本と絵画とリベラルアーツ

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【数学読みもの】ホワイトヘッド『数学入門』

 

オススメ度:★★★★☆

ホワイトヘッド『数学入門』



 

美術館と数学読みものの共通点

先日、丸の内にある三菱一号館美術館で開催されていた「アール・デコとモード」展へ行った。

普段だと美術館を訪れる目的はもっぱら西洋絵画が多いけれど、今年はなぜかいろいろの本の中で「アール・デコ」というキーワードに遭遇することが多く、頭の片隅に蓄積したこの言葉に呼び寄せられるように一人でふらりと訪れた。

三菱一号館美術館の前は幾度となく通りその存在についてはよく知っていたものの、実際に中に入るのはこれが初めてである。なかは外観にも劣らず荘厳な雰囲気で、財閥の力と歴史をまざまざと感じさせられた。

肝心の展示も想像以上に興味を惹かれ、特にシャネルとランバンのコートやイブニングドレスが私好みですてきであった。浮かれて帰りに図録を購入して買えるほどには満足できた。

 

絵画にしろファッションにしろ、展示の面白いところは実物が見られるだけでなく、その解説にあると思う。もちろん第一義的にはホンモノを己の感性で感ずるところにあるのだけれども、それだけでは展示の面白みは片手落ちだろう。

展示物を右脳で捉えつつ、論理立って記述されたその背景や価値を左脳で知ることで、脳が感性と理性の両面から刺激される。このバランスこそが展示の醍醐味だと私は考えている。

 

さて、紹介する本と関係ないところから話をスタートしたのは、数学の読みものの面白さというのが、この展示の面白さと似ているのではないかと思ったためである。

数学の読みものとは数学の定理や法則を中心に、その発見の歴史的背景や科学における活用価値、また数学の分野間の関係などについて書かれた本である。この『数学入門』もその一つで、高名な数学者であるホワイトヘッドが算数から高校数学レベルまでの内容がどのように発展的つながりをもっているかを解説した本になっている。

発行されたのは1911年と100年以上も前で、だれもが数学を学んだわけではない時代に、数学に興味を持たせ、どのように学びに取り組んでいけばよいかをたいへんわかりやすく指南している。

 

数学の面白さを伝える本ということで、参考書のように演習問題が並んでいるわけではないが、随所に数学の公式やグラフが記載されている。

一見するとなんの変哲のない公式やグラフも、一歩引いてフラットな目で見てみるとやはり洗練された美しさがある。それは普遍性や抽象性が生む美であり、もっとも実用的でありかつ本質的であることを示している。

これらの公式やグラフが芸術であるならば、それを説明した地の文はまるで美術館の展示の解説ではないだろうか。この美術館の展示との共通点に、数学読みものの面白さがあるのではないかとふと気が付いた。

 

五感に関する発見

本全体、読みものとしての面白さを感じつつ、この本からは発見も得られた。

科学は、リンゴの記述を最終的には分子の位置と運動に分析しようとします。(p.21)

それは数学の抽象性ゆえに科学に生かされているという文脈で出てきたこの文書で、ここから「五感はすべて、空間の中の分子の位置関係を把握しているにすぎない」ことに気が付かされた。

まったく異なる感覚の束であると考えていた見る・聞く・触れる・香る・味わうといったこれらの感覚が、まさかまったく同じ対象を知覚していただけだったとは、生きてきてここで初めて気が付きまあまあの衝撃を受けた。

こういった本筋から外れた発見も、また読書の楽しみである。

 

 

【闘争か協調か】山極寿一『ゴリラの森で考える』

オススメ度:★★★★★

森の中の暮らしのように小さい変化をいくつも感じ取りながら、大きな安定に存在するという安心感こそが、人間には必要なのである。(p.137)

 

山極寿一『ゴリラの森で考える』

 

あらすじ

人間の本性は、闘争か協調か。

ゴリラ研究の第一人者である霊長類学者・山極寿一が、これまで調査してきたゴリラの真の姿をもとに人間社会のあり方について問うたエッセイ集。

人々のゴリラに対する誤解や、人類がどのように進化してきたか、そしてゴリラ社会からみた人間社会の歪みが分かりやすく語られている。

個人的には母系社会と非母系社会による男女のパワーバランスの話や、人類が多産・難産になった背景がとても興味深かった。

 

はじめに繰り返し語られていたのが、ゴリラが暴力的で野蛮な存在ではないとの主張である。ゴリラははじめ、19世紀ごろ西洋人によって「発見」された。彼らはこれまで見たことのない大きな体を持ち、鋭利な牙を有するゴリラたちのドラミングに西洋人たちは死の恐怖を感じ、多くのゴリラたちを撃ち殺してしまった。その凶悪なイメージは西欧世界に持ち帰られ、『キング・コング』では巨大で凶暴な怪物として描かれて人々の脳裏にイメージが刻まれた。

しかし実際にはゴリラは暴力的な気質を有していない。ドラミングは言葉を持たないゴリラなりのコミュニケーションであり、人間たちを威嚇しているとは限らないことが、その後の調査によって明らかになっていった。

 

母系社会と非母系社会

ゴリラとニホンザルは同じ霊長類であるがその習性には違いがある。

ニホンザルは明確な序列による統制を図っており、争いがおこれば常に優位者が優遇され、劣位者は譲るしかない。食べ物を前に優位者と劣位者が相まみえたときには必ず優位者が食べ物を獲得し、周囲のサルも優位なサルに加勢する。サルと顔を合わせた際に睨み返すと挑発と受け取られるため、劣位なサルは目をそらさなくてはならない。

一方ゴリラの社会では優位性を用いたコミュニケーションは行われない。群れのリーダーであるシルバーバックも、小さいゴリラから食べ物をねだられた際には譲るのが常である。

