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【混雑】展覧会の最終日はどれくらい混んでる??実際に行ってきた

あ、今日展覧会最終日だ。見たかった展覧会が今日最終日だと言うことをCMなどで知っていくかどうか迷う時ありますよね。

見に行きたいなあ、でも絶対混んでるだろうな…。

 

人気展覧会の最終日はどれくらい混んでいるのでしょうか。2019年の9月29日まで渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催されていた「ミュシャ展」の最終日に実際に行き、どれくらい混んでいるか確かめてきました。

 

こんな人におすすめ

・展覧会の最終日の混雑状況がしりたい
・展覧会の最終日に行くときに気を付けるポイントが知りたい

 

展覧会の最終日はどれくらい混んでる??

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結論から言うと、かなり混んでいます。私が最終日のミュシャ展を見に行く前にテレビをつけていたらミュシャ展のCMが流れていたので「これでまた混むなあ」と思いました

 

ミュシャ展の最終日は日曜日で、私が訪れた時間は13時半ごろです。

 

チケット売り場の混雑

私は前売り券を買っていなかったのでついたらまずはチケット売り場に並びました。

普段であればチケット売り場に並ぶと言うことはあまりないのですが、最終日は13時半の時点で50人ほどが並んでいました。

 

買うまでにかかった時間は20分ほどでした。

 

チケットを買ってから入場までは割とスムーズでした。もし前売り券やオンラインチケットがあればいきなり入場の列に並べるので楽だと思いました。

 

 

会場の混雑

とんでもなく混んでます(当然ですね…)。

絵画の前に列などは作られていませんでしたが、一番前の列で見ようとするとかなり時間がかかると思います。

 

会場全体が人でごった返しているので絵画の前以外も移動がとても大変でした。すれ違う余裕はないのでお互いに譲り合いながらやっとちょっと進めるくらいでした。

 

メインの絵の前は特に混雑しているので、係りの人がしきりに譲り合って少しずつ進むよう、流れが止まらないように声をかけていました。

 

小さな子どもたちはただでさえよく分からないのに、その上絵もまともに見えずにかなりストレスが溜まってしまったようで、たびたび泣き声や叫び声が聞こえました。

 

そんな中でしたがとりあえず絵を見ることはでき、1時間強ほどで一通り見終えました。

 

 

グッズ売り場は大混雑

一通りの絵を見終えホッとして会場から抜けましたが、本当に大変だったのはここからでした。

 

それなりに面積のある展示会場はまだ良かったのですが、グッズ売り場は地獄絵図でした

 

狭い通路はグッズを見る人と通りたい人でキャパを超え、レジの列は会場をぐるっと半周していました。

 

私はブックマーカーが欲しかったので探して一番奥まで行ったのですが、見つかりませんでした。

店員さんに聞くと一番手前にある教えてもらい向かったのですが、ぎゅうぎゅうに詰まった列を掻き分けて移動するのはかなり辛かったです。

 

レジには長い列が出来ていましたが、レジが4つ稼働していたのでなんとか15分ほどで買うことができました

買えた後には息苦しさからすぐ外に出しました。

 

グッズはあらかじめ買うものを決めておくほうがスムーズですね。

複数人で来てる時には誰かに並んでいてもらうのもいいかもしれません。

 

 

最終日(混雑日)に行く時のポイント

1. チケットは先に買っておくorオンラインチケット

2. 会場内では流れに逆らわない

3. 買うグッズを先に決めておく

4. 誰かにレジに並んで置いてもらう

 

最終日(混雑日)はどうしても人混みにストレスを感じてしまいますが、このあたりを押さえておくと少しはスムーズにまわれるかと思います。

混雑する日に美術館を訪れる時には是非参考にしてみてください。

 

とはいえ美術館は空いてる日に行くのが一番だと感じた1日でした。

 

 

