オランダ黄金期を代表する画家レンブラント。
有名な作品『夜警』は教科書にも多く登場すし、現在ではよく知られた画家になっています。
今回はそんなレンブラントの作品の特徴や鑑賞するときのポイントを彼の人生を振り返りながら解説していきたいと思います!
レンブラントを理解するポイント
・カラヴァッジョから引き継いだ明暗対比
・当時大人気だった集団肖像画
・常に進化し続けるチャレンジ精神
オランダ黄金期の画家:レンブラントの紹介
少年時代
レンブラントはスペインから独立直前のオランダで、中産階級に生まれました。頭の良かったレンブラントは、9人兄弟のうちで唯一ラテン語学校に入学し、飛び級でデカルトも通った名門大学に入学します。
しかしすぐに大学は辞め、画家を志し何人かの歴史画家の下に弟子入りします。その中でも18歳の時に弟子入りした当時オランダで最高の歴史画家と言われたピーテル・ラストマンの影響は大きく、この時にカラヴァッジョの代名詞ともいえる明暗を用いた技法を学びました。
またこの時代にはエッチング(銅板を用いた版画の一種)にもとりくみ、この分野では国際的に認められるまでになりました。
画家としてのキャリア:大成と暗転
父の死後首都アムステルダムに移ったレンブラントは、医者らによって依頼され制作した『テュルプ博士の解剖学講義』で成功をおさめます。
従来、集団肖像画というと全員が列をなして同じ方向を向きそれぞれを平等に没個性的に描かれるのが普通であったのに対し、レンブラントはまるでその場をそのまま切り取ったような、臨場感のあふれる表現に成功しました。
この作品はその斬新さから話題を呼び、レンブラントのもとには肖像画の依頼が次々に舞い込むようになります。
その後レンブラントは元市長の娘で裕福だったサスキアという女性と結婚しました。彼はサスキアをモデルにした作品を多く描いたため、作品名にサスキアという名前を多く見ることができます。
このころレンブラントは様々な種類の作品に挑戦していきました。風景画から始まり肖像画、旧約聖書・新約聖書に基づく宗教画まで幅広く作品を手掛けています。
これだけ多様な作品に挑戦していたことは、当時のオランダの画家としてはとても珍しいことでした。
17 世紀前半のオランダはまさに黄金期真っ盛りです。市民社会の発達の中で絵画の買い手はかつての貴族から市民へ移っていきます。その結果、画家同士の競争が激しくなり、それぞれの画家は自分の得意なジャンルに特化する傾向がありました。
そのなかでもレンブラントが様々なジャンルにチャレンジしたのは「実践が成長を生む」と信じていたからです。かつての弟子もその著書のなかでレンブラントの向上心について言及しています。
1642年には彼の最高傑作『夜警』を完成させますが、一方でこのころから私生活は暗転していきました。子供の多くが夭折し、妻のサスキアも病床に伏すようになってしまいます。サスキアはその後も回復することなく、「再婚しない」という条件付きで多くの遺産を残してこの世を去ります。
これらの不幸を通してレンブラントの作品には暗い色が増え、タッチも滑らかだったものから荒さのあるものに変化していきました。
大成したレンブラントでしたが次第に肖像画の依頼においても発注主と絵画の方向性の違いで対立することも多くなっていきました。斬新な構図によって表現力は他の付随を許さなくなっていましたが、一方で依頼主の顔が影になってしまったり、小さくなってしまったりと不満が出るようになっていたのです。
また、もとからの浪費癖とイギリスとの開戦も相まってレンブラントは急速に貧乏になっていきます。同時代を生きた同じくオランダの画家フェルメールも英蘭戦争を機に没落していっていました。
こうしてオランダ黄金期は終わりを迎えたのでした。最終的には亡き妻サスキアの墓を売り払うほど金銭的に限界を迎えていました。
生活はその後も好転することなく、63歳でこの世を去りました。
まとめ
このようにレンブラントは集団肖像画という形で市民社会最盛のオランダを支え、また多種多様なジャンルにおいて名作を残してきました。
一方で、妻や子供を亡くしてしまうなど辛い人生を送ってきたという側面もあります。
今後レンブラントの作品を鑑賞する機会があるときには、以下の三つに注目することでより一層作品を楽しめると思います!
・鮮やかな明暗対比
・ドラマチックに描かれた集団肖像画
・変化し続ける画風と幅広いジャンル
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