 

これは母系社会と非母系社会の違いによるものである。

ニホンザルに見られる母系社会のメスは生まれ育った群れを離れず、基本生涯をその群れで過ごす。したがって、群れのメスはボスとなるオスを選ぶことができない。ボスとなるオスは支持によって選ばれるわけではないため、力による支配を戦略としてとるようになりオスはボス化する。

一方ゴリラのような非母系社会では、メスが自由に群れを移動する。したがってリーダーとなるオスはメスに気に入られる必要があるため、力の誇示ではなく民主的な行動をとるようになる。

人類はもともとゴリラに近い非母系社会を形成していたと考えられるが、農耕・牧畜のために定住するようになった際に女性が移動できない母系社会へと移行し、男性たちが連合し権力を握るようになった。

 

多産・難産になった人類

少子化となった現代では、人類を多産と呼ぶのは違和感があるが、生物学的にはホモ・サピエンスは多産な動物である。女性は生涯の長い期間にわたって複数の子を産むことができるし、実際今でも国によっては高い出生率の場所も残っている。

また、人類は多産でありながら出産に大きなリスクを孕んでもいる。

なぜ人類は多産・難産となる進化を選んだのか。その原因を辿っていくと樹上での生活を捨て、二足歩行になったところに秘密があった。

 

ジャングルの樹上から草原に住処を移した人類は、捕食者に狙われやすくなった。木の上には逃げ場所がたくさんあったが、草原ではそうはいかない。草原に出た人類の幼児死亡率は増加していった。

数が減っていった人類はその対応として、出産数を増やすようになる。出産数を増やすためにはねずみのように一度にたくさん産むか、出産の間隔を短くするしかない。人類は年子を産めるほど出産間隔を短くする道を選んだ。

出産間隔が短くなったことで、幼児の離乳のタイミングも早まった。歯が生えそろい、大人の食事が取れるようになる前に離乳することは、別途離乳食を用意する手間を生んだ。老齢者はこの手間を担うようになったと考えられる。

 

また草原に降り立った人類は、これまでの四足歩行から二足歩行に形態を変化させる。二足歩行になったことで骨盤は上半身や内臓を支えるために変化し、産道の大きさが制限されるようになった。二足歩行になったのが700万年前で、そこからしばらく経った200万年前あたりから群れの拡大に伴い脳の拡大も始まった。脳の拡大は頭部の拡大につながり、人類は大きな頭で狭い産道を通る必要になり、他の霊長類と比べて難産になった。

 

森と集団

森の中の暮らしのように小さい変化をいくつも感じ取りながら、大きな安定に存在するという安心感こそが、人間には必要なのである。(p.137)

ゴリラの観察のため森に幾度となく入っていった山極は、森と人間の関係について上記のように語っている。これはまさに精神科医・神谷美恵子が語った宗教観と同じではないだろうか。神谷は人間が生きていくためにはなにか自分より上位の(特定の宗教に寄らない)存在によって愛されている感覚が重要であると語っていた。

まさにその感覚の根源こそ、人類が森で暮らしていた時に会得した安心感なのだろうと紐づいた。

 

またこの本では幾度かダンバー数についても語られている。

ダンバー数は集団の規模と脳の大きさに相関があると発見したダンバーが、人間の脳の大きさから推定した人類がもてる集団の規模の人数である。

人類の脳の拡大はおよそ20万年前にストップしている。現代ではインターネットの発展により関わる人数が爆発的に増加しているが、実際に信頼関係を結べるのは今もダンバー数ほどだろうというのが、山極の見立てである。

 

 

【本の紹介】記事にしなかった本たち(2025年下半期)

今年は多く本を読んだけれど、あまり振り返る時間が取れなかった。読んだ本も読み返さなければ記憶の奥底の澱になって忘れ去られてしまう。

本を読み返す習慣をつけるためには、やはりきれいな本棚を持っていることが重要かと思う。何の本を読んだかをぱっと見で分かるようになると、沈んだ記憶がふわりと浮かび上がってきて海馬にこすりつけられていく。

いまは本棚からはみ出した本が無造作に積み重ねられているだけなので、早急に本棚を用意したい。

 

記事にしなかった本たち(2025年下半期)

 

 

宿野かほる『ルビンの壺が割れた』

オススメ度:★★★★☆

水谷一馬はフェイスブックでかつての恋人である未帆子を見つけ、メッセージを送る。初めのメッセージに返信はなかったが、何度かの一馬の一方的なメッセージのあと未帆子から返信があった。

ほほえましいメッセージは衝撃の事実の応酬へと変貌していく。

 

少年漫画のような引きとテンポで次々に読まされてしまった。奇抜なスタイルでありながら、最後まで失速することなく楽しませてくれるちょうどいい長さと内容だった。

 

重松清『答えは風の中』

オススメ度:★★★★☆

大人になると子どものときの悩みなんて忘れてしまったり、些細なことだったように思てしまうけれど、子どもの心にも白とも黒とも取れないモヤモヤとした気持ちがあることを思い出させてくれる。
コロナ禍における命の優先順位など難しい問題も、子どもと目線を合わせることで子どもたちが自分ごととして捉えられるように工夫されているなと思った。
…お年寄りのほうがわたしの知り合いで、子どものほうは赤の他人だったら…(p.44)
 
人と違うことに悩む『いちばんきれいな空』という短編がある。いちばんきれいな空を絵に描くといえ美術の課題で、自分だけが「くもり」をきれいな空だと思っていることに悩む少年を見て、ふと自分が小学校の頃「北風の太陽」の絵を描く時間に自分だけが北風をメインで描いたことを思い出した。

 

 

カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』

オススメ度:★★★★☆

高校物理以降、新しく得られる物理の知識は高度すぎたり身近でなかったりと、子どもの頃新しい知識に触れた時のワクワクから遠ざかっていた。この本は高度な内容ながら地に降りた説明となっており、昔と同じように好奇心を刺激してくれる。
特に感動したのが、引力の仕組みと時間の対称性の議論だ。
引力の仕組み
物体は周囲の時間を減速させ、その速度の違いが引力を生む。
時間の対称性
物理の公式において、時間の方向の概念があるのは熱力学だけである。
温度が違う気体や液体を混ぜ合わせると、次第に温度が均一になっていく。しかし均一な温度の状態から別の温度の状態に分かれていくことはない。
エントロピー
熱力学だけが時間的方向性、不可逆性を示す、しかしこれは世界を「荒い粒度」で見た時の話しで、分子レベルで観測すると時間的方向性は関係なくなる。

 

辻村深月『嚙みあわない会話と、ある過去について』

オススメ度:★★★★★

人気アイドルとなった、かつての小学校の教え子。印象は薄かったものの、楽しみにしていた再開の先には…『パッとしない子』、地味で嫌われていた同級生がカリスマ塾経営者となった。軽い気持ちで申し入れた地元雑誌のインタビューは思わぬ方向に…『早穂とゆかり』をはじめとする4本を収録した短編集。

短編でここまで肝を冷やされるとは思わなかった。

日常を描いた小説を読んでいるつもりが、途中からは怪談話を読んでいるようだった。

内臓を直接さわるべきでないように、人間の心情も裸にしてはならない。まるで心臓を直接なぞられているかのように、ゾクゾクした小説だった。

 

 

田中渓『億までの人 億からの人』

オススメ度:★★★☆☆

ゴールドマン・サックスで新卒から17年勤めあげた田中渓による、お金持ちのマインドや習慣を紹介した本。本よりも先に映像メディアで田中渓を知り、気になり購入した。

田中渓のストイックな生活と超人的なマインドを見ていたので、若干物足りなさを感じた。初めての書籍ということで「ゴールドマン・サックス出身」としての内容になっていたが、もっと田中渓本人の狂気を見たいなと思った。

時間の使い方や信頼貯金の話はタメになった。

 

 

 延江浩『松本隆 言葉の教室』

オススメ度:★★★☆☆

名作詞家 松本隆のインタビューを延江浩が本にまとめたもの。

本の中では、松本が手がけた数々の名作が紹介されている。あの作品も、この作品も松本作詞だったのかと何度も驚かされた。

この詩はここの景色をイメージしていてなど、裏話も多く聞くことができたのも面白かった。

話に出てくるメンバーも細野晴臣、大滝詠一、松田聖子、松任谷由美と豪華すぎるほど豪華で、音楽シーンの黄金期の中心を生きた人だったのだと改めて実感させられた。

 

 

吉田恵里香『恋せぬ二人』

オススメ度:★★★★☆

NHKドラマの脚本を小説に仕立て直した本。

アロマンティック・アセクシャルな恋せぬ二人が、恋愛を介さず家族になっていく模様を描いた作品。

オーソドックスな恋愛でないゆえの周囲の理解の無さや、個人の迷いを経ながら一歩ずつ前へ進んでいく。

役割を登場人物にそのまま投影して動かしているところがドラマ的技法なんだろうなと理解しつつ、小説としての読み味は後一歩物足りなかさを感じた。

一方で内容は新鮮で、特に同じアロマンティック・アセクシャルでも個人によって思いや感じ方はそれぞれであり、一括りにできないというところがよく伝わってきた。

 

 

マルクス・シドニウス・ファルクス『奴隷のしつけ方』

オススメ度:★★★☆☆

始めは面白い帝王学として使えるかなと思い読み始めた。いつか自分が部下などを使役するときに、マネジメント方法の一つとして使えると考えたからだ。

しかししばらく読んで、何かおかしいと気付いた。どうも使う側の立場というよりも、使われる立場からばかり読んでしまう。書いてある奴隷の活用術が、会社から自分にされていることと同じであったのだ。

奴隷がいったん仕事を覚えたら、そこからは仕事に応じて必要な量の食事を与えればいい。必要以上に与えると怠け癖がつくだけだ。(p.66)

とりわけ働きがよかった者たちに休暇を与えるというのも効果的である。(p.71)

第二に、役割分担を明確にするといい。分担が明確になれば責任の所在も明らかになる。(中略)仕事が分担されず、誰もが同じことをやるとしたら、誰も責任を感じないだろう。(p.71)

 

適切な報酬を与えよ、ときに休暇を与えよ、責任を明確にせよ。これらはどれも会社が従業員をコントロールするためにつかう手法であり、人間のマネジメントというものがいかに普遍的なスキルであることがうかがえる。

それと同時に、自分が現代の奴隷なんだなと思うとやや悲しい気持ちにもなる。そういえばふと、奴隷は解放されるが、私たちは解放されないことを思い出した。そう思うとますます悲しい気持ちになった。

 

奴隷のつかい方は労働者だけでなく、移民政策を考える上でも参考になる。

古代ローマでは戦争のたびにたくさんの奴隷を手に入れ、領内に引き入れてきた。その結果、もとからいた民族とは異なる民族、それもルーツの異なる複数の民族が入り混じる形となった。

このようなダイナミズムのなかでは、従来とは異なる統制方法が求められる。

古代ローマの奴隷制度は、大勢の人間を外部からローマ社会に取り込むための一つの仕組みでした。ただしローマ人たちはただやみくもに取り込んだのではなく、ある種の品質管理を試み、好ましくない人々がローマ市民になるのを防ごうとしました。(p.233)

