本と絵画とリベラルアーツ

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【本の紹介】白洲次郎『プリンシプルのない日本』

オススメ度:★★★☆☆

プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか。日本も、ますます国際社会の一員となり、我々もますます外国人との接触が多くなる。西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることが絶対に必要である。(p.216)

白洲次郎『プリンシプルのない日本』

著者:白洲次郎(1902~1985)

兵庫芦屋生れ。神戸一中を卒業後、ケンブリッジ大学に留学。父親の経営していた白洲商店の倒産を期に帰国。英字新聞記者を経ていくつかの会社の取締役を歴任。終戦後は終連の参与に就任、GHQから「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。その後貿易庁長官、吉田茂の側近、東北電力会長など要職を歴任した。

 

 本書のエッセンス
・白洲次郎の考え方
・サンフランシスコ講和会議の裏側
・内容の大半はぼやき

 

白洲次郎のプリンシプル

世の中にはホンモノとニセモノがいる。

ではどのような人がホンモノでどのような人がニセモノなのだろうか。この答えを出すことは難しいが、一つ言えることは白洲次郎はホンモノだということだ。

名家に生まれ、ケンブリッジ大学で青年時代を過ごし、吉田政権下では側近として首相を支えた。第二次世界大戦中には「日本は負ける」と確信し、郊外で農業に勤しんだ。

 

時代や権力に屈せず生きた白洲次郎にはプリンシプルがあった。では彼のプリンシプルとはいったい何であったのだろうか。この本では白洲が寄稿した言葉を通じて、彼が何を軸にどのように物事を捉え、考えていたのかを垣間見ることができる。

 

抽象化せず、そのものを捉える

凡そ複雑な事程簡単に片付けてしまいたいらしい。英語でいうGeneralizationという意味の日本語の適訳はしらないが、Generalizationはあまり智恵のある奴のすることとは思わない。(p.60)

よく物事の本質を捉えろということが言われる。本質とはサンプルである物事の背後にある構造のことを指すことが多い。

しかし背後にあるものを意識を向け過ぎた結果、今目の前にあるものを見えなくなってしまってはいないだろうか。一般化=Generalizationsすることで整理され、理解が容易になる。他方、素直に見れば見落とすことのなかった大事なものを、見落とす原因にもなりかねない。

在るものを在るがままに捉え、そのものとして理解することも同様に重要なのである。

 

法律や常識を抜きにゼロベースで正しい事を考える

紙の色の変わった様な古証文を振り廻した処で、関心を持つのは弁護士だけで国民はそんな笛では踊らない。国民の納得しないことで国民の支持なくて、どうしようたってそれは駄目だ。そんな時代はとっくに過ぎた。(p.71)

ルールや法を遵守できるという優れた国民性を持つ一方で、とらわれ過ぎてしまうのも我々日本人の特徴の一つである。それは白洲次郎の時代から変わっていないらしい。

ゼロベースで物事を考えられない限り、"アンシャンレジーム"からは抜け出すことができない。

 

上に立つ者の目線

未だに世の中には矛盾というか、虚言というかが多過ぎる。国民は益々迷うばかりだ。(p.86)

最後に、世の中を変えるにはリーダーシップは不可欠である。そしてリーダーシップを持っている人間というのは視座が自然と人の上に立った前提で存在している。

この視座を自然に持てるということ自体が、白洲が生粋のリーダーであったことを示していると思う。

 

サンフランシスコ講和会議の裏側

歴史であれ公民であれ、現在の日本の出発点のひとつでもあるサンフランシスコ講和会議については必ず目にする。

そしてその講和会議でもっとも有名な写真は、日本全権団の代表としてサインをする吉田茂首相の姿ではないだろうか。

 

条約受諾にあたり吉田茂による演説が日本語で行われたが、実は準備の段階では英語での演説の予定であり、日本語での演説は吉田茂の独断によるものであった。

総理がなぜ日本語で演説したかという理由については、こまかいことは知らないが、英語でやるか、日本語でやるかを、前からはっきりきめていたわけではない。演説の草稿は英語で書き、それを日本語に直して演説したのだ。(p.41)

一世一代の大演説の場で、急遽言語を変えようなどとよく思えるものだと思った。すさまじい吉田茂の胆力に、ただただ驚かされた。

 

***

 

