テスト期間に入ると、いつもは閑散としているか、疲れた人のオアシスと化している自習室スペースも賑わいを見せてきます。
普段は教科書を全部家に置いてきてるような人たちも、この期間だけは眉にしわを寄せ、真剣そうな顔をして机にへばりついています。
似合わない姿を見るとついつい笑ってしまいそうになりますが、人のことを言える立場でもないので黙っておきます。
さて私は塾でもバイトをしているのですが、やはりテスト前になると多少は生徒のモチベーションが変わってきます。普段は宿題を全くやってこないような生徒でも、焦りの色が出てくるようになります。
日頃のどんなに勉強に興味のない生徒でも、数字で成績が出ることには敏感なようです。
(もっとも成績至上主義の悪弊かもしれませんが)
テストの話になると生徒はバツの悪そうな顔になります。
土壇場で焦りがピークに達してくると、多くの生徒が口にするセリフがあります。
「どうやったらできるようになるの??」
小中学生に多い質問ですが、あまり勉強に熱心に取り組んだことないような場合、高校生から聞かれることもあります。
この質問をする生徒の頭の中は、自分が何が分からないから分からないというパニック状態で、この質問はなんでもいいからこの気持ち悪さを取り除いてくれというSOSです。
生徒としては魔法のような大逆転ウルトラCを期待しているのでしょうが、そんなうまい話はありません。
そもそも有効なコツやテクニックは普段から伝授していますので、直前まで出し惜しみするようなことは基本ありません。
私の中で、この問いに対する答えは決まっています。
「出来るようになるまでやれば、できるよ」
結局、勉強はこれが真理です。出来ない理由の99%は勉強不足、演習不足です。分かってから演習を積むのでは無いのです。分からないから演習を積むのです。
演習を積むことのメリットは、何がわからないか分かるようなることと、分からないを量で克服できることです。
もっとも、教える側としては生徒に完全に投げるわけにはいけないので、日頃より逐一エラーを確認していくことが大切になります。
そしてなぜ間違えてのか、なぜ分からなかったのかを一緒に考えていくことで、「分からない」を「分かる」にする思考を追体験してもらうことになります。
質的転換という言葉があります。
これは量と質どちらが大事か、という議論の一つの答えであり、圧倒的な量は質に変わるということを示しています。
私が受験の時に苦労した科目があります。
どの教科でも気が滅入ることはしょっちゅうありましたが、特に苦しめられたのが古文でした。
高校の時授業を真面目聞かず、結局本番までまともに取り組まなかったので試験では散々でした。
古文とちゃんと向き合ったのは浪人してからでした。この時、自分のあまりの分からなさと、分からないことに取り組む辛さに涙が出そうでした。
机をひっくり返して外に飛び出したい気持ちを抑えながら(時に飛び出しながら)、なんとか精読の一周目を終えました。
そして終わった後、またこれを繰り返すのか、マスターするのにどれだけ時間かかるのか、とかなり気分が沈みました。
文句ばっかり言っても仕方ないので、また二周目に入りました。
やはり辛い。分からないものを進めるのは泥をかき分けて進むようで、不快感に加え憎悪さえ感じます。
しかし二周目を終えてみて、あることに気がつきました。手応え的にはほぼ変わっていないのですが、かかった時間がやや減少してるのです。
三周目。今度は気分的にも進めるのが楽になり、時間もかなり減りました。この傾向は四.五周目と続けるにつれて効果を増していきました。
まるで泥だった視界が次第に澄み、穏やかな川に変わっていくようです。
この間何か質や効率を上げるために何かを工夫したりはしていません。ただ愚直にテキストを進めただけです。
答えを覚えてしまったから早く終わったのでしょうか。
そうではありません。
こなしてきた量が質に転換されたのです。
やればやるほど、人間の行動は最適化されていきます。ひたすらテキストと向き合うことで、無意識のうちにノウハウがたまり、結果として質を押し上げていきました。
結局、もっとも効率的な道は量を取っていくことなのです。
これを避けようとしている限り、できるようになるのはどんどん遠のくばかりです。