 

奴隷が増えることは労働力の増加につながった。しかし当然よい側面だけでなく、負の側面も発生する。異文化が入り混じれば秩序が崩壊し、落伍者も生まれる。そのためローマ市民たちはいかにしてローマの秩序を保つか苦心していた。

当時のローマには、主人の裁量で奴隷を開放する制度があった。主人たちは解放した奴隷たちが自分たちに感謝し、生涯尽くしてくれるものだと考えていたがそうはならなかった。ハングリー精神の鍛えられた解放された奴隷たちは、自分らが成り上がるため手段を選ばなかった。

 

 

 額賀澪『小説家デビュー1年目の教科書』

オススメ度:★★★☆☆

「小説家になりたて」という珍しい層に向けて書かれた新書。

2作目に向けた活動や、担当編集者や他の小説家との関わり方など新人小説家が悩むポイントが解説されている。

繰り返しコミュニケーションはしっかり取ろうねとアドバイスしており、作家になろうという人種の性質が窺い知れて面白かった。

お金の話はやはりシビアだった。専業の作家さんたちは本当にすごいのだと改めて感じた。

 

 

スラヴォイ・ジジェク『「進歩」を疑う』

オススメ度:★★☆☆☆

マルクス・ガブリエルと並んで現代哲学のなかでも際立つ存在であるジジェク。

ずっと気になってはいたが難解と聞いており敬遠していた。今回満を辞して挑戦した。しかしびっくりするほど分からなかった。バッテリィズ風に言えば「全部読めたのに」と思いながらずっと読んでいた。

 

政治的な格差や経済的な搾取などから生じる差異、すなわち政治的差異が、「生活様式」の違い、すなわち「文化的」差異へと中和され、自然とそこにあるもの、乗り越えられられないもの、単に「許容」すべきものになったのだ。(p.20)

随所随所読み取れる箇所からはウィットにとんだ示唆が得られる。

上記では本来は政治がコントロールできる経済格差を、「ずっとそうだったからこれからもそうだよね」という文化とみなし、修正不要のレッテルを貼ってしまったことを示している。これは面白い。

 

大半の人びとが騙されていると言うよりも、むしろ大半の人びとはそもそも関心をもっていない。比較的安定した暮らしがこれからも変わらず続かどうかが、一番の関心ごとだからだ。多数は、自分たちで実際にものごとを決めるような、本当の意味での民主主義を望んでいない。自由に投票することで民主主義の体裁を保ちつつも、信頼できる御上の権威から選択肢を与えられ、どこへ投票するのが正しいのかを同時に教えてもらうことを人びとは求めている。(p.129-130)

国民は群衆に成り下がってしまった。

 

 

石田ゆうすけ『行かずに死ねるか!』

オススメ度:★★★★★

運命を変えてやる、自分の力で変えてやるわ!(p.19)

脱サラし自転車で7年半をかけて世界一周した人物のエッセイ。

読むと好奇心が刺激され「自分もいつか世界を見たい!」という思いがフツフツと腹の底から湧いてくる。読むタイミングによってはその勢いのまま仕事を辞めてしまいそうな気もした。

沢木耕太郎はバスで世界を回り、リーマントラベラーこと東松寛文は週末を利用して世界を回り、この本の著者である石田ゆうすけは自転車での世界一周を成し遂げた。

どれもそれぞれの良さがあり、どれが正解ということもない。いつか自分にあった方法で世界を見てみたいなと強く感じた。

石田ゆうすけが最も衝撃を受けたティカルはいつか見に行きたい。いざ行く時のモチベーションになるよう、ティカルはネットでまだ写真を見ずに大事に取っておいてある。

 

 

秋山仁『数学者に「終活」という解はない』

オススメ度:★★★★☆

数学者 秋山仁の自伝的エッセイ。

読んでいて、小澤征爾の『僕の音楽武者修行』を思い出した。

若い時に世界に飛び出し、がむしゃらに生きることがどんなに素晴らしいことかと思った。何歳になっても、本気で生きることで青春を感じることができる。

自分の人生がだんだんと型にハマっていくように感じていたが、まだまだ広げることができると思い出させてくれた。そのためには自分でよくよく考えて日々を生きなくてはならない。

 

 

帝国データバンク『なぜ倒産 運命の分かれ道』

オススメ度:★★★☆☆

帝国データバンクによる、話題性のある倒産をした会社の調査結果をまとめた本。

自分が会計に関わっているので、決算は神聖なものという認識が強かったが、思いの外粉飾が多いことがわかり驚いた。

 

 

野宮有『殺し屋の営業術』

オススメ度:★★★★☆

第71回江戸川乱賞をぶっちぎりで受賞した話題作。

敏腕で冷徹な営業マン・鳥居一樹がひょんなことから裏の世界に足を踏み入れ、才能を発揮していくストーリー。

主人公だけでなくライバル含めキャラが立っていて、最後までテンポ良く読むことができた。ドラマや映画向きの作品だと感じた。

文体も軽くサラッと読めるので、疲れている仕事帰りでも楽しめたのがよかった。

 

 

藤崎翔『オリエンド鈍行殺人事件』

オススメ度:★★★★☆

短編とショートショートの組み合わさった作品集。

「お決まりの」流れの話を、メタ的な視点で再解釈・構築して新たな展開に持ち込むスタイルが多かった。

筆者の藤崎翔氏はもともと芸人をしていたらしく、お決まりをひっくり返して笑いに変える流れはコントに近いのかなと感じた。

ひとつひとつの作品のクオリティが高く、それでいてスルスルと読めた。

 

 

