誰かに話を聞いてほしくてエッセイを読む
だれかに話を聞いて欲しいとき、私はエッセイを読む。
書き手は問わない。書店で目のあったエッセイを手に取り、無心で文章を追っていく。
本を読むのに、話を聞いてもらうというのは変な話かもしれない。本は沈黙して私たちに情報を与えるだけであり、私たちが語りかけても何も答えない。話を聞いてもらうことのは対極にも思える。
「話を聞いて欲しい」というのはどういう状態であろうか。私が思うに「話を聞いてほしい」には2種類の要素が含まれている。
一つは自分の内なる声を外に出したいという要素、もう一つがだれかの頭の中を覗いてみたいという要素である。
一つ目の声を出したいというのは喉にまつわる身体的な話なので読書によって解消されようがないが、後者はエッセイを読むことで満たされる。
新書や他の本でも人の意見はもらえるじゃないかと思うが、頭の中を覗きたいときというのはアドバイスが欲しいのとはちょっと違っていて、あくまで他人の自然な思考というのがどのように流れているかが知りたいだけなのである。結論は欲しくない。こういったときはエッセイが向いている。
というわけで話を聞いて欲しかった私は3人の作家のエッセイを続けて読んだので、それぞれ感想を以下に残す。
アンディ・ウォーホル『ぼくの哲学』
20世紀のアメリカで商業アートの分野で成功をおさめたアンディ・ウォーホルによる書き散らし。
一貫したテーマがあるわけではなく、ウォーホルがそのときそのときに感じたこと、思ったことが無造作に並べられている。
天才というと普段霞でも食べているのかというイメージを持ってしまうが、案外エッセイなどで私生活を知ると親近感をおぼえたりすることが多い。
しかしウォーホルは見た目通りの変わった人であった。もちろんこの本の中でもキャラを通している可能性もあるけれど。
20世紀アメリカのデパートの雰囲気が感じられたのがよかった。
綿矢りさ『あのころなにしてた?』
作家・綿谷りさの初のエッセイ。「あのころ」というのは2020年のことで、この年の1月から12月までが日記形式で綴られている。
2020年といえばコロナが蔓延をはじめ、東京五輪が延期となり、世界中が手探りでコロナとの関わり方を模索していた時期である。
綿谷りさは子どもをもつ一市民という目線でコロナによって変わっていく社会、それに対応する人々を描いている。
そこで書かれている不安な気持ちというのは当時の自分の気持ちとまったく同じであり、読みながら「あのころ何してたっけな」と自然に思い起こされていった。
あのころは世界中の人の頭の中がコロナでいっぱいであり、いつまで続くのであろうという不安でいっぱいであった。それが数年経ち、コロナも落ち着くと、すっかりあの頃の気持ちは意識しないと思い出せなくなってしまっている。
人間の慣れという性質はのは恐ろしいと同時によくできているなと感じた。
谷川俊太郎『一人暮らし』
国語の教科書でおなじみの詩人・谷川俊太郎。
このエッセイが書かれたのは2001年で、谷川俊太郎が70歳くらいのときである。このときですでに老人としての体で書かれているが、2024年現在でもご存命のため今から見ればまだまだ若かったと感じているかもしれない。
詩人という仕事は何をしているのかイメージのつきにくい職業である。どこか高尚な印象がある一方で、ディオゲネスのような生活をしているようにも思える。
どちらにしろ一日中詩のことを考えているものだと思っていたが、意外とそうでもないらしい。メール対応などの雑用が多くあり、その合間を縫って詩をつくっている。
また著名な筆者は朗読会や詩人の集まりに招かれることも多いようで、国内外問わず出向いては詩を発表している。中国やデンマークまで出向くこともあるようで、アクティブな70歳だなと感じた。
エッセイと一口にいってもこちらの3作品は三者三葉で違った気分で味わえた。
また誰かに話を聞いてほしくなった時には、エッセイを読みたいと思う。