本と絵画とリベラルアーツ

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【本屋大賞受賞作】宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』【最高の夏小説】

オススメ度:★★★★☆

「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」(p.6)

 

宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』

 

 本書のエッセンス
・『キケン』を彷彿とさせる青春夏小説
・真っ直ぐな異端児・成瀬を内と外から描いている
・全編通して爽やかな読み味

 

あらすじ

「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」

滋賀県大津市に住む14歳の成瀬あかりは一学期の最終日、幼馴染で友人の島崎にこう切り出した。

 

西武とはこの年の8月の閉店してしまう西武大津店のことで、成瀬は閉店までの間毎日西武に通うことにしたのだという。

成瀬はこの日から西武に通いつめ、閉店までのカウントダウン放送を行うローカルテレビに映り続けた。突拍子もないところから始まったこの試みは次第に地元民に認知され、成瀬はプチ有名人になる。

 

あるときはM-1を目指して漫才をはじめ、あるときは髪の伸びるスピードを検証するために坊主にする。成瀬は真っすぐで、とても変である。

この本はそんな成瀬の中学から高校にかけてを中心とした、成瀬と周囲の人々の6編からなる短編集である。

 

感想

素直にとても面白かった。

 

本屋大賞を受賞して以降どの書店でも一番目立つところに平積みされ、書店にいけば見ない日はないほどの大ヒットとなっている。

天邪鬼な私はしばらく手を出さずにいたが、先日本屋にぶらりと立ち寄った際についに手にしてしまった。

そしてそのままお気に入りの喫茶店で読み始めると、一度もスマホを触ることなく最後まで読み通した。美味しいケーキとともに幸せな読書タイムとなった。

 

全体通して読みやすい文体で、どの短編もすっきりとしてさわやかな読み味だった。

読み味だけでいえば、有川ひろの『キケン』と近い感じを受けた。

 

この小説の面白さに秘訣は、成瀬の人柄を成瀬の内側と外側の両面から描いている点にあると思う。

 

真っ直ぐと目標に突き進む英雄譚のような物語は世の中にたくさんある。

常に正しく、世界の中心に自分を据え、自分の信じた道を脇目も振らずに突き進む英雄は、そのカリスマから読み手に憧れを抱かせる。これは英雄を外からみた物語である。

また外的要因に対して主人公が感じたことを綴る小説も多くある。いわゆる私小説がこれにあたる。変わっていく周りに対して、「私」が何を考え、何を思うのかをつぶさに描くタイプの小説である。

 

この小説は英雄譚であり、かつ私小説でもある。

成瀬という英雄を周囲の目から宇宙人のような存在として描きながら、成瀬自身に内在する不安やこころの揺らぎを描いている。

緊張を知らず、自分で決めた道を突き進み成果を出す成瀬は周りから見れば超人である一方で、成瀬自身は一人で生きていけないことを理解し、親しい友人を失うことに対する正常な危機感を持ち合わせている。

 

この二面からの表現によって、読者は成瀬のカリスマに惹かれると同時に、成瀬の中にある自分を見つけ共感する

 

この本を読んだ多くの読者そうだったのと同じように、私もまた成瀬のファンになってしまった。

 

 

 

【言語習得という神秘】今井むつみ・秋田喜美『言葉の本質』

オススメ度:★★★★★

 

今井むつみ・秋田喜美『言葉の本質』

 

 本書のエッセンス
・分かるということは、間接的に身体的経験しているということ
・子どもは仮説形成推論によって爆発的な言語習得を行っている
・ヒトだけが対称性推論を持ち、言語を手に入れた

 

言語のありかたと人間の心理という二つの面から言語の本質に迫っていく本。

 

初め本書を手に取った際にはポップな表紙からハウツー本のようなものかと思ったが、販促用の表紙をめくるとしっかりした中公新書となっており、中身も筆者の長年の研究に則ったものであった。

 

読むと子どもたちが言葉を話していること自体が奇蹟に感じられるようになる。

 

分かるということ

言葉が分かるとはどういう状態であろうか。

身体的な経験のない言葉について知ろうとするとき、別の言葉に置き換えて表現しようとする。まるごとの対象について身体的経験を持たずに、対象を知ることはできるかというのが記号接地問題である。