辻村深月『嘘つきジェンガ』

オススメ度:★★★★☆

辻村深月の詐欺に関する3つの短編集。

詐欺なんて、愚かな人がひっかかるもので自分には関係ない。ましてや加担するなんて夢にも思わない。→距離が近いことを実感させられる

安心して読める

 

 

野宮有『殺し屋の営業術』4

オススメ度:★★★★☆

第71回江戸川乱賞をぶっちぎりで受賞した話題作。

敏腕で冷徹な営業マン・鳥居一樹がひょんなことから裏の世界に足を踏み入れ、才能を発揮していくストーリー。

主人公だけでなくライバル含めキャラが立っていて、最後までテンポ良く読むことができた。ドラマや映画向きの作品だと感じた。

文体も軽くサラッと読めるので、疲れている仕事帰りでも楽しめたのがよかった。

 

小栁由紀子『名画のインテリア: 拡大でみる60の室内装飾事典』

オススメ度:★★★★☆

西洋絵画に登場するインテリアが紹介された本。

やや値は張るがフルカラーで美しい本に仕上がっている。ランバンの仕事部屋やポンパドゥール夫人の絵が印象に残った。

 

【成瀬完結】宮島未奈『成瀬は都を駆け抜ける』

オススメ度:★★★★★

「そういう子なので」(p.144)

 

宮島未奈『成瀬は都を駆け抜ける』

 

あらすじ

京都大学に合格した坪井さくらは、その年の同級生のうち京都大学に合格したのが自分一人だと知り愕然とする。

一緒に京都大学に進学できると思っていた、自分よりもずっと頭が良く、小学一年生のときからの幼馴染である早田くんが知らぬうちに志望校を変えていたのだ。早田くんと同じ大学に通うことだけを信じて生きてきた坪田は失意に暮れ、入学式も立ち去ろうとした時パンプスを滑らせ転んでしまう。そのとき「大丈夫か」と声をかけてきたのが紺の振袖に身を包んだ成瀬あかりであった。

立ち直れない坪井には強く生きている成瀬に憧れていく。成瀬は坪井に気を紛わせるため料理を勧め、次第に坪井も料理に打ち込むうちに立ち直っていくように見えたが…「やすらぎハムエッグ」

 

感想

11月の末の日、よく晴れた暖かい日にふと有楽町の三省堂に寄ると、大々的に成瀬コーナーが展開されていた。これまでの2作も相当売れたのだろう、ノーベル賞でも取ったかのごとく広く売り場が設けられ、周りをうろうろしている間にもよく売れて重ねられた本が小さくなって行っていた。

そのとき読んでいた本もあったのでまだ買うのは我慢しようかと思ったけれど、表紙の成瀬と目が合ってしまったので結局そのまま購入することにした。

 

これまでの2作と同様に、この本も買ったその日のうちに一気に読み切ってしまった。話のテンポがよく、また一話一話が短くて書かれているのも読みやすい要因だと思う。

 

1作目の『成瀬は天下を取りにいく』が成瀬と特異性を、続く2作目の『成瀬は信じた道をいく』が成瀬と普遍性を表しているとすれば、本作はどのように形容できるだろうか。

この本を最後に読み切った時にとったメモは「人に周りに人がいるからだと」だった。これ自体に深い意味はなく、そのとき思ったことを書き留めたに過ぎないが、あとから読み返しながら思ったことを再整理しているとだんだんと自分で書いたメモの意味に気がついてきた。

 

この小説の一話に、以下のセリフがある。

「わたしには役目なんてないよ」

「そんな気負わずとも、生きているだけでいいんだ」(p.23)

 

これは自己肯定感が他に落ちてしまった成瀬の大学の友人である坪井に対し、成瀬がかけた言葉である。

人間関係というと、武田鉄矢のいうような人と人との支え合いを思い浮かべる。しかしこの支え合いは必ずしも意識的・能動的になされるとは限らない。きっと支え合いの多くは自分の知らないところで、気付かぬうちに行われている。

 

周りから見ると成瀬はたくさんの役目を果たし、多くの人を支えているように見える。しかしきっと成瀬はじぶんが支える側の人間だとは思っていない。

むしろ、親友の島崎や自分の家族、そのほか地元の多くの人々に生かされているほうを意識しているのではないか。

成瀬が支えられている印象的なシーンとして、テレビのインタビューが放映された後の母との会話がある。

「母さんは小六のときにも『そういう子なので』と言ってくれた」

苦い記憶が思い出されて、のどの奥が苦しくなる。

「ごめんね、あのときはそう言うしかなかったから……」

「わたしはうれしかったんだ」

思いがけない評価に、「へっ?」と変な声が漏れた。

「そういう子だって認めてくれているんだとわかったから、卒業文集にも『二百歳まで生きる』と書けた」(p.144)

 

小学校の三者面談で、成瀬のマイペースな言動を否定する教師のコメントを、母は「そういう子なので」とばさりと断ち切った。このコメントは別に母が成瀬を支えるために発したセリフではない。しかし成瀬はその言葉に支えられて、今日まで変わらずにいることができた。この事実に読んでいてグッときた。

 

生きていて、人と役に立てているか不安になることもあるし、自分の存在理由を感じられなくなることもある。しかし実際には存在し、自分らしく振る舞っているだけで、気が付かぬうちに誰かを支えて助けている。

 

この成瀬3作目を形容するならば、人間関係全般を描いた作品と言えるのではないだろうか。

 

 

【雑記】窓の外を眺める小さなお家たち

 

窓の外を眺める小さなお家たち

 

窓の外を眺める小さなお家たち

幼い頃からかかりつけにしている歯医者がある。家族で経営している小さな歯医者は、優しい先生の人柄によりいつも賑わっている。

待合室には子どもたちが退屈しないようにとたくさんのオモチャが置かれた遊び場も設けられ、その白い壁には子どもたちの笑顔の写真がびっしりと飾られている。院内はいつも明るく、清潔さで光っている。