さて歴史の裏話として、もう一つ印象に残ったエピソードがあった。

それは米国から突き付けられた新憲法の日本語訳を進めているときの話である。

この翻訳遂行中のことはあまり記憶にないが、一つだけある。原文に天皇はシンボルであると書いてあった。翻訳官の一人に「シンボルって何というのや」と聞かれたから、私が彼のそばにあった英和辞書を引いて、この字引きには「象徴」と書いてある、と言ったのが、現在の憲法に「象徴」という字が使ってある所以である。(p.240)

現在憲法の解釈として多くの議論がなされているが、天皇を象徴とみなす憲法の在り方もたびたび議題に上がる。良くも悪くも重んじられている天皇=象徴という言葉が、意外にもフランクな経緯で決定されたというのが、なんとも面白く感じられた。

 

 

【本の紹介】村上春樹『女のいない男たち』

オススメ度:★★★☆☆

なされなかった質問と、与えられなかった回答。彼は火葬場で妻の骨を拾いながら、無言のうちに深くそのことを考えていた。(「ドライブ・マイ・カー」p.36)

村上春樹『女のいない男たち』

著者:村上春樹(1949~)

京都府京都市生れ。早稲田大学第一文学部卒業。1979年『風の声を聴け』で群像新人賞を受賞しデビュー。1987年に発表した『ノルウェイの森』は上下巻1000万部のベストセラーとなり、村上春樹ブームが起こった。2006年にはフランツ・カフカ賞をアジア圏で初めて受賞。主な作品に『海辺のカフカ』『1Q84 』などがある。

 

季節を感じない作品

村上春樹に季節があるとすれば、それはいつ頃になるだろうか。

私がこれまで読んできた村上作品から感ずるに、セミの鳴かなくなった夏の終わりから、クリスマスの気配がする直前の秋の末くらいだと考える。もちろん、数多く存在する村上作品によってイメージする季節はまちまちではあるし、人によって受け取り方も変わるだろうが、とにかく、作品から季節が感じられるというのは一つの特徴ではないだろうか。

 

上記のように、私は村上春樹の作品にざっくり秋のイメージを持っており、また今回もそれを期待して読み始めた。

先に結果だけ言ってしまうと、『女のいない男たち』からは何か特定の季節というものは感じられなかった。

季節性を期待したのは私の勝手なので、その件で期待外れだと思うのは一般的にはお門違いではあるが、その点ではあくまで勝手にがっかりした。

 

では全体のとして感じられたイメージは何かと問われれば、私は「土」かなと思う。土といっても安部公房の『砂の女』のような(こちらも女という字が使われている)、自然に存在する掘っても掘っても底のない膨大な土のイメージとは違い、街中にごく普通にある浅い土のようなものを感じた。

 

イエスタデイ

『女のいない男たち』の6作品のうち、特に印象に残ったのが「イエスタデイ」という短編である。

 

以下あらすじ

早稲田を目指し、2浪目に入った木樽は喫茶店のバイトで知り合った「ぼく」に小学校の時から付き合っているガールフレンドを譲ろうとしてくる。それから16年経ち、ぼくはあの頃木樽が歌っていた関西弁のイエスタデイとともに当時を回顧する。

 

この短編に惹かれた理由は、ポジティブなものとネガティブなものとそれぞれ1つずつある。

 

まずポジティブな理由としては、物語のキーとなる登場人物で浪人生の木樽が持つ、平和ボケした若者特有の漠然とした悩みが自分にも心当たりがあったことだ。

しかし人生とはそんなつるっとした、ひっかかりのない、心地よいものであってええのんか、みたいな不安もおれの中になくはない(p.80)

問題のない家族を持ち、それなりの学校に通い、定職を得る。持たざる者からすればのどから手が出るほど欲しい普通で無難な毎日が、実際にそれを送っているものからするとなんとも味気なく、かえって不安な気持ちにさえなってくる。

冷静に俯瞰してみれば贅沢な悩みであることは明らかであるが、なんとも心の中ではモヤモヤとしたものが残る。

この木樽の悩みには、いたく共感し、印象に残る一文となった。

 

もう一方のネガティブな理由というのは、この短編の文体である。

この本の冒頭で村上春樹は、短編小説というのは様々な文体を試すのに向いていると語っていた。

このことからこの本に収められた短編たちにも、いくつかの挑戦的な文体の実験が行われたことが想像できる。

 

この挑戦が災いしてか、なんとなく「イエスタデイ」という短編の文体は、村上春樹に憧れた人が村上春樹をまねて書いたような、ムズムズ感を感じさせられた。

間違いなく村上春樹の作品ではあるので、このような感想が適切でないことは重々称しているが、素直な気持ちとして、そういった部分があった。

 

 

まだ村上春樹の長編の新作は読めていないので、ぼちぼち手を出そうかと思う今日この頃。

 

 

 

【映画の紹介】出国後に母国が消滅した男の話『ターミナル』

オススメ度:★★★★★

- そうなんだよ、人は皆、何かを待っている。

- あなたは何を?