こちらの注目の絵画もどうぞ

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【本の紹介】朝井リョウ『何者』【あらすじと感想】

オススメ度:☆☆☆☆☆☆

久々に読んでいてゾワッとした作品。初めて朝井リョウさんの作品を読みましたが、一発でファンになりました。SNSネイティブ世代の方ならきっと共感できる内容になっています。

 

この本をオススメしたい人

・就活生orこれから就活する大学生
・何者かになりたいと思っている人

 

朝井リョウ『何者』

著者:朝井リョウ(1989〜)

早稲田大学卒。2009年デビュー作『桐島、部活やめるってよ』がベストセラーに。2013年『何者』で直木賞受賞。

 

あらすじ

就職活動を目前に控えた拓人は、共通点をもった4人の仲間たちと就活に向けて集うようになる。彼らはありたい自分を演出し、そんな姿を互いに傍観しながら面接に交友に励んでいく。

就活も終盤にさしかかり勝ち組と負け組が露呈しはじめると、本音と建て前、ペルソナと自意識の境が次第に崩壊し、"仲間"であったはずの彼らの関係にも変化が訪れる。

 

感想

自分だけは自分のことを理解できていると思っていましたが、実際は何一つ客観的に見られていないことに気付かされました。作中でも他人のことは客観視できても、自分のことになると贔屓目に見てしまう人々が随所に出てきます。

どんなに冷静のつもりでも、自分だけは何かが違う、特別であるという思いは消えることはありません。そんな自意識を客観的に見つめ、受け入れることが大人になるために必要なのかもしれません。

 

 

【絵画の解説】ルノワール「ピアノを弾く少女たち」【晩年の傑作】

ルノワール晩年の傑作「ピアノを弾く少女たち」(「ピアノに寄る少女たち」、「ピアノの前の少女たち」ともよばれる)。全体的に温かみのあるタッチと色彩で描かれいて、見ていると優しさが伝わってきます。

 

優しい絵画はどのようにして生まれたのでしょうか。今回は日本でも人気が高いこの作品の鑑賞のポイントを解説していきます。

 

「ピアノを弾く少女たち」を理解するポイント

・温かみのあるタッチはいかにして生まれたか

 

ルノワール「ピアノを弾く少女たち」の解説

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「ピアノを弾く少女たち」 1892年 オルセー美術館

ピアノの前で二人の少女が一緒に楽譜を眺めています。何気ない穏やかな日常を切り取ったようなこの絵には、見ていてほっとするような温かみを感じます。

 

この温かみのある独特な画風はルノワールの晩年の絵画の特徴でもあります。彼はどのようにしてぬくもりの感じられる画風を手に入れたのでしょうか。

 

印象派と古典への傾倒

ルノワールの画風は時代によって大きく3つに分けることが出来ます。

最初は最もよく知られている印象派としての時代です。この時代には鮮やかな色彩表現を身に付けました。

 

次が古典に影響を受けた時代です。ローマへ旅行したルノワールはラファエロや新古典主義のアングルに影響多大な影響を受けました。こうしてルノワールは印象派とはうって変わってハッキリとした輪郭を手に入れましたが、一方で画面にはどこか冷たさが表れるようになりました。

 

晩年の作風

これらの二つの時代を経て、ルノワールはこの「ピアノを弾く少女たち」を描いた晩年の作風を完成させました。この時代の作品は印象派の鮮やかさや温かさと、印象派には無かった質感を持った輪郭の筆遣いが見られます。

 

ルノワールは見る人が楽しく、喜ぶような作品を描きたいと考えていました。「ピアノを弾く少女たち」を見ていると純心な少女がピアノの練習をしている姿にほっこりしてきます。

印象派と古典、二つの時代を経てルノワールは温かみのある優しいタッチを完成させたのです。

 

ぜひ美術館でこの作品やルノワール晩年の作品を見るときには、印象派時代や古典傾倒時代の作品とタッチを比べてみてください。

 


ルノワールの画風についてはこちらでも詳しく解説しています。

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【絵画の解説】ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」【印象派】

ルノワールの最高傑作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」とも呼ばれる)。長い名前は覚えていなくても、この賑やかで華々しいこの絵は見たことがあるのではないでしょうか。

 

この大きく優しい絵画の見どころを3つのポイントから分かりやすく解説します!

