本と絵画とリベラルアーツ

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【絵画の解説】マネ「草上の昼食」はなぜ批判されたのか

パリのオルセー美術館に飾られているマネの代表作「草上の昼食」。

一見すると娼婦と現代風の紳士がピクニックを楽しんでいるだけに見えるこの絵は、なぜ大スキャンダルを巻き起こし、なぜマネの代表作と言われるようになったのでしょうか。

 

この絵が描かれた当時の美術シーンを踏まえながらわかりやすく解説します。この記事を読んだ後、きっと「草上の昼食」を見に行きたくなるはずです。

 

マネ「草上の昼食」を理解するポイント

・タブーであった現実の女性の裸
・のちに描かれた多くのオマージュ

 

 

マネ「草上の昼食」はなぜ批判されたのか

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「草上の昼食」 1862-1863年 オルセー美術館

 1863年の「落選者展」で展示された「草上の昼食」は、当時の絵画のお約束を完全に無視した作品でした。その問題となったのは手前でこちらを見ている裸の女性でした。

 

*「落選者展」とは
「草上の昼食」が初めてお披露目されたのは1863年のサロンの「落選者展」でした。 通常サロンでは落選者の作品が展示されることはありません。
しかし1863年のサロンの審査は極端に厳しく、前の年に比べて入選者をおよそ25%も減らしてしまいました。 時のフランス皇帝ナポレオン3世はこの審査に美術家たちが憤慨している様子を見ると、サロンと同じ会場の別室で「落選者展」を開催するように命じました。 皇帝は自らの威信を示すことを目的としていましたがサロンを主催する芸術アカデミーは屈することは無く、目論見は失敗に終わりました。
 

道徳に反して描いた現実の女性の裸

当時のキリスト教社会では裸婦画は欲情を煽るものとしてタブーとされてきました。

それまでも有名な画家の作品でもヌードを描いたものはたくさん存在しました。実際1863年のサロンでも裸婦を描いたもの人気で、数多くの作品が出品されています。

 

これらの作品が批判ではなく賞賛の対象として認められていたのは、モチーフが人間の女性ではなく、女神だったからです。同じ裸体でも女神は完全な存在であるから服を着ていなくても神聖であり、不完全である人間のヌードはけがらわしいものして扱われました。

 

「草上の昼食」をよく見ると女性の左下には服が無造作に脱ぎ捨てられ、この女性が現実の人間の女性であることが分かります。ましてやこの女性は娼婦を描いたもので、モデルだけでなく娼婦を娼婦として描き、正当な芸術であることを何よりも大事にするサロンで展示したことは当時のパリの知識人たちの怒りを大いに買うことになりました。

 

 

のちに描かれた多くのオマージュ作品

サロンやパリの知識人たちには批判を買ったこの作品ですが、時代の変革期に新しい芸術を求める若き芸術家たちからは尊敬を集めるきっかけともなりました。

 

その証拠として有名な画家の間でもオマージュ作品が多く作成されています。特にモネがオマージュとして同名の作品を描いた際には、逆にマネがモネを意識してもともと「水浴」というタイトルであったこの絵の名前を変更しています。

 

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モネ「草上の昼食」 1866年 オルセー美術館

 

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セザンヌ「草上の昼食」 1875年 オランジュリー美術館

 

 

おわりに

「草上の昼食」はこの他にも、ピカソやウジェーヌ・ブータンなどによってオマージュ作品が作られてきました。

タブーを犯して描かれた作品でしたが、結果として新しい芸術家たちを刺激し近代芸術、印象派を花開かせるきっかけとなる名作となりました。

 

ほかにもマネの「草上の昼食」に影響を受けた作品は数多くあるので、美術館を訪れた際には影響を受けている作品を見つけるのも面白いかもしれませんね。

 

 

マネについてのもっと知りたい方はこちらの記事もどうぞ 

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2019年8月の読書結果

7月には冷夏、冷夏と心配していましたが、蓋を開けてみれば今年もそれなりに暑かったですね。念願だったクーラーの効いた部屋でのアイスも呆れるほど食べました。ちなみにオススメは牧場しぼりのラムレーズンです。