- 君だよ、君を待っている。

『ターミナル』

 

あらすじ

共産圏の小国クラコウジアからJFK空港にはるばる来た一人の男、ナボルスキー。

到着後、なぜか入国審査にはじかれてしまう。実は出国後に軍事クーデターが発生し、母国が消失したのだ。

法の隙間に落ちた彼は、入国することも帰国することもできず、乗り継ぎロビーの待たされる。

 

英語もできない彼は乗り継ぎロビーで無料のクラッカーを齧り、カートを集めて25セントを稼いで食い繋ぐ。

彼は国境警備局に目の上のたんこぶのように扱われながらも、清掃員や職員、警備員やCAのアメリアと親しくなり交流を広げていく。

アメリアに心奪われた彼は彼女のために働き、スーツを新調する。また仲間たちは2人のために特設のディナー会場をつくり、二人は近づいていく。

しばらくして、再びフライトから帰ってきたアメリアに彼は贈り物をする。そして彼がNYに来た目的が、亡き父との約束でジャズミュージシャンに会うためだと明かす。

 

月日が流れ、クラコウジアでの戦争が終結。国境警備局は直ちに帰国を命じ、応じない場合には空港の仲間たちをしょっぴくと脅す。

彼は仲間たちを守るため帰国を余儀なくされるが、真実を知った清掃員グプタが身体を張って帰国の便を止める。

そしてこの姿を見たナボルスキーは仲間たちに背中を押され、これまで一度も見ることのなかったニューヨークの地を踏む決意をする。

 

感想

私が好きな映画にはいくつかの共通項がある。「シリアスな笑い」と「苦境に抗う姿」、そして「素晴らしい音楽」である。

 

この映画はそのうちの前者のふたつを、完璧な形で体現している

 

まずシリアスな笑いとして印象に残っているのが、空港から出られないナボルスキーのため、仲間たちがCAアメリアとのディナーの場を空港内に用意する。

 

一生懸命な仲間たちだが、実態は清掃員や職員、警備員なので、次々ボロが出る。

職員は雑にワインを注ぎ、インド人の清掃員はフォーマルな場に不釣り合いな曲芸を披露する。本人たちが真剣になればなるほど滑稽にみえる。

 

シリアスな笑いは塩梅を間違えると物語を陳腐にしてしまう。スピルバーグはこの辺のバランス感覚が卓越しているのだと感じた。

 

そして後者が、苦境に抗う姿である。

この映画のメインは、言葉も通じぬ異国の地、しかも空港から一歩も出られないという苦境の中で、腐ったり自暴自棄にならずその中で幸せを見つけ、前に進み続けるナボルスキーの姿である。

このような超人的な姿勢は見るものに勇気を与える。

物語の最後、苦境を乗り越え先に進む姿は、まるで光の中に消えていくようで感動的であった。

 

【映画の感想】オードリー『ローマの休日 4Kレストア版』

オススメ度:★★★★★

 

『ローマの休日』

 

あらすじ

あるヨーロッパの王位継承者であるアン王女は、欧州中を親善旅行で周り、最後の地としてローマを訪れる。

しかしローマのでの歓迎舞踏会の夜、窓から楽しそうな大衆のダンスパーティーを眺めると、自分の不自由さを嘆き宮殿から脱走する。

ローマの街へと飛び出したアン王女だったが、次第に主治医に投薬された鎮静剤が効き街中で眠ってしまう。

 

アメリカ系の新聞記者で賭け帰りのジョー・ブラッドリーが道で眠るアン女王を見つけ、放っておけないとしぶしぶ家でベットを貸してやる。

しかし次の日の朝、彼女がアン王女だと分かると、スクープのため彼女と一日過ごすことを決める。

 

アン女王とジョーはローマの街を自由に歩き、楽しむ。広場でジェラートを食べたり、カフェでシャンパンを飲んだり、そして真実の口に手を入れたりと。

ジョーは楽しみながらも自然に友人のカメラマンのアービングを合流させ、女王の街中での行動を撮影させる。

 

