本と絵画とリベラルアーツ

本と絵画の解説

【画家の紹介】アルフォンス・ミュシャ

 淡い色使いと美しい線。

その幻想的なポスターに誰もが息を飲みます。

 

ミュシャの作品は現在でもファンが非常に多く、

イラストレーターや漫画家にも多大な影響を与えてきました。

 

今回そんなミュシャの作品を見ることができる展覧会が渋谷のBunkamuraで開かれています!(2019.7.13~9.29)

また富山の高岡市美術館でも開館25周年を記念して、同じくミュシャの作品を鑑賞することができる展覧会が開催されています!(2019.7.13~9.1)

 

ミュシャ展開催を記念して、展覧会を見に行く前に、ミュシャとは?という疑問から作品の特徴までを簡単に予習ができるミュシャのまとめをつくりました。

 

 

ミュシャ展[2019]の概要

《みんなのミュシャ》

【展覧会名】みんなのミュシャ ミュシャからマンガ-線の魔術

【開催期間】2019.7.13(土)~2019.9.29(日)

      [休館日]  2019.7.16(火), 7.30(火), 9.10(火)

【開館時間】10:00-18:00(入館は17:30まで)
        毎週金・土曜日は21:00まで(入館は20:30まで)

 

【場所】渋谷 Bunkamura ザ・ミュージアム

【主催】Bunkamura、ミュシャ財団、日本テレビ放送網、BS日テレ、読売新聞社

【お問い合わせ】ハローダイヤル 03-5777-8600

【入館料】 一般:1600円(当日) 1400円(前売り・団体)

     大学生・高校生: 1000円(当日) 800円(前売り・団体)

          中学生・小学生:  700円(当日) 500円(前売り・団体)

【公式HP】 

https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/19_mucha/

 

《夢のアール・ヌーヴォー》

【展覧会名】夢のアール・ヌーヴォー アルフォンス・ミュシャ展

【開催期間】2019.7.13(土)~2019.9.1(日)

      [休館日]  月曜日

【場所】高岡市美術館

 

【入館料】 一般:1200円(当日)、900円(前売り・団体・シニア)

    大学生・高校生: 500円(当日)・400円(団体)

         中学生・小学生:  300円(当日)・240円(団体)

     親子券 1100円  *大人1名と小中学生2名までのセット券

【公式HP】https://www.e-tam.info/tenji-k_2019.html#mucha

 

ミュシャとは

 アルフォンス・マリア・ミュシャは1860年、チェコ東部(当時はオーストリア帝国)ののどかな町で生まれました。

 

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モラヴィアの風景

 

彼は子供のころから絵が好きで、また得意ともしていました。

一方で他の子どもたちと同じようにヴァイオリンを習い、協会の聖歌隊に入り一時期は音楽家を目指したこともありましたが、15歳の時に声の不調に悩まされこの夢は諦めることとなります。

 

心霊術にも興味を持ち、友人たちと一緒に死者との対話を試みることもありました。

死者との対話は「思考と夢」というノートに記録され、ゲーテらとの対話が残されています。

 

19歳の時、ミュシャは首都・ウィーンに出ます。

彼の出た当時のウィーンはヨーロッパを代表する美術様式が一堂に復活し、最後の栄華を楽しんでいました。

ヨーロッパ中の富が流れ込んでいた当時のウィーン路地には貴族の白馬が通り、オペラや音楽会が人々を毎夜楽しませていました。

 

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一方で荒廃前夜のウィーンは煌びやか芸術とは対照的にどこかノスタルジックな香りが漂う、白昼夢のような街だったのです。

 

ミュシャはウィーンの舞台装置工房でしばらく働いたあと、カール伯爵の別荘の装飾を引き受け認められ、援助してもらえるようになります。

カール伯爵の援助のおかげでミュシャはパリの学校で学ぶことができましたが、その後伯爵が破産。そして自殺してしまいました。

 

パトロンを失ったミュシャは出版社に挿絵を送り生活するようになります。

 

34歳になりイラストレーターとして働いていたミュシャはその年の12月、クリスマス休暇をとった友人に変わって印刷所で働いていました。

 

12月26日、彼の働いていた印刷所のもとにルネサンス座(パリの大劇場)から一本の電話が入りました。

女優サラ・ベルナール主演の劇「ジスモンダ」の再演が急遽決まり、1月1日までに大至急ポスターをつくらなければならないというのです。

 