 

「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を理解するポイント

・ルノワール独自の木漏れ日の表現
・印象派ながら黒を使用

 

ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の鑑賞のポイント

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「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 1876年 オルセー美術館

19世紀末、パリの繁華街モンマルトルの踊り場では正式な舞踏会に参加できない庶民が気軽に踊りを楽しんでいました。

 

近くに住んでいたルノワールは小さなキャンバスを持ってここに通い、作品を制作していきました。モデルには、ルノワールの友人が多く参加しています。

ルノワールが描きたかった「人々の喜び」がこの絵にはあふれています。 

 

鑑賞のポイント①:木漏れ日の表現

印象派の特徴は見たままの光をそのまま表現することにあります。

ルノワールはこの技法をさらに発展させ、ぼやけた光の玉を人物や背景に置くことで木漏れ日を表現しました。

 

ダンスホールの全体にちりばめられた光は花のように明るく咲き、画面全体の華やかさを演出しています。

 

 

鑑賞のポイント②:印象派ながら黒を使用

印象派では自然の光を描くことにこだわっていたため、光の外の色(虹の七色に含まれない色)である黒を使うことを避けていました。

一方で陶器の絵付け職人の経験のあるルノワールは、黒が見る人に及ぼす効果を客観的に理解し「黒は色の女王」と考えていたため印象派でありながら少しだけ黒を使っています。

 

ルノワールの黒は、彼の特徴である鮮やかな色使いをより一層引き立てています。

 

 

鑑賞のポイント③:幸せそうな人々の表情

絵画の人物の表情を見ていくと、誰もが自然で楽しそうにしているのが分かります。

この絵画には彼の友人や家族が多くモデルとして登場しています。彼が友人や家族を大切にし、楽しい時間を過ごしてきたことが伝わってきます。

 

ルノワールの絵画の主題、どれもは明るく幸せなものばかりです。それは彼が絵画を描く上でのモットーとして、「見る人を楽しい気持ちにさせたい」と考えていたからでした。

そのため絵画も悲劇的なものでなく人々の何気ない穏やかで幸福な時間が描かれています。

 

ルノワールの絵画が人気の秘訣はこのところにあるのではないでしょうか。

 

 

ルノワールについてもっと知りたい方はこちらをどうぞ
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【絵画の解説】ルノワール「ラ・グルヌイエール」【印象派の誕生】

今では絵画の人気ジャンルの一つとなっている印象派。やわらかな雰囲気は日本人と相性が良いようで、毎年多くの展覧会が開かれています。

 

今回紹介するルノワールの「ラ・グルヌイエール」は印象派の作品のなかでもターニングポイントとなった大事な作品でした。この作品が印象派にとってなぜ大切なのか、わかりやすく解説していきます。

 

ルノワール「ラ・グルヌイエール」を理解するポイント

・印象派の誕生
・ルノワールとモネの違い

 

ルノワール「ラ・グルヌイエール」は印象派の原点

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「ラ・グルヌイエール」 1869年 スウェーデン国立美術館

水面に映る美しい光。これはまさに印象派の特徴です。

ルノワール、モネらのちに印象派と呼ばれるグループは色を塗るのではなく、純色を並べて置く"筆触分割"という技法を編み出し自然の光を表現することに成功しました。

この作品は筆触分割を用いて描かれた最初期の作品とされ、印象派の誕生を意味してているのです。

 

自然の光を表現する

1868年から1869年にかけて、ルノワールとモネはラ・グルヌイエールを訪れ、二人はキャンバスを並べて同じ構図で作品を制作していました。ラ・グルヌイエールはパリ近郊の当時まだ新しかった行楽地で、夏には多くのパリジャン、パリジェンヌが優雅に楽しんでいました。

