処刑というと極悪人に下されるものというイメージがありますが、世界史においてはしばしば国王や貴族も処刑の対象となりました。
処刑された貴族の中でも最も有名なのはフランスのマリーアントワネットじゃないでしょうか。彼女はオーストリア・ハプスブルク家の娘としてフランス王に嫁ぎましたが革命が起こってしまい、最後には夫とともにギロチンで処刑されました。
今回紹介するのはメキシコ皇帝マキシミリアン(マクシミリアン)の処刑を描いたマネの作品です。
この絵画を理解するうえで重要な時代背景についてわかりやすく解説しました!
マネ《皇帝マキシミリアンの処刑》を理解するポイント
①なぜ皇帝マキシミリアンは処刑されたのか?
②マネらしい反骨的な表現
マネ《皇帝マキシミリアンの処刑》
メキシコ皇帝マキシミリアンの誕生
まず初めに舞台となる1860年代の世界史を整理しておきましょう。
まずこの事件の核となるのはフランスの皇帝として君臨していたナポレオン3世です。
このナポレオン3世は俗にナポレオンと言われるナポレオン1世の甥っ子で、国民投票によって皇帝になった人物です。
当時のフランスは産業革命によって階級の変化が激しく、政治的に混乱していた時代でした。
ナポレオン3世はこのような状況の中で独裁政治を行うために国内に存在する勢力間の対立をうまく利用し、どの方面にもいい顔をする人気取り政策を行っていました。これをボナパルティズムといいます。
絶大な人気を手っ取り早く取る方法は戦争で勝つことです。
戦争は他国と自国の境界を強く意識させるため、ナショナリズムを高めるのに強く作用します。また戦争に勝てば国民は優越感に浸れ、彼らはその指導者である皇帝を支持するようになります。
このような理由からナポレオン3世は叔父のナポレオン1世と同様に多くの戦争を繰り返したのです。1850年代までは首をつっこんだ戦争のほとんどに成功し、彼の政治はうまくいっていたのですが1860年代に入ると様子が変わってきます。
1861年、ナポレオン3世は国家間の借金のトラブルを口実にメキシコ侵略に乗り出します。アメリカからすればヨーロッパの大国が大西洋を渡って侵略しに来るのはうっとしいことこの上ありませんでしたが、あいにくアメリカ史史上最大の内戦である南北戦争が勃発してしまったためメキシコまで手が回らなくなっていました。
この隙にフランスは進撃を続け、1863年に首都であるメキシコシティを陥落させました。ナポレオン3世はカトリックの君主国を打ち立てるべく、オーストリア皇帝の弟であったマキシミリアンを担ぎ上げてメキシコ皇帝として君臨させました。
登場人物を整理すると以下のようになります。
マキシミリアンの処刑
メキシコ皇帝となったマキシミリアンは国民のために精力的に働きましたが、メキシコ国民の大多数は彼を受け入れようとしませんでした。
当時メキシコ国内で最大勢力となっていたのは臨時大統領だったフアレス率いる革命軍でした。フアレスは自国を取り戻すべくフランス軍とゲリラ的な抵抗を続けていました。
さらにマキシミリアンには不幸なことにアメリカではリンカーンによって南北戦争が終結し、アメリカは目の上のたんこぶを取ろうとフランスに圧をかけ始めます。
風向きが変わり、不利な状況となったフランス・ナポレオン三世は財政の悪化もありメキシコから兵を引き上げを決定しました。この際マキシミリアンにも帝位を退くよう勧めたそうですが、マキシミリアンは理想主義の性格からこれを拒み、破滅へと突き進んでいきます。
そしてついに1867年6月、メキシコ軍に捕らえられたマキシミリアンは銃によって処刑が行われました。フランスに担ぎ上げられ、そして見捨てられたマキシミリアンの生涯はここで幕を閉じたのです。
マキシミリアンの処刑後、本国フランスの皇帝ナポレオン3世の任期は急落していきました。
処刑から三年後、ナポレオン3世はプロイセン(ドイツ)との戦争中に捕虜となってしまい、これをきっかけに勃発したパリでの暴動により皇帝としての地位を失いました。
一方で国を取り戻したフアレスは絶対的な地位を確立し、心臓発作で死ぬまでメキシコ大統領であり続けました。今ではフアレスは「メキシコ建国の父」として紙幣の肖像画にもなっています。
マネらしい反骨的な表現
ここまで絵画のバックグラウンドである歴史について触れてきましたが、この項では作者の面から絵画を解説していきます。
マネといえば絵画界の異端児として、社会に対してケンカを売るような作品をいくつも制作しています。有名な《オランピア》や《草上の昼食》は当時タブーであった人間の裸婦を描き大論争 を巻き起こしました。
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今回紹介している《皇帝マキシミリアンの処刑》もマネの反骨精神が垣間見える作品となっています。
この二枚の絵を見比べてみると、兵士の服装に若干違いがあることがわかります。
これらは両方ともマネの描いた《皇帝マキシミリアンの処刑》で、左側が今回紹介しているマンハイム市立美術館に展示されている作品、右側がボストン美術館に展示されている左の作品より一年早く描かれた未完の試作になります。
この兵士の服装の違いは、兵士の所属する国の違いです。
左側の兵士はフランス軍、右側の兵士はメキシコ軍の服装で描かれているのです。
歴史の流れを思い出してみると、フランス軍は処刑の時には引き上げていますし、実際処刑を行ったのはメキシコ軍ですから歴史に即して描くならばこの作品の兵士はメキシコ軍の軍服で描かれるのが正確です。
しかしマキシミリアンがナポレオン3世の身勝手な野心の犠牲になったことにマネはひどく激怒し、あえて試作ではメキシコ軍で描いた兵士を、フランス軍による処刑に描き直すことで「マキシミリアンを殺したのはフランスだ」ということを強調したのです。
このようにこの作品はマネの反骨精神がうかがえる作品でもあるのです。
おわりに
今回のように絵画の中には歴史の一部を切り取ったものも多くあります。
歴史画を見るときには史実と作者の思想の両面を知ることでより絵画に近づくことができるのです!
今回のポイント
①皇帝マキシミリアンはナポレオン3世の政治的野心の犠牲となった
②マネはこのことに激怒し、作品に反骨心を盛り込んだ
マネについてやマネの他の作品はこちらから
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