その時印刷所にいたイラストレーターはミュシャ一人であったため、デザインはミュシャが担当しました。

 

この時ミュシャがデザインしたのが、彼の名をパリ中に知らしめることになる傑作「ジスモンダ」です 。

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ミュシャ「ジスモンダ」1894年

 

その出来栄えのすばらしさに女優サラは感動し、6年間の独占契約を結びました。

この作品を期にミュシャはポスター界、そしてアール・ヌーヴォーの旗振り役をしての地位を確立します。

またサラも「ジスモンダ」をきっかけにスターへの道を駆け上がり、ついにはヴィクトル・ユゴーに「黄金の声」と言わせしめるまでになり、ベル・エポック(フランスの最盛期を表す)を代表する大女優となりました。

 

ミュシャはその後もサラのポスターを手掛けるとともに、シャンパンのポスターや日用品のデザインを手掛けるなど、アール・ヌーヴォーを代表する画家として活躍しました。

 

作品の特徴

ミュシャは当時の主要な美術運動である、《アール・ヌーヴォー》を代表する画家です。

アール・ヌーヴォーはフランス語のArt nouveauからきており

英語でいうところのNew Art(直訳:新芸術)にあたります。

 

アール・ヌーヴォーはパリ発祥の美術運動ですがその影響はヨーロッパの広域にわたり、ドイツ・オーストリアではユーゲント・シュティール(直訳:若き様式)と呼ばれクリムトらがその中心的役割を担いました。

 

アール・ヌーヴォーの特徴は花や植物といったモチーフを作品にとりいれていることです。

鉄やガラスといった当時の新素材を用いることもあり、この運動は絵画に留まらず建築や工芸品にも影響を与えました。

 

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クリムト「生命の樹」1905-1909年

 

 

またミュシャの作品には、彼の思春期における影響も見て取れます。

幼いころから触れてきた民族的な音楽は絵画に模様として再現され、彼の傾倒した霊的な部分は神秘性として作品に表れています。 

 

 

ミュシャの作品の幻想的な雰囲気はアール・ヌーヴォーと彼の音楽的資質と霊的感覚が融合して生まれたものでした。

絵画にとどまらない彼の美しいデザインを是非楽しんでみてください。

 

 

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「ウィーン・モダン」展に行ってきました【感想や混雑状況】

6月のとある月曜日、国立新美術館で開催中(2019.4.24~8.5)の「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への旅」に行ってきました。当初はクリムト展の方に行く予定でしたが、当日出発前に確認するとなんと休館日...!!

急遽ウィーン・モダン展に切り替えて行ってきました。

 

事前にチケットは購入していなかったので、ウィーン・モダン展のチケットは国立新美術館で買いました。チケットを販売している箇所は乃木坂駅直通のところと、反対の六本木駅側の二か所あります。

私は13時前後に行きましたが、そのときはどちらのブースも空いていました。何回か国立新美術館でチケットを買いましたが、平日で混んでいることは今までなかったので、前売りチケットを買っていなくても心配しなくて大丈夫だと思います。

 

会場に入ったらぜひとも会場リストと鉛筆をもらいましょう。(鉛筆は貸し出し用のもの以外は使用できないことが多いので注意!)最初は元気で好奇心がマックスなので説明をじっくり読んで早く鑑賞に入りたいところですが、まずは会場リストを眺めて展覧会全体の雰囲気をつかんでいきましょう。この時自分の好きな画家や作品がある場合はチェックをつけておきましょう。見逃すのを防げます。

美術館のオススメのまわり方については以下の記事にまとめてあります。是非参考にしてみてください。

 

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ウィーン・モダン展で驚いたことは展示されている作品の数が多いということです。通常の特別展ですと100点前後の作品が展示されていることが多いのですが、今回のこのウィーン・モダン展ではなんと約400点が展示されています!食器など小物の数が多いことをありますが、それを差し引いてもかなりの数です。

あまり下調べをせずに行ったので、当日会場リストを確認してあまりの作品の多さにびっくりしました。それと同時に集中して全部は見きれないことを悟ったので、自分の関心のあるところに絞って鑑賞しました。

 

まず入って目を引いたのがマリアテレジアの肖像画です。豪華なだけではなく、気品と力強さがあふれています。構図としてはやや頭から下半身にかけて膨らんだ形をしていて、どこから見てもやや見下ろされているように感じます。

