極限状態、絶望の淵であっても人は人らしく生きることができる。自分の生き方を決めることができるのであると強く感じた。

 

他方の『夜と霧』も極限状態における人々のふるまいを記述した作品である。かの有名なアウシュビッツ収容所にぶち込まれたユダヤ人精神科医であるヴィクトール・フランクルが死の恐怖におびえて生きる人々の中で、決して逆境に屈せず尊厳をもって生きている人を描いた作品である。

 

『生きがいについて』と『夜と霧』はどちらも、いかなる絶望的状況においても人は自分の生き方を自分で決めることができるというメッセージで共通しており、読むものに生きる勇気を与えてくれる。

たとえ宿命と形容されるような苦境にあっても、いっさいを放り出してしまおうか。放り出そうと思えば放り出すこともできるのだ。放り出して自殺やその他の逃げ道をえらぶこともできるのだ。そういう可能性を真剣に考えた上でその「宿命的」な状況をうけ入れることに決めたのならば、それはすでに単なる宿命でもなく、あきらめでもない。一つの選択なのである。そこにはもうぐちの余地はない。そしてぐちこそ生きがい感の最大の敵である。(p.69)

 

裏返していえばいまの自分の状況というのは(ごく一部の例外的な不条理を除き)これまでの自分の選択してきた結果の積み重ねにすぎない。すべては自分の意志で選び取ってきたものの集積である。

そこに対してなにか文句や不平不満を言うことは過去の自分の否定であり、神谷が指摘するように「生きがい感」を損ねる原因になる。

ものごとがうまくいっていないときというのは外部要因に対して腹が立つこともあるが、そんなことをいくら言っても現状は恢復しない。

自らの強い気概で現状を受け入れ、未来に向けて自己精神構造の改革を行い、行動によって未来を変えていくしかないのだ。

 

「生きること」に躓いた時には、いつもこの本がそばにいてくれる気がする。