 

認知科学者のハルナッドは身体的経験を持たない置換連鎖を「記号から記号へのメリーゴーランド」と表現し、少なくとも言葉を理解するためには最初の言葉の一群は身体に「接地」していなければならないと指摘した。

 

つまりAが分かる状態というのは、AをBで十全に説明できる状態であり、BまたはBを説明できるCが身体的経験によって理解されていなければならない。

 

子どもの言語習得の神秘

何も知識を持たずに生まれてくる子どもたちは、どのようにして抽象的かつ複雑で巨大な言語というシステムを習得していくのであろうか。

 

もちろん子どもは初めから抽象的・恣意的(*1)な言葉を習得していくわけではない。

 

最初の段階ではアイコン性(*2)・身体性(*3)の高いオノマトペを足掛かりとする

赤子でも、音と対象の間に関連があること、すなわち身体性をアプリオリに持っている。

例えば曲線とギザギザ下線を見せ、どちらが「モマ」でどちらが「キピ」と結びつくかという実験では、大人の感覚と同様に曲線が「モマ」と感じ、ギザギザを「キピ」と感じるという結果がでている。

 

さらにオノマトペから身体性の低い一般語の習得に至るには、どのような秘密があるのだろうか。

その秘密が「仮説形成推論」である

 

仮説形成推論とは結果から仮説を立て原因を推測するものである。帰納法が結果を収束させて共通法則をみつける(すなわち法則は結果の最大公約数的)であるのに対し、仮説形成推論は想像力によって得られ結果を超えた仮説を打ち出すことができる。

仮説形成推論によって、子どもは誤りを含みながらも言語体系に対し絶えず仮説を立て、フィードバックを受けその精度を上げていく。

 

子どもの良い間違いというのは一見未熟さの象徴に見えるが、実際には高度な仮説検証のプロセスであるのだ。

 

また人間だけが対称性推論を持っている。

これは[XならばA]のとき、[AならばX]であろうというバイアスである。

論理的に誤りではあるが、このおかげで[イヌそのもの→イヌという言葉]のとき[イヌという言葉→イヌそのもの]の両面を認識することができる。

よって現実の事物と言語システムを結びつけることができ、言語システム自体を成り立たせている。

 

(*1)物の名前に必然性がないこと:例えば日本語では犬を「イヌ」と呼ぶが英語では「Dog」であり、対象そのものと名称に必然性がない。

(*2)記号が対象をそのものを表す

(*3)五感で得られる感覚と記号が直結している

 

***

 

幼児がつかうオノマトペを聞くと、これまでは言語発達が未熟だなという感想しか持たなかった。

しかし本書を読んで言葉というものがいかに高度なシステムで、言葉という体系を全く持たない有機物がそれを獲得していくという過程に神秘を感じるようになった。

また言語習得の過程において、オノマトペがアイコン性や恣意性ゆえに足掛かりとして有効な立ち位置にあることがわかり、これからは幼児のオノマトペを聞いたら「身体性から離れた高度な体系を獲得している過程だ」と感動するに違いない。

 

 

【インプットと試行が天才を生む】菅付雅信『天才はいない。天才になる習慣があるだけだ。』

オススメ度:★★★★☆

 

良い課題提出ができる人は、課題が与えられる前から、すでに何かしらその領域ないしはそのクリエイターについて何度も考えている。普段から、日常的に。(p.40)

 

菅付雅信『天才はいない。天才になる習慣があるだけだ。』

 

 本書のエッセンス
・トップクリエイターは断続的にアウトプットを出す仕組みを持っている
・天才は良質なインプットによって生まれる→出力が枯渇しない
・天才は日常的に脳内試行している→出力が即座で出る

 

感想

有名雑誌の編集者等を経て長年クリエイティブ教育に携わっている菅付氏による、トップクリエイターを目指す人のための指南本。

トップクリエイターは天才だけに許された仕事ではなく、再現可能な形でつくることができることを例を挙げながら主張している。

想定読者はクリエイター志望者であるが、アウトプットが求められるすべての人に役立つ内容となっている。

 