 

見つけてびっくりしたのが作曲家・シューベルトの肖像画です。

見た瞬間、「音楽室で見たのと一緒だ!」と思わず笑ってしまいました。

さらに面白いのが横に展示してあるシューベルトのメガネです。本人は自分のメガネを大勢の人が見物するようになるなんて夢にも思っていなかったでしょうね。

 

たくさんの作品が並んでいますが、目玉はなんといっても分離派のクリムトやシーレです。また分離派のポスターもそれまでの西洋とは大きく違った路線になっていて見ていてとても面白いです。中には1920年代のアメリカを彷彿とさせる作品も数多くありました。分離派が当時時代の先端をいっていたことがよく分かります。

 

私がこの展覧会で一番目を引かれたのもやはりクリムトの作品でした。その中でも特に気に入ったのが「パラス・アテナ」と「旧ブルク劇場の観客席」です。

 

「旧ブルク劇場の観客席」はクリムトの有名な作品らとは異なり、とにかく上手いという印象の画です。緻密な描写はブリューゲルの「バベルの塔」を彷彿とさせます。全体的に静かな色使いでありながら全体としては暗くなりすぎず、当時のブルク劇場の重厚感をそのまま伝えてくれます。

 

「パラス・アテナ」のすごいところは一つの画でありながら画面が3つあるというところです。写真やポスターでは分かりにくいですが、実際に本物を前にしてみると画面が3つに分かれているということが分かります。すなわち、一つの視点でそのすべてをとらえることが出来ないのです。

一つ目の画面が首から上の顔と背景にあたる部分です。二つ目は首から下、メデューサの顔と金の衣装の部分です。この金の素晴らしいところは、金色で金を表現するのではなく、その反対にある黒で金を表現しているというところです。そして、三つ目が右手(とその上)です。これらはぼかしによって遠近感を持たせたりすることで3つを同時に見ることが出来なくなっています。見ようとしても見えない、不思議な感覚に陥ります。そしてその不思議な感覚がまたこの絵に魅力を感じさせる一因となっているのです。

 

今回は作品が多かったことで少し疲れてしまいましたが、平日に行ったことで館内も空いていて余計なストレスを感じずに回ることができました。ところどころの休憩スペースが大変ありがたかったです。

クリムトの「エミーリエ・フレーゲの肖像」は今展覧会の中で唯一写真撮影が許されています。みなさんこの絵の前で立ち止まって写真を撮っていました。その近くのスペースではこの絵の衣装を実際に再現したブースもあり、こちらも再現度が高く面白かったです。

 

 ウィーンモダン展のホームページはこちら
https://artexhibition.jp/wienmodern2019/
 

 

 

5分で予習!「ギュスターヴ・モロー展」

2019年4月6日(土)から6月23日(日)までパナソニック汐留美術館にて「ギュスターヴ・モロー展-サロメと宿命の女たち-」が開催されています。東京での展示の後は7月13(土)から9月23日(月)まで大阪のあべのハルカス美術館で、10月1日(火)から11月24日までは福岡市美術館でそれぞれ展覧会が開催予定です。

今回はギュスターヴ・モロー展をより楽しむための予備知識をおよそ5分で読める量にまとめました。

 

 

ギュスターヴ・モローとは

ギュスターヴ・モローは19世紀末に活躍した象徴主義を代表する画家です。

主に、聖書や神話を題材にした作品を多く残しました。古典主義やロマン主義を引き継ぐ時代の過渡期に活躍した彼は、様々な技法や作風を融合させながら神秘的で幻想的な作品を数多く描き上げました。

晩年は美術学校の教授となり、マティスやルオーといった偉大な画家を輩出しました。

 

<生涯>

モローは1826年4月6日パリで、建築家である父と音楽家である母の間に生まれました。父は放任主義で、モローは自由な環境の中で育ちました。

体が弱く家で過ごすことの多かった彼は、芸術家の遺伝子を受け継ぎ、6歳のころからデッサンをするようになりました。

 

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『自画像』 1850年

 

20歳の時本格的に画家を志したモローは、美術学校に入学しました。しかし直後にテオドール・シャセリオーの作品を見たモローは衝撃を受け、わずか2年で学校を辞め、シャセリオーに弟子入りします。

