オススメ度:★★★★★
「センスがいい」というのは、ちょっとドキッとする言い方だと思うんですよ。(p.10)
千葉雅也『センスの哲学』
本書のエッセンス
・「センス」とはリズムである
・リズムはアナログ/デジタルの両側面を持つ
・リズムは反復と差異から成る
あらすじ
前半までの感想
これまでブログを書く上で悩んでいたことの答えが、すべてこの本に書かれていた。
このブログではいくつかのジャンルについて記事を書いているが、その中でも多いのが読書と映画の感想文である。私が実際に読んだり観た作品の中で、ぜひ紹介したいと思えるものの概要と感想を記事にしている。
その際にいつも悩むのが、作品全体で言いたいことと、作品の細部に描かれていることに違いがあり、どちらにフォーカスを当てて語るべきかということである。全体について書くと当たり障りのない内容になってしまい、一方で細部について記載すると話が限定的になってしまい読者に伝わるかという不安があった。
結果的には全体について書くことがほとんどだが、ほんとに言いたいことは細部についてなんだよなとモヤモヤすることがしばしばあった。
なぜこのような悩みが生まれるか。これについて『センスの哲学』では大意味と小意味という言葉を用いて説明している。
大意味と小意味についての解説に入る前に、筆者による「センスとは何か」という問いに対する答えのサマリを先に記載する。
第一章
センスとは、上手い・下手というベクトルから降り、写実的で再現性のある=上手いからのズレであるウマヘタに近い。センスを自覚するとは、上手い・下手という1次元的なベクトルから意識的に外れてみるということ。
第二章
次に対象が「意味」を持つ手前の段階を想定してみる。上手いということは、モデルを巧妙に再現するということであり、ここには意味が見出されている。そうではなく、意味を見出す前のものごとに着目する。するとものごとそれ自体がリズム=強弱の並びとなっている。
すなわちものごとをリズムであると捉えることがセンスである。
リズムは音楽だけの話でなく、形や色についても同様に表現することができる。
第三章
リズムは時間的で運動性を持つもの。これは連続的な変化というアナログ的な見方もできるし、存在/不在という0/1のデジタル的な見方もできる
第四章
さらに踏み込み「意味を脱意味化」することで意味までもリズムの形にできる。絵や物語、人生は全体で大きな意味(テーマのよつなもの)を持つ。一方でそれぞれをパーツごとの集まりとして見ると、そこにはリズムが存在している。
歴史の話
かつては大きな意味を表現することだけが芸術だった。これへのアンチテーゼとして生まれたのが「ツッパリ・フォーマリズム」で、部分から生まれるリズムへ過度に注目することで従来の権威を挑戦しようしようとした。
筆者は「意味がわかることもまた重要である」として、リズムと大意味を両立させようとしている。
第五章
人は生存戦略として予測という機能を持ち合わせている。基本的には予測通りにいくことを期待しているが、一方で予測が外れることを楽しめるマゾヒズムも持ち合わせている。つまりリズム=反復と差異であり、反復=安定、差異=予測誤差とも言い換えられる。
感想と自分なりの解釈
『センスの哲学』というのはオシャレなタイトルだけれど、何が書いてあるのだろうというのが本書を最初に手に取った時の素直な感想であった。
筆者の自伝のようなものなのか、センスというものに対する哲学的研究の歴史を紹介するものなのか表題からは読み取れなかったからである。
試しに本を開いてみると、最初の章は以下の文から始まる。
「センスがいい」というのは、ちょっとドキッとする言い方だと思うんですよ。(p.10)
この言葉にまったくその通りだなと思うと同時に、この一文自体にも引き込まれた。なにかこのあと素敵なことが買いてあるのだろうという直感が、この一文から働いた。
ではこの本に何が書かれているのかというと、それは「人間のものごとをどう知覚するか」についてである。つまり本当にセンスという捉えどころないテーマの言語化を試みているのだ。
本書の具体例では映画や絵画がよく持ち出されているが、実際のスコープは全芸術をも超えて人間の一般生活を含めてた全知覚対象となっている。
読み進めながら筆者の本書でやりたいことの全容が見えてくるたびに、その壮大さと見事な構成に感動した。