部屋の飾りはマメにも季節ごとに取り替えられ、その季節のイベントによって秋はハロウィン風に、冬はクリスマスのサンタやトナカイなどが院内に色を添えている。

 

12月のある日、久々に訪問し待合室でじぶんの番を待ちながらふと窓の方を見やると、赤や黄色のカラフルな壁に森の緑の屋根を乗せた4、5個の手のひらに乗るほどの小さなお家たちが飾られていた。

そのオブジェの造形を見るに、どうやらお家たちは窓の外の方に向けて配置されているようである。

病院のお客さんに背を向けて窓の外を眺める小さなお家たち。これらのお家にふと、大きな愛のようなものを感じた。

 

院内のサンタやトナカイ、あるいはアンパンマンのオモチャや壁に飾られた子どもたちの写真は、明るい陽のなかで楽しそうに過ごす子どもたちやそれを見つめる家族を見ている。

先生や職員たちとともにこの素敵な空間をつくりあげる小さなオブジェたちもまた、優しい空気にあてられきっと同じ温かさを有しているに違いない。そう思うと心なしか、サンタの目にも温もりが宿っているように見える。

 

今年の秋は暖かい日が続いていたけれど、12月に入るとこれまでの暖かさがウソだったかのように気候を変わり、あっというまに耳の裏が痛み出すほどきちんと冬になってきた。

窓の外の通行人はすこしでも吹きつける冷たい風から身を守ろうと、身体を小さくかがめ、襟を高く立て、ポケットに手を突っ込んで歩いている。時折強く風が吹き痩せた木々がぶっきらぼうに音を立てて揺れると、通りすがりの皆が顔をしかめていく。

 

小さなお家たちは不憫である。

小さなお家たちは院内の様子を見ることができない。部屋の中でときどきワッと起こる笑い声の主を確認することも、治療を終え半泣きになりながらもどこか誇らしげに帰っていく子どもの顔を見ることもできない。

それでもそんなカラフルな小さなお家たちは院内の幸せをおすそ分けするかのように、寒空の下をコートを振るわせ歩く人々を静かに見つめている。

 

待合室には視線を戻すと、赤い服を着た4歳くらいの女の子が、大人の腰ほどの高さのクリスマスツリーの飾りに優しく触れていた。

 

【本屋大賞】瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』

オススメ度:★★★★★★

会うべき人に出会えるのが幸せなのは、夫婦や恋人だけじゃない。この曲を聴くと、それがよくわかる。(p.250)

 

瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』

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あらすじ

親の都合により、高校卒業までに苗字が3回変わり家族の形が7回変わってきた優子。血のつながったお父さん、明るく奔放な梨花さん、裕福で懐の広い泉ヶ原さん、不器用だけど真っ直ぐな森宮さん。形は違えど、優子はそれぞれの親たちから存分な愛を受け育ってきた。

愛情の形は食事やピアノの音色に変わり、優子や家族の心に浸透していく。

そして今度、優子が家族を持つ番になる。

 

 

感想

「これも幸せな家族の一つの形」という言い方がある。

両親が揃っていて、兄弟や親子仲がよくて、という従来の幸せな家族観が瓦解し、親が欠けていたり、いびつな関係のなかで暮らしていたりと家族の姿が多様化してきている。その流れのなかで新しい家族の形を肯定する言葉として、「これも幸せな家族の一つの形」が出てきたと考えている。

 

そもそも「幸せ」は「形」で決まるのだろうか。

幸せを生み出すことのできる「家族の形」をパターン化したり、あるいは「家族の形」によって幸せ・不幸せの線引きができるのであれば、「幸せ」と「形」を対応したものとして理解できる。

しかし実際は同じ構造のなかから幸せが生まれることも、不幸せが生まれることもある。両親が揃っているからといって幸せとは限らないし、片親だから不幸せとも限らない。また不幸せだったのが、幸せになったりその反対もある。

つまり、どういった家族の形態をとっているかということと、本人が幸せであることは必ずしも関係があるわけではない。

 

本作の主人公の優子は、高校を卒業するまでに3つの苗字を経由し、8つの家族の形を経験してきた。

複雑な家族な形に、周囲や教師はみな同情したり、好奇的な目を向けたりと優子は何かと注目されてきた。

この小説を読み始めた人は、初っ端の家族関係の情報量の多さから優子の数奇な人生についての物語が始まるのだと思い込まされる。

しかしこの小説はそのような家族形態の稀有さに注目したものにはなっていない。もちろん入り組んだ優子の家族の形の移り変わりについて書かれてはいるけれど、むしろその特異性よりも普遍性をもった幸せのほうが物語の中で際立っている。

話の各所に散りばめられた「幸せってこういうことだよなあ」と思い出させてくれるシーンやセリフが、読者の心をほっこりと、また胸をじぃ〜んとさせる。

特に私の心に残ったものをいくつか書き残しておく。

 

今一緒にそばにいてくれる人を大事にしよう

小学五年生のときの優子が、大好きだった大家のおばあちゃんとの別れに際し、過去との決別を決心するシーンがある。

親子だとしても、離れたら終わり。目の前の暮らし、今一緒にそばにいてくれる人を大事にしよう。(p.155)

 

幼く、頼れる大人の少ない優子が大好きな人との別れを前に大人になるこのシーンは、読んでいて子供の頃の自分を想起させられ、つと涙が出そうになる。

何かを手に入れたときよりも、何かを失うときのほうがずっと辛い。

何かを失ったあとの心はピースの欠けたジグソーパズルのように「そこにあった気配」だけが残り、より一層寂しさを感じる。欠けているものを探し求め、もし叶うならばもとのピースをなんとか取り戻したいと執着してしまう。