シャセリオーはアングルやドラクロワに影響を受けたロマン主義の画家で、二人は子弟という垣根を超えて、友人のような親しさで付き合いました。モローはシャセリオーから多くの影響を受け、交友は1856年シャセリオーが37歳の若さで病死するまで続きました。

 

最愛の師を失ったモローは翌年よりイタリアへ2年にわたる旅行を行きました。この留学で彼は巨匠の研究を行い、技術の確立に努めました。

帰国後、モローは「オイディプスとスフィンクス」の制作に取り掛かると、これがナポレオン3世の従兄であるナポレオン公の目に留まり買い上げられ、彼の画家人生の全盛期を迎えます。

 

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『オイディプスとスフィンクス』 1864年

 

晩年は美術学校の教授となり、アンリ・マティスやジョルジュ・ルオーといった偉大な画家を輩出しました。一方で、伝統的なテーマを取り上げながらも革新的な面を持っていたモローは、伝統を重んじる美術アカデミーの他の会員から反感を買うことになります。モローは次第にサロンから離れるようになり、最後は自分の屋敷で創作を続けました。

モローの死後、彼の厖大な作品やデッサンは遺言により「ギュスターヴ・モロー美術館」にて公開され、初代館長は弟子であるルオーが務めました。

 

<性格と画風>

弟子であるルオーはモローの性格を「尽きざる好奇心」と言い表しています。モローはたびたび他の画家に陶酔しました。モローの好奇心は、彼の研究の動機付けになりました。シャヴァンヌやドラクロワにも熱中し、特に師であるシャセリオーからは多大な影響を受け、彼の画風が形成されていきました。

 

モローは興味を持った画家から好奇心のままスタイルやテクニック吸収し、実験を繰り返しながら自分の作品の中に取り入れていきました。

彼の作品は、彼が影響を受けた画家のスタイルが複雑に組み合わされ、独特の雰囲気を放っています。彼の作品にはアングルの新古典主義、ドラクロワのロマン主義、ミケランジェロのルネサンス、そして師であるシャセリオーの幻想さという相異なる様式が、奇跡的な調和を保ちながらモローの世界観をつくり出しています。

 

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『エウロペの誘拐』 1868年

 

サロメと宿命の女とは

今回の展覧会の題は「ギュスターヴ・モロー展 ― サロメと宿命の女たち ―」になっています。「サロメ」や「運命の女」は聞きなれない言葉ですが、いったい何を意味するのでしょうか。

 

サロメとは新約聖書の『マルコ伝』6章に出てくるある少女の名前です。サロメはこの話の中で重要な役割を担っています。話はイエスを洗礼した聖ヨハネがユダヤ王ヘロデ・アンティパスを非難するところから始まります。

ヘロド王は自分の兄弟の妻であるヘロデアをめとりました。これに対しヨハネは「兄弟の妻をめとるのはよくない」とヘロドを非難します。ヘロドは激怒したが、ヨハネが正しき聖者であることを知っていたので殺すことはできませんでした。

 

ヨハネを殺すチャンスは思わぬところで巡ってきました。

ヘロド王が自分の誕生日の祝いに宴会を催したときのことです。妻ヘロデアの連れ子が入り、舞を披露し人々を喜ばせました。そこで王は少女に「なんでも欲しいものを褒美にやる」と約束すると、少女はヘロデアのもとに行き、母に何がいいか伺いを立てに行きました。するとヘロデアは「バプテスマのヨハネの首を」と答え、少女はこれを王に伝えました。王はこれに困惑しましたが、約束を履行すべく、すぐに衛兵に指示しました。

衛兵は獄中のヨハネの首を切り、盆にのせ少女に与えると、少女はこれを母に渡しました。

これを聞いたヨハネの弟子はその死体を引き取り、墓に納めたのでした。

 

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『出現』 1876年

 

もうお分かりの通り、サロメとはヘロデアの娘でヨハネの首を受け取った少女のことです。

この場面は多くの画家によって描かれていますが、特にモローは好んでこの場面を数多く描き残しました。

なぜモローはサロメを多く描いたのでしょうか。その答えはモローの女性観にあります。

 