 

休み期間は電車に乗る機会が減るので自ずと読書量も減ってしまいます。代わりといってはなんだがその分映画はいつもより多く見ました。

旅行にもあっちこっち行ったしいい夏だったのでは無いでしょうか。

 

以下8月に読んだ本のまとめです。

 

『シロクマのことだけは考えるな!』

著:植木理恵 / オススメ度:☆☆☆

最近はテレビにもたびたび出演する人気心理学者、植木先生の著書。

ややボリュームと深みには欠けますが、心理学に興味を持ちたてという人にはちょうどいい一冊になっています。

下の記事で面白かったネタをいくつか紹介しています。

 

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『「日経新聞」最大活用術 2016年版

著:小宮一慶 / オススメ度:☆☆☆☆

慣れていない人が読んでみると意外に重いのが日経新聞。

そんな日経新聞を素早く読み解き、生かしていくにはどうしたらよいかというコツを解説した本。

読むときのポイントに加え、日経新聞を読むうえで最低限知っておきたいミクロ・マクロ経済学の基礎も解説されているので知識なしでも読むことができます。

 

日経新聞を読み始めた学生や新社会人には効果覿面です。

 

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図解 眠れなくなるほど面白い 科学の大理論』

著:大宮信光 / オススメ度:☆☆☆

科学史の中でも超一級の話題を集めた本。

最新の話題から始まり物理化学の世界、歴史的大発見を経て最後は宇宙と人間に帰着します。

 

話のレベルは超ミクロ・マクロ世界を除けば高校理科の範疇で、特殊なことがらは出てきません。

説明にはイラストや図が多用されていて、数式は最低限に抑えられているため文系や中学生でも理解がしやすくなっています。

 

オススメとしては、理科の勉強を始めた高校生が新たな単元に入る前この本の該当箇所を読んでから勉強に入るとスムーズだと思います。教科書の補助+コラム的な立ち位置だと考えると、この本のレベルが分かりやすいかもしれません。

 

 

『蜜蜂と遠雷』

著:恩田陸 / オススメ度:☆☆☆☆☆

直木賞と本屋大賞をW受賞した恩田陸の傑作「蜜蜂と遠雷」。国際的なピアノコンクールを通して4人の出場者とそれを取り巻く人々の交流と成長を描いています。

 

700ページ近くある長編小説ですが、とにかく面白くテンポもいいので普段小説を読まない人でも飽きずに読み切ることができると思います。

 

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『語感トレーニング』

著:中村明 / オススメ度:☆☆☆

「快調」「好調」「順調」のうち最も調子がいいのはどれでしょうか。 

 

同じ意味の言葉でも、言葉によって「語感」に違いがあります。語感とはニュアンスに近い言葉で、単語ごとによる言葉のイメージや香りの差異を表します。

 

この本ではこのような55題のクイズを通して日本語の語感を学んでいくことができます。単に言葉遣いが正しい、正しくないというレベルではなく、この状況でこの人があの人に向かって話すときにどの言葉が適切か、ということを知ることができます。

 

言葉にすると説明するのが難しい意味のわずかな違いを、早稲田大学の中村名誉教授が見事に解説しています。

日本語の面白さを再発見できる良本です。

 

 

【画家の紹介】エドゥアール・マネ【写実主義・印象派】

近代絵画の父とも呼ばれる巨匠エドゥアール・マネ。今でこそ大画家としての名誉をほしいままにしていますが、彼のキャリアのほとんどは批判の連続で、実際に評価されるようになったのは最晩年のなってからでした。

 

彼の傑作たちは当時どのように評価され、どのような人生を送っていったのでしょうか。

この記事を読めばマネの生涯とその作風についてのおおよそをつかめるようになります

 

マネを理解するポイント

・マネが描きたかったのは"現実の社会"
・巨匠ベラスケスから受け継いだ空間表現
・ジャポニスムに影響を受けた平面的な画風

 

近代絵画の父:エドゥアール・マネの紹介

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「フォリー・ベルジェールのバー」 1882年 コートールド美術館

 