筆者は多くのトップクリエイターと接する中で、天才の仕事が「ひらめき」ではなく、仕組みによって維持されていることに気がついた。

私がこれまで仕事をしてきた「天才」と称されるクリエイターたちは、(…中略…)どんな課題に対しても「ほぼ即答に近いかたち」でアイデアを出すことができるのを私は仕事の現場で目の当たりにしてきた。彼らは日々膨大にインプットし、膨大なアイデアの掛け算を頭の中で試しているからこそ、そんな芸当も可能になるのだ。(p.26)

 

つまり天才が常にクオリティの高いアウトプットを即座に出すことができるのは偶然ではなく、しかるべき仕組みを持っているからである。

その仕組みとは①大量のインプットと②日常的な脳内試行だという。

 

大量のインプット

新しいアイデアは、既存のアイデアの組み合わせによって生まれる。つまり既存のアイデアに対するインプットがなければ、新しいアイデアは生まれてこない。

断続的にアウトプットを出し続けるためには、インプットの方も続けなくてはいけない。すなわち大量のインプットこそがアウトプットを続けるための生命線となる。

大量にインプットをするにあたって制約となるのは「時間」である。寿命がある以上人間がインプットに使える時間は有限であり、この世のすべてをインプットすることは不可能である。

筆者はインプットの時間を確保するため、暇つぶしを止めるようにも勧告している。

 

暇つぶしを排除し、時間を切り詰めたうえでインプットをの質を上げるためには、インプットするものの取捨選択が必要となってくる。

ではどのように取捨選択を行い良質なインプットを実現するか。筆者は「いいもの」ではなく「すごいもの」をインプットせよと主張している。

筆者によれば「すごいもの」とは初登場時に賛否が分かれかつそれを乗り越える歴史的視点があるもの、または価値観を揺さぶるような問いを与えてくれるものだという。

 

筆者は本書の中で「すごいもの」の具体例として書籍や映画のリストを掲載している。この部分はクリエイター向けになっているので、そっち方面のキャリアの興味がある人は確認するとよいだろう。

 

②日常的な脳内試行

続いては即座にアウトプットを出すための習慣である。

筆者は自身が開催しているワークショップでの参加者の態度について、以下のような指摘をしている。

良い課題提出ができる人は、課題が与えられる前から、すでに何かしらその領域ないしはそのクリエイターについて何度も考えている。普段から、日常的に。(p.40)

即座に良質なアウトプットを出すことができる人というのは、アウトプットを求められてからよーいスタートで考え出しているわけではなく、それ以前の段階で脳内試行を完了させている。常日頃から考えているからこそ、すぐにハイクオリティなものを出すことができる。

 

事前に試行しておく態度はクリエイター以外の仕事においても全く共通している

仕事の依頼がきたとき、またクライアントから質問が飛んできたとき、そこから調査してアウトプットを出すのでは遅すぎる。

将来的に関わってきそうなテーマについては事前にキャッチアップを進めておき、期がくるまで熟しておくのがどの業界においても共通するプロフェッショナルとしての姿勢である。

 

そういった意味でこの本の内容はクリエイター向けだけではなく、プロフェッショナルとして働く人すべてに有用だと言える。

 

 

【競争は幸せか】ちきりん『ゆるく考えよう』

オススメ度:★★★☆☆

「自分の失敗なんか、自分以外で覚えている人はいない。だから自分が忘れたらそれで終わりだよ」(p.231)

 

ちきりん『ゆるく考えよう』

 

 本書のエッセンス
・常識や通念を特別視せず、フラットに考える
・自分の感覚が一番大切
・表現方法は言葉だけではない

 

感想

本書を読んだ第一の印象は、反自己啓発書的であるということである。

通常の自己啓発書はあるべき姿として、資本主義社会の勝者をあるべきとしてイメージし、勝つためのメンタリティと施策を授けようとする。競争に勝ち、英雄になることこそが正しい生き方であり、そこから逃げたり負けたものは「負け組」だと主張する。

 

しかし実際には誰もが勝者になれるわけではない。もっと言えば、勝者になれるかどうかはある程度あらかじめ決まっている。

このことから筆者であるちきりん氏は、勝てない競争を無理強いされることを不幸であると考えている。

諦めていないと、人は頑張りますから。無駄なのに……。(p.26)