ロマン主義から象徴主義に至る文学シーンの中では、しばしば“男性=善=プラスのもの”と“女性=悪=マイナスのもの”のイメージが対立して扱われました。

モローの作品にもこの二項対立構造が表れています。しかし、それは男性優位を主張したというものではありません。むしろモローは悪のほうに惹かれていったのです。

これはおかしなことではありません。現代においてもサタンに憧れる人がいるように、圧倒的な邪悪には人を引き付ける不思議な魔性があるのです。

彼は、女性の“悪”というものの魅力に取りつかれたのでした。

 

悪魔的な魅力で男を惑わし、死に至らしめる女を芸術の分野では“宿命の女(ファム・ファタール)”といいます。ファム・ファタールについてはロセッティやムンクの記事でも触れているので是非読んでみてください。

 

www.artbook2020.com

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母からのおぞましい伝言をためらうことなく王に伝え、ヨハネの首を受け取ったサロメは間違いなく悪女です。少女と悪と死の取り合わせはとても背徳的でぞくりとした美しさを醸し出しています。モローは宿命の女としてのサロメに惹かれ、この場面をテーマに多くの作品を残したのです。

 

展覧会の見どころ

以上のギュスターヴ・モローのバックグラウンドを知った上で、この展覧会を楽しむためのポイントが3つあります。

 

一つ目は、多くの画家のスタイルを取り合わせたモローだからこそ出せる画風の多様性です。普通の画家の場合、ある程度画風が固まってしまうと同じような絵が多くなり、この人っぽいなというのが出てきます。

しかしモローはルネサンスから印象派まで幅広い影響を受け、それを自分の画の中に取り込んでいったので、一人の同じ画家とは思えないバラエティ豊かな作品が生まれました。

 

二つ目は、モローが異常なまでにこだわった装飾の細部です。ジョブズは「神は細部に宿る」と言いましたが、モローの描く細工の精妙さは彼の執着を感じます。

のちにゴーギャンはこれらを見て「要するに、彼は金銀細工師にすぎないのだ」とまで言いました。展覧会でも是非画に近づきその精巧さを楽しんでください。

 

最後はなんといっても目玉である、モローの描くファム・ファタールです。ロセッティともムンクとも違う、象徴主義らしい耽美的な邪悪の魔力に惹かれてください。モローの画には画面全体が暗いものが多いです。その中でしっとりとたたずむ女性があなたを虜にしてくれることでしょう。

妻の墓を暴いた画家

芸術家にはマイペースな人が多いですが、これほど利己的な人間は珍しいでしょう。

 

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは19世紀のイギリスの画家で、詩人としても活躍した芸術家です。整った顔立ちとカリスマ性を持ち、ロセッティの周りには多くの人が集まっていました。

ロイヤル・アカデミーの学友であるミレイやハントとともに、ラファエル前派のメンバーとしても活動しました。またファム・ファタール(男を惑わし破滅させる女性)を題材として用いた先駆者としても知られています。

 

ラファエル前派とはその名の通り、当時正統とされていたルネサンス期の巨匠ラファエロに代表される古典的な芸術規範に抗い、ラファエロ以前の美術を尊重しようという運動です。当時のロイヤル・アカデミーでも古典的な芸術が重視されていました。

自分たちが学んでいる学校の考え方に反抗していく、とても革新的な青年だったのですね。

このラファエル前派は、19世紀後半ヴィクトリア期のイギリス美術史に多大な影響を及ぼしました。

 

初期メンバーの3人は芸術の方向性の違いや、私情のもつれから次第に散り散りになっていきました。しかし、その後もロセッティのもとにはモリスをはじめとする芸術家が集まり、次世代のラファエル前派を作り上げていきました。

 

ロセッティを語る上で、欠かせない二人の女性がいます。

一人目はエリザベス・シダル(リジー)です。リジーはのちにロセッティによって「ベアタ・ベアトリクス」のモデルとされるように、清純な女性でありました。

彼女は学校で教育を受けていませんでしたが、両親から読み書きを教わっていました。アルフレッド・テニソンの詩に感銘を受け、自分でも詩をつくるようになりました。 
彼女はアーティストの知人を通してラファエル前派に紹介されました。

彼女は初期ラファエル前派の画家たちの多くのモデルを務め、最終的にロセッティと婚約しました。

 

二人目の女性はジェーン・バーデンです。

ロセッティがジェーンと出会ったのは、すでにロセッティがリジーと婚約している時のことでした。ロセッティが気分転換にふらっと立ち寄ったロンドンの下町の劇場で出会った二人は惹かれあい、以後ジェーンはロセッティのミューズとしてモデルを務めるようになりました。