その夜、アン女王は街の床屋で教えてもらったダンスパーティーに行きたいと言い、一行は向かう。大衆のダンスを楽しむ女王であったが、そこに女王の存在に気がついた守衛たちが集まり、乱闘騒ぎとなる。

ギリギリのところで逃げ切った女王とジョーは一旦部屋に戻る。

 

楽しい時間はいつまでも続かない。

アン女王は帰る決心をし、二人は車で宮殿に向かう。そして宮殿近くの路地でアン王女は「私が車を出てどこへ行くか見ないで欲しい」と伝え、二人は抱擁とキスを交わし二人は別れる。

 

次の日、ジョーとアービングのもとに上司がスクープ記事の様子を聞きに来るが、ジョーは「そんな記事はない」と伝える。上司が怒り帰ると、今度はアービングに「写真は好きにしていい」と力なさげに話す。

 

2人はそのまま、アン女王の宮殿での記者会見に参加する。

ジョーの正体を知らなかった女王は驚きつつも平静を保つ。壇上の女王とジョーは視線を交わすと、二人は目の奥深くに涙を浮かべる。

アービングは挨拶の際に写真を女王に手渡し、ジョーと女王も最後の挨拶を済ませる。

 

そして女王が奥に戻ると、ジョーは名残惜しそうにしながらもゆっくりと部屋と後にする。

 

感想

『ローマの休日』製作70周年を記念して、2023年8月25日(金)より全国の映画館で映像を綺麗にした4Kレストア版が公開された。

「ローマの休日 製作70周年 4Kレストア版」特設サイト

 

『ローマの休日』は言わずもがな誰もが知る名作で、オードリー・ヘップバーンを一躍スターにした作品でもある。

 

4K版を観るにあたり、私の心境としては映画鑑賞というより有名な観光地を見るときのそれに近いものであった。つまりそれそのものが優れているから見ると言うよりか、有名だから、みんなが知っているからという浅薄な動機であった。

 

しかしこのような浅薄な動機は開始5分で吹き飛ばされた。

冒頭アン王女に諸名士が謁見する場面、同じ挨拶を無限に繰り返すアン王女は退屈から、ドレスの中で靴を脱ぐと、その靴がドレスから溢れ出てしまう。後ろから出てきた靴に気がついた侍従たちはギョッと目を丸くする。

この場面だけでもアン王女の性格とオードリーの美貌と演技力にぐっと惹きつけられる。

この時点で私の姿勢は観光から鑑賞へと移り変わっていた。映画としての面白さにあっという間に引き込まれていた。

 

この映画はユーモア・ストーリー・音楽どれをとっても素晴らしい。しかしこの映画の中でも卓越しているのが、圧倒的な演技力である。

 

ストーリーの分類としては「ラブロマンス」と入ると思うが、この映画の中で愛を言葉にして伝えるようなシーンは存在しない。

行動の結果として、愛が存在することが分かる。

 

愛の言葉に限らず、大事なシーンでは言葉ではなく演技で語るような場面が多い。この無言の演技が圧巻である。

何も語っていないのに、気持ちが自分の内面に直接投影させているくらいに感じられる

言葉で語るときよりも、心情の機微がみごとに表現されている。

 

何度でも見返したくなる、すべての人にお勧めしたい名作であった。

 

【本の紹介】川上和人『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』【感想】

オススメ度:★★★★☆

ガラパゴスとは、スペイン語で「ゾウガメの」という意味だ。ガラパゴスゾウガメとは、シュールな名前だ。(p.374)

川上和人『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』

 

鳥類学者である川上和人氏が、鳥類学の知見をもとに恐竜のなぞに迫る科学エッセイ。

 

今作もエンジン全開

久々に恐竜展でも見に行くかという話になり、モチベーションを上げる意味で前から気になっていたこの本を読むことにした。

ちなみに恐竜展はこの本をチンタラ読み過ぎたため開催期間が終わってしまい、結局上野の国立科学博物館で海の展示を見てきた。これはこれで面白かった。

 

著者の川上和人氏は『鳥類学者だからって鳥が好きだと思うなよ』で一躍有名になった鳥類学者で、その専門家としての知識もさることながら、軽快でユーモアあふれる文体で人気を博している。

『鳥類学者だからって鳥が好きだと思うなよ』の感想は以下より。

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さてこの本の筆者のスタンスだが、「はじめに」の中では大変謙虚な姿勢が示されている。