 

誰もが努力すれば勝てるという幻想を植え付けられ、成長の名のもとに一生懸命働く。これは本当に幸せへの道なのだろうか。

勝てない競争から降り、現実的な道を選んだ方がラクであるというのが筆者の主張であり、この本の後半ではその具体的なアイデアがバラバラと綴られている。

アイデアには、経済的な面では固定費を下げるアドバイスや「逆張り」のススメなどがある。

 

***

 

特に印象的であったアイデアに「自分の表現方法」と出会うというものがあった。

誰しもが自分のことを理解してほしい、自分のことを自分で分かりたいという欲求を持っているが、誰もが自分らしく表現できるツールを持っているわけではない。表現されないことによる欲求不満はストレスとなり、幸せからは遠ざかっていく。

 

表現というと言語化が思いつくが、なにも言葉だけが表現方法ではない。

デザインや音楽、絵画や写真、新しいものだとプログラミングも表現方法の一つである。

 

自分のなかのモヤモヤをうまく伝えられないのはコミュニケーション能力が低いからではなく、もしかしたら自分らしい表現方法にまだ出会っていないからかもしれない。そう思うと気持ちが楽になるかもしれない。

 

 

【本の紹介】竹内薫『自分はバカかもしれないと思ったときに読む本』

オススメ度:★★★★☆

フィードバックがないと人はバカになる(p.96)

 

竹内薫『自分はバカかもしれないと思ったときに読む本』

 

 

 本書のエッセンス
・バカだと思われているとバカに育つ
・フィードバックを受けないとバカになっていく

 

感想

仕事量と責任の負荷に負け、初めて鬱っぽい気持ちを味わった。

寝ても寝ても疲れがとれず、常に頭が徹夜明けのようにぼーっとしている。簡単なことでも集中力が続かず、凡ミスが繰り返される。活字が頭に入らなくなり、説明を聞いていてもすぐに文脈を捉えられなくなる。

いつ治るかわからない不調に、身体の芯が冷えるような恐怖を感じた。

 

…という背景がありこの本を手に取った。

上記の理由から「バカ病」にかかったときの特効薬のようなものを期待して読み始めたが、趣旨としてはすこし期待したものからずれていた。

どちらかといえば慢性的なバカに向けた漢方のような本だった。

 

本書ではまず「バカ」が思い込みからつくられることを指摘し、勘違いを解きほぐしていく。

自分のことを「バカ」だと持っている人は生まれながらにしてバカだと勘違いしているが、実際にはそうではない。成長過程で親や教師など周囲から「バカな子」として扱われた結果バカだと思い込んだ人が出来上がるという、レッテル効果のような要因から生じる。

 

ではこの勘違いを看破したうえで、社会の中でバカどのように形成されてしまうか。

竹内氏はその要因を「フィードバックの有無」に見出す。

つきつめると、この社会のなかでバカかそうでないかを分けるのは、どれだけフィードバックを受けられるかってことなんですよね。フィードバックを受けることによって自己修正がどれだけできるか、行動をどれだけ変えられるかということで、たぶんバカかそうでないかが決まるんですよ。(p.98)

他人からフィードバックが得られるということは、PDCAサイクルでいえばCheckの精度が上がることである。このCheckがうまく機能しなくなっていけば、必然的にActionが頓珍漢な方向へ行き、成果のクオリティ低下につながる。

しかし他者からのフィードバックが入らない限り、クオリティの低下にさえ気が付けない。この状態は言うまでもなく愚かであり、バカだと言える。

 

新人のうちはフィードバックの機会に恵まれているが、年次や役職が上がれば指摘してもらえる機会が減る。

このような状況になったとき、積極的にフィードバックをもらいに行き、謙虚な姿勢で受け止められるかどうかがその人の伸びしろになるのだと理解した。

 

 

 

【本の紹介】一條次郎『ざんねんなスパイ』

オススメ度:★★★★☆

 

一條次郎『ざんねんなスパイ』

 

 