マネの生涯

少年時代

マネは1832年、パリの裕福な家庭の長男として生まれました。母方の伯父は芸術に造詣が深く、マネにデッサンの手ほどきをしたり、ルーブル美術館に連れて行ったりしました。マネはこれらの経験を通して芸術家に興味を持つようになります。

 

マネが画家への興味を強めていく一方で、司法官だった父はマネが法律家の道に進むことを望んでいました。マネもその意向を受け一度は海軍士官を志しましたが、二度の入試落第を経て芸術家に進むことになりました。

 

画家としてのキャリア

画家の道を歩み出したマネは画家トマ・クチュールの画塾に入ります。当時すでにパリは社会的にも芸術的にも変革期に入っていましたが、クチュールのアトリエでは伝統的なスタイルに強くこだわっていました。

目の前の現実を描き出す、新しい芸術を模索していたマネはクチュールとしばしば対立し、入塾から6年後アトリエを去りました。クチュールのアトリエを去った後には友人とパリの一角にアトリエを構え、ルーブル美術館で巨匠たちの作品の模写に勤しむようになります。

 

数年後、サロン(王立の美術展覧会)で入賞する画家にまでなったマネでしたが、1863年に行われたサロンの落選展で展示した「草上の昼食」がスキャンダルを巻き起こします。

 

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「草上の昼食」 1862-1863年 オルセー美術館

 

草上の昼食は当時はやっていたピクニックを題材として描かれた作品で、何人かの男女がゆったりと昼食を楽しんでいます。二人の男性は現代的な服装を纏い、左の女性は娼婦であることがうかがえます。問題はこの娼婦の女性でした

 

キリスト教では欲情をあおる裸婦画はタブーとされています。例外的に許されるのは神話や聖書など、人間でないものをモチーフとした女神像や寓意像に限定されていました。女神は人間と違いあくまで神であり、完全な神である以上布きれで体を隠す必要はない、という理屈です。

それまでの数百年間、キリスト教世界で書かれた裸婦画はすべて女神など人間の女性でないものを主題にしたものでした。

マネは人間の裸婦画、しかも娼婦を描いたことでパリの知識人から怒りを買ってしまうのでした。

 

これに懲りずマネは2年後サロンに作品を送り、入選します。この時の作品「オランピア」が再び激しい批判に火をつけます。

 

「オランピア」では人間の女性がはっきりと娼婦と分かる形で描かれ、また当時の王道の技法である立体感のあるタッチからもかけ離れたものでした。この独特の描き方については次の絵画の特徴で解説します。

「オランピア」は「草上の昼食」にもましてパリの紳士淑女の怒りを買い、この絵を見たうちの一人が怒りのあまりステッキを振り回したため急きょ絵画に2人の守衛をつけるという事態にまで及びました。

 

このように、現在ではマネの代表作とされるこれらの作品も当時は悪評にさらされた不遇の作品だったのです。

 

晩年

彼がついに名声を得ることが出来たのは晩年になってからでした。

50歳を目前にした頃からマネは、16歳の時にブラジルで感染した梅毒の症状が悪化するようになり、左脚の壊疽が進んできました。そんな中でも制作を続け、1881年のサロンに出品した肖像画で銀賞を獲得し、この功績により以後サロンに無審査で出品できることになりました。

また親友が美術大臣になった際にはフランスの最高クラスの勲章を受章することができました。

 

晩年にして認められるようになってきたマネは1881年末から最後の大作「フォリー・ベルジェールのバー」の制作に取り掛かります。フォリー・ベルジェール劇場とはパリの有名はミュージックホールで、著名なスターを数多く輩出したことでも知られています。

「フォリー・ベルジェールのバー」は好評を博し、マネの画家としての地位は確固たるものになりました。

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「フォリー・ベルジェールのバー」 1882年 コートールド美術館

 

マネはこの大作を制作して一年後より著しく衰弱していき、壊疽が進んだ左足を切断する手術を受けましたが体調が回復することなく51歳でその生涯を閉じました。

面倒見の良かったことで知られるマネの葬儀には様々なグループ画家が参列し、マネより2歳年下で親交も深かった印象派のドガは、「我々が考えていた以上に彼は偉大であった」と語りました。