自分に恐竜の知見があるわけではないが、恐竜が鳥類の祖先であることが明らかになったことから、鳥類学者である自分が恐竜学の軒先に入ることは許されるのではないかというものだ。

私はあくまでも現生鳥類を真摯に研究する一鳥類学者である。…むろん、恐竜学に精通していないと胸を張って公言できる…あくまでも、鳥の研究者が現生鳥類の形態や生態を介して恐竜の生活をプロファイリングした御伽話だと、覚悟して読んで欲しい。いうまでもないが、この本は恐竜学に対する挑戦状ではない。身の程知らずのラブレターである。(p.7)

一応このように下からの姿勢でそろりそろりと恐竜学に歩み寄っているが、章を追うごとに段々とヒートアップし、手に汗握りながら原稿が書かれたことが想像できる。

 

印象に残った箇所

ここからは読んでいて印象に残った箇所を紹介する。

 

鳥たらしめるもの

鳥が持つ特徴はたくさんある。くちばしや翼、空を飛ぶことなんかがそれにあたる。

しかしこれらの特徴を持つから鳥だと言えるわけではないし、また逆にこれらの特徴を持つ鳥以外の動物もいる。例えば、哺乳類のカモノハシはくちばし持ち、また同じ哺乳類の蝙蝠は翼をもつ。

では鳥を鳥たらしめる最大の特徴は何であろうか。

鳥を鳥たらしめているのは、何を隠そう羽毛である。…(中略)…羽毛を持たない鳥は存在しない。(p.111)

意外にも、その答えは羽毛にあった。

あの温かい布団もすべて鳥類のおかげだと思うと、鳥に感謝してもしきれない。

 

生存者バイアス

野生生物にとって次世代を残すことは至上の命題であり、そのために生きているといっても過言ではない。というか、次世代を残すことができた種のみが現代に残っているわけで、いかに効率よく資産を残すかということは、種の存続を左右する重大事なのだ。(p.305)

動物はみな自分の種を保存していくことを目的としている。私はずっとなぜ子孫を残すことを目的に持っているのか意味の方から追いかけ考えていたが、その答えは単純明快だった。

ただ子孫を残すものだけが残っているというだけであった。

考えてみれば当たり前のことで、むしろ気付かなかった方がおかしいくらいなのだが、気付けなかった私からすると読んだとき電気が流れるような衝撃があった。

 

恐竜というロマン

恐竜はいつも男子の憧れであり、ロマンである。

なぜ私たちは、こんなにも恐竜に熱狂してきたのだろうか。…化石発掘を推し進める原動力は、ひたすら人間の好奇心である。(p.43)

私も小さいころ恐竜の図鑑を読み、巨大なティラノレックスが現実にいたらどんなにうれしいことかと考えた。

 

なぜ恐竜は世界中の人々を興奮させ、引き寄せ続けるのだろうか。

恐竜は、魔性の女である。私たちの心をグッとわしづかみにするのは、じらしてやまない究極のチラリズムだ。…(中略)…化石にすべてが記録されていないことが、恐竜が備える最大の武器と改めて気づかされた。(p.345)

そうなのだ、例えどんなに発掘が進もうとも、例えどんなに科学が進もうとも、絶滅してしまった恐竜の全容をとらえきることはできない。

常に謎を残しながらも、日々新たな発見があるこの「チラリズム」こそがロマンであり、人々を引き寄せ続ける。

 

私に子どもができ、その子どもが恐竜の図鑑を読むようになった時、その図鑑に絵が返れている恐竜のイメージは私が知るそれとは全くことなるものになっているだろう。

それでもきっと、私の子どももまた同じように恐竜に憧れを抱くに違いない。

 

【思考力を鍛える】赤羽雄二『ゼロ秒思考』【本の紹介】

オススメ度:★★★★★

そうした思考の「質」と「スピード」、双方の到達点が「ゼロ秒思考」だ。

ゼロ秒とは、すなわち、瞬時に状況を認識をし、瞬時に課題を整理し、瞬時に解決策を考え、瞬時にどう動くべきか意思決定できることだ。(p.50)

 

赤羽雄二『ゼロ秒思考』

 

 本書のエッセンス
・思考を書き出すことで、思考が深化・高速化する。
・思考過程を書き出す=数学の途中式と同じ。書いた方がいい。

思考過程を外部化する

仕事をしていると、先輩や同僚に恐ろしく頭がいい人がいることに気付かされる。

急に変わった状況も瞬時に把握し、全体を考慮したうえで的確な判断を下す。

アカデミックな知力とも違う、ビジネスを進めるための頭の良さだ。

 