ロセッティは彼女にリジーとは対照的なファム・ファタールを見出し、理想の女性として晩年まで愛しました。

結局、ロセッティは婚約していたリジーと結婚し、ジェーンはロセッティの弟子であるウィリアム・モリスと結婚しました。

しかし結婚した後においても、ロセッティのジェーンに対する思いは変わることはありませんでした。

 

もとより病弱であったリジーは、ロセッティが外で他の女性と関係を結ぶのを耐えることが出来ませんでした。

加えて第一子である女児の死産を経験し、彼女の心は完全に崩壊していました。拒食症であったともいわれています。

苦しみからにアヘンに手を出すようになり、結婚2年目の第二子を妊娠中のある日、彼女はアヘンをオーバードーズし、自殺しました。

彼女が自殺を図ったその時さえも、ロセッティは他の女性と快楽をともにしていたといいます。

 

彼女の死によってロセッティは罪悪感と悲しみにさいなまれました。

 

そして詩人でもあった彼はある決意をします。

それは、リジーが病で苦しんでいる最中看病もせず書き続けた詩集を彼女と一緒に埋葬しようというものです。

その詩はロセッティが彼女のために書いたものであり、彼女の死んだ今、詩集も同時に死んだのです。

 

ロセッティは詩集を彼女の棺に入れ、静かにリジーと詩集に別れを告げたのです。

 

リジーの死後、ロセッティはある作品の制作に取り掛かりました。

それが、ロセッティの最高傑作と名高い「ベアタ・ベアトリクス」です。

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ロセッティ 「ベアタ・ベアトリクス」 1863年

ベアタは英語のblessed(神に福音を与えられた)に当たり、ベアトリクスはルネサンス期の詩人ダンテの恋人ベアトリーチェを指しています。

この絵はまさにベアトリーチェの魂が昇天しようとしている場面を描いています。右後ろに描かれている黒い人はダンテ、左の赤い人は愛が天使の姿で描かれています。

ロセッティは自分と同じ名前であるダンテに特別な思いを持っていました。

彼はベアトリーチェとリジーを重ね合わせ、亡きリジーへの思いを込めました。

一途に愛してくれたリジーを裏切り続け、自殺に追い込んでしまった念が彼に取り付いて離れないのでした。この時ロセッティは35歳でした。

 

時は流れ、ロセッティが41歳になったころ、彼の中にエゴに満ちたある欲望が膨らんでいました。芸術家としての性だったのかもしれません。

彼は愛する妻リジーの死とともに埋葬した彼の詩集を出版したくなったのです。

決心した彼は墓を暴くよう依頼し、そして彼女の棺の中から詩集が取り出されました。なんて利己的で破壊的な行為でしょう。

 

彼はこの詩集にリジーの死後書いた詩を加えて、翌年出版しました。

皮肉にも、この詩集はロセッティの詩人人生において最高の評価を得ました。

その後も画家として成功し、社会的名声を得たロセッティでしたが、その心の中はリジーへの罪悪感とジェーンへの思慕で穏やかになることはありませんでした。

44歳の時には自殺を図りましたが、うまくはいきませんでした。その後も苦しみもがき続けます。

晩年の彼は死んでいるも同然の生活でした。酒と薬に溺れ、夜も眠れなくなり真夜中にろうそくの明かりで絵を描く生活が続きました。

そして53歳の春、腎臓疾患によりこの世を去りました。

 

彼の人生はエゴそのものでした。欲望のまま動き、人を愛し、苦しんだのです。

教養として知っておきたいルネサンス期の絵画5選

西洋絵画と言われた時、どんな絵画や画家が思いつくでしょうか。

 

ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」、「最後の晩餐」やラファエロの「アテナイの学堂」がまず出てくる人が多いかと思います。

身近なところだと、これらの絵はサイゼリヤでも見ることができますね。

これらはルネサンス期の作品です。

 

ルネサンスはフランス語で「再生」を意味します。

19世紀のフランスの歴史家ミシュレによって初めて使われ、その後ブルクハルトによって広められました。

 

ここでの再生とは、ローマ帝国滅亡後、古代ローマ・ギリシア文化の破壊が破壊された中世を「暗黒時代」と呼ぶのに対して、大航海時代に続いて起こった西洋古典の復興を「再生」という言葉を用いて表しています。