 

 

マネの絵画の特徴 -ベラスケスとジャポニスム-

近代絵画の父と呼ばれるマネは、それまでに活躍した巨匠たちの技法を受け継ぎながらマネ自らも新しい芸術にチャレンジしていきました。

 

巨匠ベラスケスから受け継いだ空間表現

マネがルーブル美術館で模写や研究を繰り返す中で最も影響を受けたのが17世紀スペイン絵画の巨匠ベラスケスでした。「オランピア」騒動のあとのスペイン旅行以降は特にベラスケスへの心酔するようになり、ベラスケスの中に自分の理想を見出したとまで手紙に残しています。

マネがベラスケスから受け継いだのは背景の表現技法です。ルネサンス以降絵画の背景は遠近法を用いて立体的に表現されるのが普通でしたが、ベラスケスは遠近法を捨てわずかな影によって奥行きを表現することに成功しました。

ベラスケスの背景表現は自然に見る人を人物に導きます。マネはこのことを空気が人物を包んでいると表現し、生涯研究の対象にしました。

 

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左:ベラスケス「道化師パブロ・デ・バリャドリードの肖像道化師パブロ・デ・バリャドリードの肖像」 1634年頃 プラド美術館 
右:マネ「笛を吹く少年」 1866年 オルセー美術館


敬愛するベラスケスにインスピレーションを受けた「笛を吹く少年」でしたが、残念ながらこの作品もまたパリでは不評でした。ちなみに描かれている笛は木製のファイフという横笛で、この指の形で吹くとソが鳴るそうです。

 

ジャポニスムに影響を受けた平面的な画風

1868年から始まった明治維新前後、多くの浮世絵・屏風・染め物などの日本の芸術品がヨーロッパやアメリカに流出し、欧米ではジャポニスムと呼ばれる日本ブームが起こりました。近代への過渡期にあった芸術分野でも日本文化はもてはやされ、多くの芸術家がその影響を受けた作品を制作しています。

 

マネもジャポニスムの影響を強く受けた画家の一人です。それまでの西洋絵画は科学的に正しく描くことが良しとされ、遠近法や影を用いて三次元空間を表現する明暗法により立体的に描かれてきました。

 

これに対して極めて平面的に描かれた浮世絵は当時のヨーロッパでは斬新に映りました。マネはこの浮世絵の大胆な色遣いに感銘を受け、平面的で影の少ない新しい画風を生み出しました。また人物の輪郭を力強い筆使いで描くのもマネが浮世絵から取り入れた表現の一つです。

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「バルコニー」 1868-1869年 オルセー美術館

 

新しすぎたこれらの芸術は当時のパリでは受けませんでしたが、のちに近代絵画の父と称される所以となりました。

 

 

マネの代表作の紹介

 ここまで有名な作品を取り上げてきましたが、ぜひ知っておきたい他の作品も紹介しておきます。

 

「エミール=ゾラの肖像」

マネの友人で小説家のゾラを描いた肖像画。後ろに相撲絵の浮世絵が飾られています。また相撲絵の右下に飾られているモノクロの作品はサロンで酷評を受けた「オランピア」。

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「エミール=ゾラの肖像」 1868年 オルセー美術館

 

「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」

女流画家としても有名なモリゾをモデルとして描いた作品。モリゾはのちにマネの弟と結婚しました。先ほど紹介した「バルコニー」で手前に腰かけている女性もモリゾをモデルにしています。

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「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」 1872年 オルセー美術館

 

 

マネの有名な作品の詳しい解説はこちら

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「辞める」技術

何もかも似ていない私の兄弟で、ただ一つ似ているところがあるとしたらそれは嫌なことはすぐ辞めるということだろう。

 

バイトでもタスクでもストレスがかかればすぐ辞める。妹は1日でバイトを辞めたし、私は3時間で辞めたこともある。

 

大抵こういう話をすると根性なしのように思われて印象が悪くなる。確かに雇用主からすればすぐ辞められちゃたまらないし、都合の悪いやつらだと思う。

こちらから合わせてもらえば速攻やめるほうが度胸があると思うのだが、世間はそうはみてくれないらしい。

 