 

 この絵の特徴はなんといって水面に移った光が美しく表現されていることです。

これは印象派が求めている物でした。印象派のグループは目に見える自然をそのまま描くことにこだわり、一瞬のきらめきを絵画の閉じ込めようとしました。

このきらめきを表現するために、彼らは新しい画法を編み出します。

 

 

筆触分割

彼らが編み出した新しい技法を筆触分割といいます

従来の絵画はパレットの上で色を混ぜ、さまざまな色味を作り上げてきました。しかし色は混ぜれば混ぜるほど黒に近づき、合わされば合わさるだけ透明に近づいていく光を表現することは非常に困難でした。

 

光を表現するために編み出されたのが"筆触分割"による"視覚混合"で色を表現するというものです。

筆触分割とは色を混ぜて使うのではなくキャンバスの上に並置していく方法で、この方法で描かれた絵画は遠くからみた時人間の錯覚により色が合わさって見えます(視覚混合)。

こうして彼らは、色味を失うことなく色を混ぜて見せることに成功したのです。

 

 

印象派の誕生

「ラ・グルヌイエール」は筆触分割をつかって描かれた最初期の作品といわれています。印象派絵画最大の特徴である筆触分割の誕生は、印象派の誕生を意味します。

 

水面に反射する光がきらめくパリ郊外の美しい水浴場のほとりで、のちの巨匠たちが互いに影響を受け合いながら静かに印象派は生まれいきました。

 

 

ルノワールとモネの「ラ・グルヌイエール」

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モネ「ラ・グルヌイエール」 1869年 メトロポリタン美術館

 となりに並んで同じ構図で同じ場所を描いていたルノワールとモネでしたが、その作品を見比べてみるといくつか違いがあることが分かります。

 

人物に対する姿勢

まず最初の違いは人物の配置です。モネが人物を遠くに見える背景の一部として描いているのに対し、ルノワールは画面がより人物に寄っており、その服装まで細かく描かれています。

ルノワールは自然を重視する印象派のグループに属してはいましたが、どちらかと言えば関心は人物に向いていました。この考え方の違いはのちにルノワールが印象派から距離を取るようになったときの理由のひとつにもなりました。

 

黒の使用

もう一つの違いが黒の使用の有無です。印象派では自然を重視していたため、自然界に存在しない黒は使用しないのが一般的でした。

一方でもともと陶器の絵付け職人であったルノワールは黒が見る人に与える印象を理解しており、「黒は色の女王」と考えていました。その結果この絵画においてもモネが黒を避け暗い緑を使っているのに対し、ルノワールは人物の服装に黒を用いるという違いが生まれました。

 

 

おわりに

今や大人気である印象派も、最初は二枚の絵画から始まりました。

今回は印象派の原点である作品について紹介しました。ルノワールの他の作品についても別の記事で解説していきます。絵画を年代別、人物別に追っていくことで変化を楽しむのも面白いかもしれませんね。

 

 

ルノワールについてもっと知りたい方はこちらもどうぞ 

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【画家の紹介】オーギュスト・ルノワール【印象派】

日本でも人気のある印象派。その中でもルノワールは特に人気が高く展覧会も頻繁に開かれています。

そんな人気のある画家ルノワールですが、彼の人生や作品について説明できる人は少ないのではないでしょうか。

 

ぜひ展覧会の前この記事でルノワールについて知って、より展覧会を楽しんできてください!

 

ルノワールを理解するポイント

・楽しく明るいテーマしか描かなかったルノワール
・時代ごとの画風の変化
・印象派ながら"自然"よりも"人物"を重視

 

印象派の巨匠:ルノワールの紹介

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「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 1876年 オルセー美術館

ルノワールといえば印象派の画家として有名です。しかし、その画風は時代によって変化していきました。

彼は何に影響を受け、どのように画風を変化させていったのでしょうか。3つの時代に分けて紹介していきます。どの時代の作風が好きか考えながら読んでみてください!