一方自分はと言われれば、時間をかけてじっくり考えることはできるが、瞬発的な思考という面ではあまり自身がない。前提条件が崩れるとうろたえ、「一度持ち帰ります」で時間を稼ぎ凌いでいる。

お世辞にも、あまりクレバーとは言えない。

 

本書の「はじめに」にこのような文章がある。

一生懸命考えているつもりで、実際は立ち止まっている、という人が意外に多い。

前に進まない。あるいは、空回りする。気になることがあると、頭がうまく働かず、考えがなかなか深くならない。考えようとしても、目の前の別の課題が目に浮かぶ。集中して考えることができない。行ったり来たりで結論も出せず、時間をかけても深掘りできず、堂々巡りすることになる。(はじめにより)

これを読み、まさに自分のことだと思った。

考えようとはしているが、実際には脳みそが空転するばかりで、解決への道を進められていない。時間だけがいたずらに過ぎ、画面のOneNoteは白紙のままである。

答えを出さなくてはと焦りから、さらに時間を費やす。多少の結論らしきものは出るが、明らかに時間に対するアウトプットとしてはお粗末だ。

 

この本は私のような人間に、後天的な思考力の向上のヒントを与えてくれる。それもそのトレーニングには高価な機材も法外な価格のNoteも常人離れした忍耐力も必要としていない。

 

やることは、脳内で考えている思考を思うままに紙に書き出すだけである。

ただ1日10分の時間とペンとA4のコピー用紙があればいい。

たとえこの本に書かれた内容を半年実践して効果が出なかったとしても、別に大したものを失うことはない。

 

実際の思考のトレーニング方法は以下に譲るが、簡単に言えば『ゼロ秒思考』のトレーニングとは、思考の途中式を書き出すことだと私は理解した。

数学の計算をするのに暗算をするのか途中式を書き出すのかではどれほど難易度が異なるかを私たちは知っている。途中式を繰り返し使って解いた計算は、やがて暗算でも問題なく解けるようになる。

それなのに、思考になると途端に"暗算"に済ませようとし、途中式の使用を誰に言われたわけでもないのに放棄する。実際には思考に途中式を使えばよいとこれまで誰も教えてくれなかった。

 

いやいや私は考えるときにメモをしているという人もいるかもしれない。

しかしメモと途中式は厳密には異なる。メモは多少考えた内容を忘れないように外部化するものだが、途中式は思考過程そのものを外部化する。メモが脳の保存能力を補うのに対し、途中式を書き出すことは考える領域自体を補う。

本書の中でも紙に書き出すことをメモと呼んでいるが、以上の理由から途中式と表現する方が正確だと思った。

 

思考のトレーニング法

「ゼロ秒思考」のトレーニングから得られるものは主に以下の通りである。

①モヤモヤしたストレスからの解放
②ハッキリと言語化する力
③思考の深化・高速化・空転の回避
 

まず自分のなかにあるモヤモヤした感情を紙に書き出すことで、人に悩みを相談した時以上に状況を客観化でき、とらえどころのなかった不安感・焦燥感から解放される。

さらにモヤモヤを文字情報に変換していくうちに的確な言葉選びができるようになり、言語化する力を鍛えられる。

言語化に自信がないという人は、先に小暮氏の『すごい言語化』を読むと、どのような状態になれば言語化できる状態といえるかを理解できる。

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そして最大の効用が、思考の深化・高速化・空転の回避である。

思考過程を書き出すことで計算問題でいうところの途中式を書くのと同じ効果が得られる。途中式を書けば同じ計算を無意識に繰り返すことがなくなり、確実に先に進める。先に進めるので"暗算"で思考しているときよりも深い部分までたどり着ける。

また思考力が付くことで脳内で処理できる量が増え、高速化につながる。

 

書き方

書き方は極めてシンプルである。

A4の白紙に日にちと考えたい内容のタイトルを書き、あとは思うままに思考を書き出す。

メモは、タイトル、4〜6行の本文(各行20〜30字)、日付のすべてを1分以内に書く。頭に思い浮かぶまま、余計な事を考えずに書く。感じたままに書く。難しいことは何も考えない。構成も考えない。言葉も選ばず、ふと浮かんだままだ。(p.89)

内容を整理したり漏れがないかを考える必要はない。今頭に浮かんでくることをひたすらに書き出せばいい。

 