 

辞めることは悪ではない

そもそも辞めることは悪いことでは決してない。

仕事でも結婚でもイヤイヤ続けていいことは少ない。好きなことであったとしても続けるということはストレスのかかるものである。ましてや嫌なことを続けるストレスといえば計り知れない。

 

人生の目的が幸福である以上、どう考えても幸福に結びつかないと判断したものは切っていくべきである。

 

片付けのプロによると、物を捨てるか捨てないかな基準はときめくかときめかないかであるという。

これは行動においても同じである。資本になりえないときめかない行動はどんどん捨てていくべきだろう。

 

この広い世界で、捨てて拾えないものなど何もない。仕事だって人間だって自分に向いてるものがあるはずだ。

天職は見つけられなくとも、自分の負担にならないレベルの相性の仕事は見つけられるだろう。

 

経済学や株の世界では損切りという言葉が使われる。ダラダラと負け続けるより、サッパリ切ってしまったほうが全体の利益が大きくなることをいう。

そうであるならばダラダラと好きでもないことを続けるほうが全体から見て悪では無いだろうか。

 

 

なんでもやめられる

あまりに嫌だ嫌だ言う人に辞めることを進めると、大概の場合「いや、事情があるんだよ」と返ってくる。

確かに金銭的事情や係累など、人は多くの人に縛られている。それまで築いてきた地位やプライドが行動を制限する場合もある。

 

だが、どんなに枷に縛り付けられがんじがらめだとしても全くやめられないことなどない。

 

親から離れたいならば縁を切ればいい、配偶者と別れたければ離婚すれば良い、子供を育てられないなら養子に出すか施設に預けることもできる。

土地に不満があれば引っ越せばいいし、日本が嫌ならば出ていくことも出来る。

お金がなければNPOを頼りに生活保護を受給することもできるし、そもそもこの日本でお金がないことが理由で死ぬことは逆に難しいとも言える。

 

 

なんにせよ、自分のプライド以外に本当に自分を縛り付けるものなどないのだ。

もし何かに縛られて苦しいと感じている人がいるならば、きっとそれは自分自身ではないだろうか。

 

自分の人生を生きるために、ときには辞めることも重要である。何かを始めることと同じように辞めるということもまた、能動的な行動であり、自分の人生を選択することなのだ。

 

【本の紹介】恩田陸『蜜蜂と遠雷』【感想】

オススメ度:☆☆☆☆☆

久々に恩田陸さんの小説を読んだ。

前に高校生の時に読んだ『夜のピクニック』以来、数年ぶりに読んだ。

 

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調べてみると『寄るのピクニック』も『蜜蜂と遠雷』も本屋大賞を受賞した作品らしく、いいとこどりしてしまったなというもったいなさがある。どちらもとても面白かったので是非とも他の作品も読んでみたい。

 

 

あらすじ

舞台は優勝者がのちのコンクールで結果を残してきていることから、近年評価を伸ばしてきている芳ヶ江国際ピアノコンクール。 

 

5ヶ国で行われたオーディションのうち、パリ会場の審査員を担当していた嵯峨三枝子は突如現れた型破りな天才・風間塵に衝撃を受ける。彼は2ヶ月前に逝去した大物音楽家・ホフマンの愛弟子であった。

 

この年に行われた芳ヶ江国際ピアノコンクールには風間をはじめとし、消えた天才少女・栄伝亜夜やジュリアードの王子様と呼ばれるマサル・カルロス、そして妻子持ちのサラリーマン・高島明石が集い、さまざまなドラマが生み、交錯しながら最後には劇的な結末を迎えることとなる。

 

 

感想

≪恩田陸の真骨頂≫

恩田陸はなんといっても本全体の世界観、登場人物の世界観をそれぞれ創り出すのがうまい。またそれらを一つの世界に配置するときも、決して水彩絵の具に新しい色を落とした時のように濁り混ざることなく、それぞれの登場人物の世界観を保ったまま全体の調和が保たれている

 