ローマ・カトリックの支配下にあった中世ヨーロッパでは、芸術さえもキリスト教のためのものでした。

ルネサンス期においてもカトリック教会の力が完全に衰えたわけではありませんでしたが、遠近法など、神の視点から脱却した技法の発展もみられました。

ルネサンスを近代の始まりだと考える人もおり、世界史の出来事の中でも重要なもののひとつです。

 

イタリアから始まったルネサンスは、次第に北に向かって広がっていきました。

ドイツやネーデルラント(現在のオランダ・ベルギー)で花開いたルネサンスは北方ルネサンスと呼ばれ、宗教改革とも結びつくようになります。その後はスペインに波及し、バロック美術につながっていきました。

 

以下では大人ならぜひ知っておきたいルネサンス期に活躍した 5人の画家の作品を紹介します。

 

  • ジョット・ディ・ボンドーネ「東方三博士の礼拝」

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 ジョットは後期ゴシックに分類されるフィレンツェの画家で、ルネサンスへの橋渡し的役割を果たしました。

初期の透視図法(見えるものをそのまま描く技法)を用いたうちの一人でもあります。

この作品はスクロヴェーニ礼拝堂に描かれた37つの場面の一つで、ジョットの絵で最も有名なものです。

この絵の中ではベツレヘムの星が彗星のように描かれています。

これはジョットが1301年に実際に見たハレー彗星にインスピレーションをうけたと考えられています。そのため1986年にハレー彗星観測のために打ち上げられた探査機は、この絵にちなみジョットと名付けられました。

 

  • サンドロ・ボッティチェリ「春」

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ボッティチェリの名前は聞いたことなくとも、この絵を見たことある人は多いのではないでしょうか。

ボッティチェリは本名ではなく、兄の体型からつけられたあだ名で、本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピといいます。

今でこそ世界で知られた画家になりましたが、19世紀頃までは無名の画家でした。19世紀にラファエル前派によって注目され、世間に広く知られるようになりました。

ダ・ヴィンチの友人であったことでも知られます。

 

  • ピーテル・ブリューゲル「農民の踊り」

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 ブリューゲル一家は多くの画家が出ていることで知られています。この絵を描いたピーテル・ブリューゲルはその祖ともいえる存在で、他の家族と区別するために父ブリューゲルと呼ばれることもあります。

従来絵画は貴族のもので、題材に選ばれるのはギリシア神話や聖書の物語でした。ネーデルラントでこのような絵が描かれたことから、北方欧州が人文主義や宗教改革の影響を強く受けていたことがうかがえます。

数年前のセンター試験にも出題された有名な絵です。

 

  • ミケランジェロ「最後の審判」

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 バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の壁に13.7m×14mにわたり描かれている巨大な宗教画。

先ほどの「農民の踊り」とは打って変わって、カトリック全開の作品です。ローマ・カトリック教会の威光がいかんなく発揮されています。

総勢400名以上の人物が描かれ、地獄側にいるバルトロマイはミケランジェロの自画像だと言われています。

 この絵にはもともと多くの全裸の人物が描かれていました。これに怒ったローマ教皇はミケランジェロに描きなおしましたが、ミケランジェロはこれを拒否。結局弟子のダニエレがノミで削り腰布を描きたしましたが、このせいでダニエレは腰布画家と揶揄されるようになってしまいした。

 

  • レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」

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世界で最も有名な絵ともいわれる「モナ・リザ」。見たことない人はいないでしょう。

モデルは諸説ありましたが、現在ではリザ・デル・ジョコンドが有力だとされています。

「モナ・リザ」という名前は後からつけられたものです。モナというのが英語のマダムにあたる語で、モナ・リザではリザ夫人を意味します。

フランスやイタリアでは夫フランチェスコ・デル・ジョコンドから「ラ・ジョコンダ」呼ばれています。

 

 

ルネサンスは革新の時代のため、ヨーロッパ各地でバリエーション豊かな芸術が数多く創作されました。またダ・ヴィンチやラファエロなどの芸術史に残る巨匠も多く登場し、ひとつの黄金時代が築き上げられました。

西洋絵画になじみのない人や、これから勉強していきたいという人はルネサンスから勉強してみてはいかがでしょうか。