 

*印象派とは
当時の芸術家たちの関心は理想ではなく現実の自然を描くことでした。特に印象派のグループは見たままの自然を描くことにこだわりました。
彼らは色を混ぜて塗るのではなく、原色を並置する手法(筆触分割)を生み出すことで瞬間の光を表現することに成功しました。
印象派という名前は、印象派たちによる最初の展覧会を見たある批評家が「こんなものは印象に過ぎない」とルポに書いたことがきっかけで呼ばれるようになりました。今では人気の印象派も、当時は伝統的手法を無視した前衛作品とされなかなか認められませんでした。
 

ルノワールの画風①:印象派として(1860年代~80年頃)

ルノワールは画家をめざし20歳のときに入った画塾でのちの印象派のメンバーと出会いました。

 

印象派のメンバーは瞬間の自然を表現するために、"筆触分割"というテクニックを生み出しました。これに技術によって色味を失うことなく色を混ぜて見せ、光を表現することに成功しました。

 

ルノワールがモネ一緒に並んで描いた「ラ・グルヌイエール」はその最初期の作品だと言われています。

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「ラ・グルヌイエール」 1869年 スウェーデン国立美術館

 

彼らはサロンより自由な発表の場を求めグループ展を開くようになります。印象派という名前は第一回の展覧会をみた評論家が「こんなものは印象に過ぎない」とルポに書いたことが由来になりました。

 

ルノワールは第三回印象派展に大作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を出品し、注目を集めました。この絵はルノワールの印象派としての最高傑作となりましたが、以降ルノワールは印象派から距離を置くようになっていきます。

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「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 1876年 オルセー美術館

 

 

ルノワールの画風②:古典への傾倒(1880年代~90年頃)

印象派の主要メンバーであったルノワールですが、風景よりも人物を描くことを好んだためもともと自然を描くために誕生した印象派とは次第に距離を置くようになっていきました。

 

他の印象派のメンバーと異なり裕福な出ではなかったルノワールは絵をサロンに出し売っていく必要がありましたが、印象派展を主催するメンバーがサロンを毛嫌いし、サロンか印象派展のどちらかにしか出展できなくなっていたのも離脱の原因になりました。

 

印象派から距離を置いたルノワールは自分の絵のスタイルに悩んでいました。

そんな中訪れたローマで、彼はラファエロの絵に衝撃を受けます。これを機にルノワールは古典に回帰し、今までの色彩重視からデッサンや構図を意識するようにシフトしていきました。

輪郭や線が段々とはっきりしてきていることからも、印象派から離れて行っていることがうかがえます。

「ブージヴァルのダンス」 1883年 ボストン美術館


人物を描くことに関心があったルノワールは、新古典主義の巨匠アングルの影響を受け裸婦も好んで描きました。「大水浴図」は完成まで3年をかけた大作で、古典的な画法と現代の絵画を調和させようと労苦しました。

 

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左:アングル「トルコ風呂」 1862年 ルーヴル美術館
右:ルノワール「大水浴図」 1887年 フィラデルフィア美術館

 

 

ルノワールの画風③:晩年(1890年代以降)

 ここまで様々な画家に影響を受け、ロココ、新古典主義、ロマン主義、印象派と自らのスタイルの確立に苦しみ続けたルノワールでしたが、50歳の頃ついに様式にとらわれない境地にたどり着きます。

 

ルノワールは古典主義のハッキリとした線とも、印象派時代のおぼろげとも違う質感のある輪郭を生み出しました。

この時代の作品はどれも温かみのある、大地のエネルギーを感じられるような作品が特徴です。

 

晩年のルノワールは小さな息子を優しいタッチで描くとともに、豊満な裸婦に根源的な生命賛歌を見出しました。

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「ガブリエルとジャン」 1896年 オランジュリー美術館

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「パリスの審判」 1914年 ひろしま美術館

 

 

おわりに

印象派の人気画家であるルノワールですが、生涯を見通してみると作風がだいぶ変化していることが分かりました。

 

みなさんのお気に入りの時代は見つかったでしょうか。

ぜひ美術館でルノワールの作品を鑑賞するときにはその"時代"にも注目してみてくださいね!