登場人物それぞれの視点にドラマがあり、それらは同じ時間・空間で起こっていることながら全然違って見える。

 

登場人物の世界が交わるわずかな領域はまるでファンタジーで、そこに出てくるどの登場人物にも感情移入できるため物語の壮大さと物語に対する愛着が増していく。

 

 

≪浮かんでくるキャラクター像≫

恩田陸の作品を読んでいるとキャラクターの全体像がありありと浮かんでくる。まるで前から知っていたかのような、ずっとその人を知っているかのような気持ちにさえなってくる。

 

他の方とどこまでイメージを共有できるか分からないけれど、自分なりに浮かんできたイメージをまとめてみた。

 

風間塵:身長はやや低く、髪型は毛量の多い黒髪がところどころはねている。瞳は大きくキレイで、見ていると吸い込まれそうな色をしている。耳が大きい。普段は服に着られているような印象を受けるが、ピアノを弾いている間はその存在感から服も彼のために仕立て上げられたかのようにぴったりになる。寝起きがいい。

栄伝亜夜平均より少し高い身長に、一般人離れはしない程度にすらっとしたスタイル。髪はほんのり明るい黒で、腰ほどまで伸びたその髪は艶から若さを感じさせる。口元は軽くきゅっと閉まっている。気を抜くと猫背になりそうだが、基本的にはいい姿勢を保っている。赤いヒールと黒ドレスがよく似合う。化粧映えする顔。

 

マサル・カルロス王子様。高い身長でスタイル抜群。普段は愛想のいい笑い方をしているが一人の時や考え込んでいる時には年の割に貫録のある顔を見せる。手が大きく、指がきれい。一人の時間がないと耐えられない。

 

高島明石日本人にしては身長も高く、スタイルもいい方だが学生時代と比べるといくらか太った。大きくて厚みのある優しい手をしている。メガネ。落ち着いた緑や茶色など秋を思わせる色が好きで、服もこれらの色が多い。食べ物の好き嫌いは少ない方で特に焼き魚が好き。

 


映像だけでなく音楽さえ浮かんできて、まさに映画を見ているような感じだった。知らない曲は頭が勝手なクラシックを割り当てて流れていたが、もしもっとクラシックの知識があれば楽しめたのかなと思う。

さすがは本屋大賞らしく、誰が読んでも面白いと思える作品であった。

10月には映画も公開されるということで、そちらにも注目していきたい。

 

 

原爆ドームは平和の象徴なのか

先日始めて広島を訪れ、原爆ドームを見た。

 

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夏休みということで家族連れや外国人が多くみられ、特にアジア系の人が多かった。

ガイド付きのツアーで来ているグループも何組か見かけ、原爆ドームが世界的に有名なスポットになっていることがうかがえる。

 

 

原爆ドームは先の戦争の悲劇を後世に残すために保存されている遺産である。

元々はチェコ人のヤン・レツルによって建てられた広島県物産陳列館である。

昭和20年8月6日に爆心地から160mという至近距離で被爆し、全壊は免れたものの今の痛々しい廃墟へと姿を変えた。

 

風化する記憶

原爆ドームの前ではガイドに連れられ説明を受けている人やじっと見つめて何かを考えている人のほかに、家族や友人たちと並んで笑顔で写真を撮っている人を何組か見かけた。

 

原爆ドームを何か知ってか知らぬかは分からないが、彼らにとって原爆ドームはスカイツリーや雷門と変わらない観光スポットの一つにすぎないのだろう。

 

 

形あるものがすべからく壊れていくように、記憶もまた風化していくのをさけられない。

原爆ドームもまた、戦争の悲惨さを伝える力を失っていっている。

 

これは仕方のないことだ。

例えどんなに知識として戦争が残虐だということを知っていても、それを肌で感じるのは難しい。

 

その時はみなが共通して持っていたであろうマンモスが怖いという感覚もハンニバルが来ると言う恐怖も富士山が噴火する衝撃も、私たちは忘れてしまっている。

どんなに大事に抱え伝えて行っても、手で掬った水のように少しずつこぼれていってしまう。

 