 本書のエッセンス
・ドタバタ劇系
・73歳の実務未経験のスパイが市長暗殺を命じられる

 

感想

73歳でこれまで一度もミッションに呼ばれたことないスパイ・ルーキーが、二ホーン国のある市長の暗殺を命じられるが、親友になってしまう。

突拍子のない設定から始まるこの物語は、喋る巨大なリス、キリストの訪問、空き巣を働く隣人と、次々出てくるさらなる突拍子のない設定によりカオスに突入していく。

 

クライマックスに入ると、病気の時に見る夢を見ているような感覚に陥る。

 

読み始めて、正直言ってあまり好きなタイプな小説だなと思った。どちらかといえば心情の機微を感じられる小説が好きで、設定で読ませるタイプの小説は得意ではない。

読み始めて序盤は、ハズレだったかなあと思うこともあった。

 

しかし読み進めていくうちに、読む手が止まらなくなっていることに気がついた。

この小説は設定で読ませるタイプであるにもかかわらず、最後まで読ませるパワーがあったのだ

もう少し正確にいえば、カオスを読まされている時にもう少し読めばカオスを抜けてスッキリするのではないかという期待感を常に持たされていた。

 

好みの分かれる小説ではあるが、森見登美彦や万城目学のような小説が好きな人にはハマる気がした。

 

 

【本の紹介】太宰治『津軽』

オススメ度:★★★☆☆

いつ死ぬかわからんし、などと相手に興覚めさせるような事は言えなかった。(p.172)

 

太宰治『津軽』

 

 

 本書のエッセンス
・太宰の死の4年前に書かれた
・故郷津軽をめぐる
・真の目的は母代わりの"たけ"と人生の最後に会うこと

 

たった一つの旅の目的

没する数年前の太宰が、小山書店の依頼を受けて書いた旅行記的なエッセイ。

生まれ故郷を訪れ、旧友や知人と共に津軽のあちらこちらを周るが、正直最後の目的地を訪れるまで面白いと感じられなかった

読み途中ではこの本が太宰治の作品の中で評価されているのかと、いささか疑心を抱いた。

 

新たな地を訪れるたびに事典から引用したような(なかには実際に引用している箇所もあるが)文章が続き、正直青森にそこまで関心のない自分としては読み飛ばそうかと思うほどだった。

しかし一番最後の目的地での出来事を読み、「なんだ、そういうことだったのか」とすべて納得がいった

 

***

 

この旅のおわりに、太宰は自分の子守りを担当してくれていた「たけ」の元を訪れる。

訪れるといっても住んでいる村がわかっているだけで、詳しい住所や最近の動向もわかっていない。

 

朝早く起こしてもらい、太宰は1日に1本しかないバスに乗り小泊村に向かった。

村へ着くと太宰は見境なく村民に声をかけ、たけの住む家を探す。

 

そうしてやっとのことで家を突き止めるが、戸には鍵がかかっており、どうやら留守のようである。

 

半ば諦めかけるが、わずかな望みにかけて捜索を続けていると、その日は村の学校の運動会へ出ていることがわかる。

太宰は学校を訪れ、たけと数十年ぶりに再会する。

 

旧家の生まれの太宰にとって、家族とは厳かな存在であり、甘えられる対象ではなかった。そんな太宰にとって肩の荷を下ろして話せる間が女中や使用人であり、そのなかでも子守がかりのたけには母にちかい特別な感情を抱いていた。

 

『津軽』の冒頭で太宰はこのようなことを言っている。

「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村磯多三十七」

「それは、何の事なの?」

「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で」(p.32)

実際に太宰が自死したのはこの旅から4年後のことだが、この時点で太宰の頭の中では人生の最後がよぎっていたことは間違いない。

そして人生が終わる想像をしたとき、太宰の頭をかすめたのが母代わりであった、たけのことであった。

 

つまりこの小説もこの旅も、目的はただ一つ。母としてのたけにもう一度会うことだけであった。太宰はただたけに会う口実をつくるためだけに津軽を一周し、小説を一冊書き上げたのだ。

そう気が付いたとき、会えてよかったなと心から思った。そして会った以上、太宰が死ぬのも時間の問題だったのだろう。