 

 

ルノワールの作品の解説はこちら

 

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【本の紹介】佐藤雅美『薩摩藩 経済官僚』【調所笑左衛門】

オススメ度:☆☆☆

みなさんは調所笑左衛門という武士をご存じでしょうか。調所笑左衛門とは茶坊主上がりの薩摩藩の武士で、破産の危機に瀕していた薩摩藩の財政改革を行い、藩の再建に成功した男です。

 

この本は調所笑左衛門の半生を小説にしたものです。

 

この本をオススメしたい人

・幕末ごろの日本史が好きで、より深く知りたい。
・日本の財政改革の歴史を知りたい。

 

佐藤雅美『薩摩藩 経済官僚』

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三行要約

・開国前の薩摩藩は深刻な財政難に陥っていた。

・調所笑左衛門が大胆な財政改革を行い、藩は再建された。

・こうして生まれた財力が、後の明治維新を支えた。

 

改革前の薩摩藩の財政状況

1801年には121万両だった借金はみるみる複利が膨らみ1835年には500万両にも及んでいました。これは月の収入が10万両であったことを考えるといかに膨大か分かると思います。宗主の重豪は今までと同じように、これらをはなっから踏み倒すつもりでいました。

 

調所の財政改革

島津宗主、重豪は借金の踏み倒しによって首の皮をつないでいましたがそれも限界をむかえていました。重豪は窮余の策として、借金をすべて踏み倒しもう一度やり直すために最後につなぎの資金として10万両だけ借りることを考えました。

しかし薩摩藩の踏み倒しと財政危機は金貸しの間では広く知れ渡っており、10万両さえも借りるのは極めて困難な状況でした。この時金を借りてくる役に任命されたのが調所笑左衛門でした。

 

大阪の町を2カ月まわり続け、やっと出雲屋という両替屋から資金を調達することができました。この出雲屋が経済にくらい調所のブレーンとなり財政改革が進み始めます。

 

調所は薩摩藩の財政のためになんでもやりました。私腹を肥やそうとするやからには常に目を光らせ、たるみの出ぬよう部下たちを叱り続けました。御上とコネをつくり貿易を強化し、ときには贋金にも手をだして薩摩藩のために尽くしました。

改革は実を結び500万両の借金を整理するに至り、さらに300万両を捻出するまでになりました。

 

調所の最期

晩年の調所にはひとつ気掛かりなことがありました。

それは次期宗主、斉彬が金食い虫であったことです。外国との接触が増えてきた当時、斉彬の関心は富国強兵にありました。その為に斉彬は兵や武器を強化しようと考えていました。調所はこれまで必死に蓄えたものがすべて流れ出てしまうのではないかと危惧していたのです。

 

一方斉彬も調所に不満がありました。(のちに誤解であることが分かるのですが)父がなかなか隠居せず、自分が宗主になれないのは調所が関係していると考えていたのです。いらだった斉彬は御上から手を回し、実質的に調所を自殺に追い込みました。

覚悟した調所は一晩豪遊した後、失意の中で自害するのでした。

 

感想

明治維新で活躍した薩摩藩の裏にはこのような再建劇が隠されていたと知ってとても興味深かったです。歴史の点と点がつながるいい本でした。

これは自分の問題ですが、日本史、幕末史の知識を事前にもう少しいれておけばもっと楽しめたかなと思います。もしこれからこの本を読もうと考えている人がいましたら、先に幕末史の復習をしておくことをオススメいたします。