しかし、たいていの場合において失ったものは戻ってこないし、戻ってきたとしても形が変わってしまっていたり、時には求めていたものが幻想の産物にすぎなかったと後から分かることもある。

過去に執着せず、いま・ここにあるものを大事にしようとする態度は幸せに通ずると思う。

 

会うべき人に出会えるのが幸せなのは、夫婦や恋人だけじゃない。

優子がサプライズで森宮さんの高校時代の合唱曲の伴奏を発表しようとこっそり練習し、森宮さんに披露するシーンがある。この時期は思春期に入った優子が森宮さんとの距離感に悩んだり、また周囲との違いに気がついていくなど揺れ動いたタイミングでもあった。

この行動だけでも、優子が森宮さんをいかに大切に思っているか、特別な存在であるか、また優子が大事に育てられたことがわかりジンとくるが、その選曲がまたすばらしい。その曲とは中島みゆきの「糸」だ。

会うべき人に出会えるのが幸せなのは、夫婦や恋人だけじゃない。この曲を聴くと、それがよくわかる。(p.250)

 

もちろんここでの会うべき人は優子にとっての森宮さんになるだろう。しかし私は読んでいてこれまで自分が人生の中で出会ってきた大切な人たちのことが頭にふと浮かび、なんて幸運で素晴らしいことだったんだと、温かい気持ちが広がり涙腺が弛んだ。

「会うべき人」という表現も、どこか縁と奇跡のようなニュアンスを感じさせすてきだ。会うべくして会ってきたたくさんの人たちを、これからも大切にしたいと思った。

 

親になるって、未来が二倍以上になるってことだよ

梨花さんが森宮さんに「優子の親になって欲しい」と口説いたときの話では、親になるということがどんなに奇跡的ですばらしいことかが語られている。

自分の明日と、自分よりたくさんの可能性と未来を含んだ明日が、やってくるんだって。親になるって、未来が二倍以上になるってことだよ。(p.315)

自分じゃない誰かのために毎日を費やすのって、こんなに意味をもたらしてくれるものなんだって知った。(p.407)

 

こんなふうに誰かに言われたら、なんて幸せだろう。またこんなふうに誰かを思えたら、それはもっと幸せなことだ。

子ども産み育てるのには現実とてもお金がかかる。20年以上に渡り継続的な支出も続くし、不安やトラブルも絶えないだろう。こうした背景をもとに実際出生率は下がっているし、子どもの数自体も私が生まれた頃よりずっと減ってしまった。

貧しくなる世の中で子どもを持つということはとても大変な選択になる。けれどもこのように思える人が増えたら、またたくさんの未来を見たいと思えたら、子どもを持ちたいという人の数も増えるのではないだろうか。

私自身はもともと子どもが欲しいなとずっと思っている。これらの文章は「自分が子どもが欲しいと思っていたのは、こういうことのためだったのか」と改めて感じさせてくれた。

 

あの日決めた覚悟が、ここへ連れてきてくれた。

本当に幸せなのは、誰かと共に喜びを紡いでいる時じゃない。自分の知らない大きな未来へとバトンを渡す時だ。あの日決めた覚悟が、ここへ連れてきてくれた。(p.420)

人生は決断の連続だ。

決断は能動的になされることも、受動的になされるのどあるけれど、ともかく自分が選んできたことでしか今や未来はつくられない。

なかには苦しい決断や、難しい決断もある。矛盾に苛まれ直感でしか選べないこともたくさんある。

選ぶのが大変な決断も、自分の将来の幸せにつながっているのだと思えたら、勇気が出そうな気がした。

 

難しいことは抜きに、純粋に家族っていいな、幸せになりたいな、そして誰かを幸せにしたいなと思える小説だった。

小説を読んでこんなに温かい気持ちになったのは久々だったので、評価も5段階で「6」をつけている。

またいつか、自分に大切な人や家族が増えたときにきっとこの本を思い出すだろう。

 

 

【価値観】解釈と物語

 

解釈と物語

 

解釈によって自分の物語がつくられる

人生に意味などあるのだろうか。

偶然の重なりによって地球上に有機物がうまれ、より複雑な構造を獲得し、生命が誕生し、進化を繰り返し、人類となり、たまたま私たちとなった。

すべては無数の施行が生み出した偶然であり、ランダムに文字を並べることを永遠に続ければいつかは『ハムレット』と同じ文字列が含まれるように、悠久の時が人をつくり出してしまった。

 

もし突然降り出した雨や、草木の芽吹き、木の葉をゆらす風にどんな意味があると問われたら、私たちは答えることができるだろうか。

雨が落下する原理や草木の成長点、葉の空気抵抗といった原理について、自然科学の言葉を用いて語ることはできるかもしれない。しかしその普遍的な意味といったものを共通の言語で語ることは、詩人や哲学者でも難しいだろう。

 

なぜ目の前の事象に対して意味を見出すことが難しいのかといえば、それは事物に意味が内在していないためである。雨に聞いても雨がなぜ降っているかわからないように、雨それ自体には意味は含まれていない。事物はただ存在・実存するだけであり、意味や理由といったものは先立って持ち合わせてはいない。

物事をじっと見つめても、それらの「意味」というものは表れてはこない。ないものを探すのであるのだから、空の宝箱を開け続けるのと同じようにナンセンスである。

 

では「意味」は存在しないのであろうか。知的生命体は追い求める価値を失い、ニヒリズムのなかで生き続けなけらばならないのだろうか。

私はそうは思わない。事物や出来事に意味は含まれなくとも、「解釈」によって意味を見出し価値を取り戻すことができる

 