○センスとは何か
結論、千葉氏によるセンスの説明の要約は以下である。
①「センス」とはリズムである
② リズムはアナログ/デジタルの両側面を持つ
③ リズムは反復と差異から成る
これらについて、あえて千葉氏とは別の順序で説明を試みたいと思う。
まずあらゆる対象を一緒くたにして扱うために、高度な抽象化を行う。
前提:感覚で捉えられる万物は「反復と差異」で表現できる
反復とは規則性でありお決まりであり、その領域におけるセオリーである。
例えば絵画の色であれば赤、赤、赤と続けば反復であり、料理の食感であれば柔らかい、柔らかい、柔らかいと続くのが反復である。
実際にはもう少し複雑なセオリーが各分野で発達していて、教科書通りであれば次はこれがくるというのが確立されている。
さらに抽象化してデジタル的に捉えるのであれば、000100010001のような並びは規則性があり反復しているといえる。
一方で差異とな規則性を裏切るような動きのことで、デジタルで表現すれば000100011100のような形を取る。
シャキシャキという規則的な食感のサラダの中にあるクルトンや音楽の中にあえて不協和音を入れたりと、調子を外すような役割を負う。
大事なのは具体例がどうであるかということではなく、すべての認知できる対象を抽象化すると「反復と差異」に還元できるということである。
この「反復と差異」を手触りのある言葉に言い換えたのがリズムである。
リズムは規則性だけでは面白みが出ない。優れたリズムはセオリーを押さえた上で、あえてそこからはみ出す。すなわち反復の中に絶妙に差異を混ぜているのだ。
つまり反復の中に絶妙に差異を入れられたり、見出せることこそがセンスなのである。
さてここまで「反復と差異」をデジタル的に表現してきたが、現実はアナログである。
物語の中に0の状態から1への変化がある時、たとえば生き別れの母に会うようなストーリーであれば「母がいない=0からいる状態=1」への変化が描かれるが、0→1という変化の過程には母の気配を感じたりとグラデーションが存在する。この連続した変化はアナログ的なものであり、人はデジタル的な変化に「ハラハラドキドキ」を感じながら、連続したアナログ的な変化に複雑な面白みを見出す。
なぜ人間がセンスという価値観をもつのかという説明のために、人間の身体性を持ち出す必要がある。
人間は恒常性をもつ動物であるので、安定をよしとして過度な環境の変化を嫌う。安定とは無風ではなく状態が規則的に存在できているということであるから、「反復」といえる。
一方で人は適度なストレスを好むマゾヒズム的な側面をも持っている。無限に規則き続いていくような状況では脳が停止していくのを感じることがあるのと同じである。「差異」があることで一定の刺激が生まれ、それが適当であれば快楽へと変化する。
すなわち「反復と差異」がバランスよく存在してる状態というのは、人間にとって心地の良い状態だといえる。
このことを筆者は以下のような印象的な言葉で表現している。
ゲームにせよ、芸術的な宙づりにせよ、人間にとって楽しさの本質というのは、ただ安心して落ち着いている状態ではないわけです。楽しいということは、どこかに「問題」があるということです。漠然と問題があって、興奮性が高まっていることが、不快なのに楽しい。楽しさのなかには、そのように「否定性」が含まれている。普通は、否定的なものは避けようとするので、このことは意識に上ってきません。しかし、芸術あるいはエンターテイメントを考えるときに、これは非常に本質的なことです。(p.198)
これというのはつまり、神谷恵美子が『生きがいについて』で語っていたことと同義なのではないだろうか。
生きがいは安定からは生まれてこない。なにか腹の底から変えたい、解決したい対象があり=「否定性」、そのためにすべてを賭けるような態度が生きがいである。
筆者はセンスを日常の中に落とし込む方法として、まず対象を要素の並びであると見ることから始めるよう提唱している。
身の回りのものから一旦意味を捨象し「反復と差異」として見ることで、ものごとのリズムが見えてくる。そしてそのうち良いリズムというものが身についてくるのである。
すぐれた本とは世界の見え方を変えてくれる本だと思う。まさにこの本は新たな視点をわかりやすい言葉遣いで表現しているすばらしい本だと思った。