いつ書くか

まとめて書くのではなく、思いついたときなさっと書く。(p.107)

もう一つ大事なのは、メモは思いついたその場ですぐに書くことだ。寝る前にまとめて10ページではなく、原則、思いついたその瞬間だ。(p.114)

思いついたときに思考があふれるままに書き出す必要がある。そのためいつでもメモをとれるように、常に紙とペンを持っておく必要がある。

 

メモを深掘りする

書き出したメモからさらに発展して新たなメモをつくることで、より深いところまで思考を進めることができる。

メモを1ページ書き、本文の4〜6行をタイトルとして芋づる式にメモを書いていくと、考えが深まっていく。(p.166)

 

以上のシンプルなトレーニングにより思考は鍛えられ、境地である「ゼロ秒思考」を習得に近付いていく。

そうした思考の「質」と「スピード」、双方の到達点が「ゼロ秒思考」だ。

ゼロ秒とは、すなわち、瞬時に状況を認識をし、瞬時に課題を整理し、瞬時に解決策を考え、瞬時にどう動くべきか意思決定できることだ。(p.50)

 

冒頭に述べたように、今の私は「ゼロ秒思考」からは程遠いところにいる。

これからこのトレーニングを積んでいき、どのように思考力が変化するか楽観的に注視していきたい。

 

【本の紹介】フランシス・ウィーン『名著誕生マルクスの『資本論』』【要約】

オススメ度:★★★★★

すべては疑いうる(de omnibus dubitandum)    (p.138)

フランシス・ウィーン『名著誕生マルクスの『資本論』』

 

要約

第1章 萌芽

1818年5月5日、プロイセンにあるカトリック街のユダヤ人の一家にマルクスが生まれる。

 

マルクスは哲学や文学のジャンルから出発した。

幼少期から古典をよく読み、それを引用する癖がついていた。

大学卒業後は、ジャーナリストとして社会批判的な記事を書いた。

 

26歳のころ、3歳年下のエンゲルスと親しくなる。

エンゲルスは綿紡績業者の後継でありながら、労働者の観察をする一面も持っていた。

エンゲルスはマルクスの金銭面だけでなく、健康や仕事の進捗にも気を配った。

 

1848年『共産党宣言』を出版。偶然にも出版した週にパリで革命が勃発、これが欧州中に飛び火した。

当時マルクスは欧州中から出禁に遭いベルギーにいたが、革命に驚いたベルギー政府はマルクスの追放を決定。マルクスはベルギー→パリ→ケルン→パリ→イギリスと各地を点々とし、その後は死ぬまでイギリスに留まった。

イギリスでもエンゲルスからの支援を受けてはいたものの、その生活は貧困そのものだった。

 

マルクスは大英博物館の閲覧室に籠り、ときに全くの嘘の進捗報告(実際は大遅延)をエンゲルスや出版社に送りながら、経済学に関する執筆を続けた。

 

そして1867年、大著『資本論』の第一巻の原稿を完成させた。

 

第2章 誕生

資本論は当初六巻構成の予定であったが、未完に終わった。この不完全性から『資本論』が聖典になり得ないことを示している。

 

経済理論家のマイケル・レボウィッツは以下のように指摘している。

マルクスが新しい大陸を素晴らしい方法で発見したのはたしかだが、だからといって、マルクスが描いた大陸の地図が正しいとは限らない(p.56)

 

ここから本書は、使用価値と交換価値、フェティシズムと、商品に関する基本的な事項を押さえながら、一歩引いた視点でマルクスの理論の解説に入る。

[労働価値説について] マルクスの選んだ例は奇妙なもので、マルクスの理論の限界をあらわにする。(p.63)

[窮乏化法則] こうしてあらゆる反対論を退けた後、マルクスは『資本論』のうちでもっとも悪名高い主張に進む。(p.79)

 

窮乏化法則はまさに『資本論』のアキレス腱であり、現代の"経済学のスタンダード"となった教科書の著者であるポール・サミュエルソンがこの点を挙げ「マルクスの傑作は全く無視して良い」と主張したことで、これが定説となってしまった。

サミュエルソンは「マルクスによれば、窮乏化法則により、労働者は絶対的に窮乏化し資本主義は自壊する。しかし資本主義は続いている。つまり『資本論』は全くの誤りで、読むに値しない。」と言うのだ。

 