例えば玄関にきれいな石が配置されていたとする。

このとき、石それ自体は単なる地球上の一座標上にエネルギー的に安定した状態でそこにあるだけで、それ自体は意味は持ち合わせていない。

しかし私たちはその石の艶やきらめき、光沢や絶妙なカーブと角に神秘性を見出し「この石にはなにか魔術的な力がある。きっと魔除けになるに違いない」と強度の高い原子の塊を「魔術的ななにか」と解釈し、価値を見出すことができる。

ほかにも天気が良い日に外に出て「今日はなんだかいいことがありそうだ」とふと思ったり、餌をもらいにきているだけの虫を「懐いている、家族だ」と解釈して愛しむこともできる。

 

解釈はものの見え方や出来事の受け取り方を変え、別の物語をつくりだす。

その物語は英雄譚であったり、悲劇であったり、人によってさまざまである。

 

「運がいい」と思える人はポジティブな解釈が癖付いている。自分にはいつもいいことが起こるという解釈は、自分は幸せであるという物語をつくりだす。幸せな物語を生きている人には正のオーラが満ちているので、またいい人が集まるようになり、「運がいい」ことがまた起こりよい循環が生まれる。

逆に悲劇のヒロインのような性格の人物は、常に自分の身の回りのできごとを悪い方向に解釈している。噂話を悪意で拡大解釈したり、起きてさえいないことを事実と妄信し、周りの人たちを加害者に仕立て上げる。こうなると周りの人物はどんどん離れていき、その離れていくことも捨てられたと解釈し悲劇のページを増やしていく。

 

たいてい人の人生に訪れるイベントなんてほとんど大差はなく、共通しているのは生老病死くらいである。あとの差異は解釈による違いにすぎない。

 

私自身は自分自身に起きた事柄についてことごとく解釈しなければ気が済まない性格をしている。私に訪れた出来事は偶然ではなく、つねに必然的に私が自ら引き寄せたと確信しなくては腑に落ちない。

これはいい出来事・悪い出来事どちらでも同様で、いい出来事であれば普段の行いがよかったのだな、これまで頑張ってきた成果だなと思い、逆に悪い出来事の場合は「何か天が意図をもって私の人生に干渉したのではないか」と疑い、どのように解釈すれば私の物語と整合が取れるか考える。

解釈された出来事は既存の私の大きな物語に合流し、私の人格をさらに強固に形成していく。

 

例えば私がこれまで通った出来事と解釈は以下の通りである。

受験に失敗し、2浪を余儀なくされたときには、天が何か私に与えたい役割があって、入学のタイミングをズラされたと理解した。結果その後新しくできたサークルに入り存分に楽しみ、幹部まで務めた際にはそのために天が浪人させたのだと解釈と物語を固めた。

天気についても雨が降れば、調子に乗るな、気を引き締めろということだと思い、晴れれば私のために晴れたのだなと思う。

また新しい知り合いが増えた時には、「この人はなんのために巡り合わされたのだろう」と考え、納得のいく解釈を探す。

私は私が幸せになっていくと確信しているので、どのように天が幸せに導くつもりなのか興味がある。私は私が幸せになるストーリーを追っていきたい。

 

 

解釈を意識するメリット

解釈を意識しながら生きていくと、いくつかの面でよりよく生きることにつながると考えている。その中でも特にメリットだと感じている3点を紹介する。

 

出来事をポジティブに捉えられるようになる

一つ目は自分の周りでおきた出来事を、ポジティブに考えられるようになることである。出来事というのはたいていは自分ではコントロールできない事象であり、それでいて必ずしもいいこととは限らない。しかしその解釈は自由に変えることができる。

例えば長いこと使っていたお気に入りのカバンを汚してしまい使えなくなった時には「さすがにカバンの寿命も切れ、天からの買い替えろというメッセージだろう」と解釈すれば、心置きなく新しいカバンを買うことができる。

病気の親戚がなくなってしまったときには「お別れは悲しいけれど、親戚が病気の苦しみから解放されたのであればよかったのではないか」と考えることで、悲嘆にくれることもなくなる。

もちろんすべてがすべて前向きに捉えられるわけではないけれど、普段からポジティブに解釈する癖付けを行うことで、失ったから悲しい、亡くなってしまったから辛いなど短絡的に結び付けずに済むようになる。

 

目的思考になる

解釈をつけるということは、目的志向にもつながる。

ただ単に起きていく出来事に対しそのままに受け取っていると、なぜそれが起きたのかという問いに鈍くなっていく。

解釈するような意識がされていれば「なぜ起きたのだろう」「なんのためにここにあるのだろう」という問いが自然に生まれるようになり、目的の仮説をもって動けるようになる。

 

自分らしさのようなものが見えてくる

出来事を解釈し自分の物語をつくりだしていくと、自分らしさのようなものが見えてくる。

人間というのはただの生物なので、その人生をざっくり言ってしまえば起きて食事をして排泄して働いて寝ての繰り返しでしかない。そこに個性や人格は存在せず、生きるために必要な存在にすぎない。

しかし解釈にあたり「自分はこういう人間だからこういう出来事が起きるのだ」「こういう出来事がおきるのだから私はこういう人間なのだ、こういう物語を持つのだ」という考え方を繰り返していくと、次第に自分の物語というものが見えてきて、それが自分らしさにつながっていく。

物語は相対性をもって確立されていき、自己と他者の境界がはっきりすることでその輪郭があらわになる。

 

人生の意味は解釈によって少しずつ明らかになっていき、自分自身の物語それ自体が意味へと変わっていく。人生にどんな意味があるかは分からないが、意味を見つける手段があることが、ニヒリズムから脱却するひとつの救いになるのではないだろうか。