しかしサミュエルソン的な[窮乏化法則]の理解は誤読によるものである。実際には窮乏化は絶対的にではなく、相対的に進んでいく

 

生産能力の向上は労働者に余暇を与えるのではなく、逆に相対的剰余価値の搾取を増やす。

しかし次第に生産能力の向上は、それを受け止める市場の限界によって、上限を迎える。この限界は不況となって現れる。

資本主義である限り、好況と不況のサイクルからは逃れられない。

 

逆に言えば、資本主義は好況と不況のサイクルによって、半永続的に維持されるシステムだと言える。

『資本論』の一部の文言や『共産党宣言』の内容から、マルクスが資本主義終焉の予言者のように語られるが、実際にはその時間も方法も具体的には語ってはいない。

 

『資本論』の主要部と誤解の解説ののち、文学作品としての『資本論』を再発見してこの章を閉じられる。

ウィルソンは、マルクスの『資本論』は古典経済学のパロディだと考える。(p.105)

哲学や文学に明るいマルクスによって書かれた『資本論』は、数多の古典からの引用とインスピレーションに溢れており、マルクスが引用した文学書をテーマにした本まで存在するほどである。

 

第3章 死後の生

『資本論』は出版直後には、その難解さゆえすぐに広く読まれたわけではない。

 

『資本論』が最も実際の世界史の動きに影響を与えたのは、生まれ育ったドイツでも、移住したイギリスでもなく、ロシアであった。

そして運動はロシア革命、マルクス・レーニン主義の誕生への続いていく。

 

一方の非共産圏のマルクス主義者の間でも、再解釈が進められる。

アントニオ・グラシムは資本主義のヘゲモニーのありかをブルジョワによる文化の押し付けに見出し、上部構造を重視する流れが生まれる。

この流れは「カルチャル・スタディーズ」へと受け継がれ、研究対象は経済から(サブ)カルチャーへと移り変わっていく。

 

理論家たちは、テレビのコマーシャルやお菓子の包み紙脱構築することは熱心だが、『資本論』のテクストそのものの分析に向かうことは避けているようだ。おそらく学問上の〈父親殺し〉をするよくになるのが怖いからだろう。(p.146)

 

そして本書は、今日の有力なエコノミストや投資家たちがマルクスの影響を知ってか知らでか受けており、『資本論』が資本主義が終わるその日まで有効であることを示唆して終わる。

 

感想

この本は佐藤優『いま生きる「資本論」』の中で紹介があった本で、『資本論』の入門書として佐藤氏が絶賛している。

 

『資本論』の解説だけでなく、マルクスの半生と『資本論』出版後の世界各国の反応までもが満遍なく紹介されており、『資本論』を読み進めるうえで大変助けになる内容となっている。

私もこのブログのなかで『資本論』の解説を書いているが、正直自分が書いている解説はこの本があればいらないのではないかと感じるほど、本書は内容が充実しておりかつ大変読み物としても面白いものになっていた。

 

『資本論』の解説書の多くはマルクス主義の経済学者によって書かれることが多く、その内容はマルクスへの傾倒を感じさせられるものが少なくない。

一方この本は『資本論』の内容を神聖化せず一歩引いた目線でとらえており、反資本主義的なイデオロギーに飲み込まれることなく資本主義の内在的論理に触れることができる。

 

共産主義的イデオロギーを捨象し、資本主義を読み解くために『資本論』を用いる姿勢は宇野弘蔵と共通しており、宇野経済学を信奉する佐藤氏がこの本をオススメするもうなずける。

 

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この本の中で印象に残ったのが、以下の文章である。

労働者を人間の断片のようなものに変えてしまい、機械の付属品に貶める。そして労働者にとっては労働そのものが拷問になり、労働の内容が破壊されるのである。科学が独立した力として労働のプロセスに組み込まれると、労働者は労働のプロセスにそもそも含まれていた知的な可能性から疎外されることになる。(p.81)

労働者はより効率的に仕事を進めるために、タスクを標準化したり、作業をショートカットできるようなシステムを導入したりする。

しかしこれは労働者が労働に対して知性を発揮できる領域を自ら奪っていることになる。システム化され知性の余地のなくなった仕事に従事する労働者は、まさに「機械の付属品」となる。

 

私の現在の仕事はある種で仕事の効率化を進めるものである。

効率化はより多くの価値を生み出し、社会の発展に寄与すると信じてやってきた。しかしそれは労働者にとっても意味のあるものだったのだろうかと、この文章より自問させられた。