原爆ドームを見て戦争の悲惨さを感じられる人は確実に減っていく。

 

 

平和の象徴として

観光地化しつつある原爆ドームであっても、原爆ドームを見て戦争を考えない人は少ない。

 

第二次世界大戦がどれだけ悲惨で人々を苦しめてきたかを本当の意味で理解することはできないが、少なくとも次に世界大戦が起こればこれ以上の被害が出ることは理解できる。

 

なかなか普段の生活の中で具体的に戦争をイメージし、考えることは少ない。

原爆ドームは見る人に戦争のリアリティを与え、考えるきっかけを作ってくれる。

 

 

原爆ドームの横には広く穏やかな川が流れ、周りの公園には緑色の木々が生い茂っている。

近くの端から原爆ドームを眺めると奥には建てている途中の大きな建築物が見え、広島という町が生きていることが分かる。

 

色を失ったままの原爆ドームはそんな中に鎮座し、訪れる人に一瞬だけ戦争の気配を感じさせてくれる。

 

80年間保存してきた色の無い建物を、私たちはいつまで残していくことができるのだろうか。

 

 

 

個別指導塾における雑談の4つの目的

 個別指導の塾では生徒と講師の距離が近いため、しばしば雑談が行われる。一見雑談と聞くとサボっているようなイメージを受けてしまうかもしれないがそうではない。

適切に行われる雑談は授業をより豊かにし、巡り巡って生徒の学力上昇にも役立つ。

 

 適切に行われる雑談はどういったことを目的として行われるのか、4つの面からまとめてみた。

 

 

信頼関係を構築する

宗教改革期の人文主義者エラスムスは、教育が成り立つための重要なポイントとは教師が生徒に好かれることだと主張している。

子どもはまず教師を好きになり、次にその教師が教える教科を好きになり、そして最終的に学問自体を好きになる。

 

今まで嫌いだった教科が、先生が変わったことで好きな教科に変わったというのはよく聞く話である。特に男子に比べ女子にはこの傾向が強い印象がある。

 

 

 《大事なのは話を聞いてもらうこと》

指導していくうえで重要なのは生徒に話を聞いてもらうということである。

 

個別指導では教えた後のフィードバックが重要になってくる。このフィードバックがうまく機能するかどうかは、生徒とコミュニケーションがうまく取れているかにかかっている。

コミュニケーションは決して一方通行になってはならない。こちらが投げたボールをしっかり投げ返してもらわないことには指導は成り立たない。

 

しかし飼い犬と違って人間相手にボールを投げて取ってこいというのは通用しない。舐められたと感じれば二度と心の扉は開かなくなる。生徒はお客様である。

 

 

《まずは生徒の話を聞く》

生徒に限らず、だれかに話を聞いてもらいたいならばするべきことはまず話を聞くことである。生徒に話を聞く義務などない。人間話を聞いてくれない人の話など聞こうとは思えない。

話を聞いてもらうためには、まずはこちらから生徒の話に耳を傾けなくてはならない。

 

内容の大小は関係ない。

生徒の話は一見重要性が低く、それは今じゃないといけないのかと感じるものも多い。

しかしこれは講師側の勝手なレッテル張りに過ぎず、生徒からすればその時聞いてもらいたいことなのだからそれをくだらないものと一蹴されれば不快感を覚える。

 

一度この先生は話を聞いてくれない先生なのだと感じられてしまえば信頼関係はたちまち崩壊し、これを再築するのは大変困難な仕事になる。

 

たとえ些細な話であっても、生徒にとっては(意識しているかどうかは別として)重要なことである場合もあり、誰かに聞いてもらえるだけで何か一つ楽になる場合もある。

そうであるならばちょっとした話であっても聞くことは一概にコスパが悪いとは言えない。

 

状況によっては授業を進めなくてはいけないときもある。

そういう時は、「続きは一度後で聞くから一旦こっち進めようか」などと誘導し授業に集中してもらう必要がある。

ただこの方法を使う時に絶対に破ってはいけないのは、後で聞くと言った以上後でしっかり聞くことである。どこかタイミングを見つけて「そういえばさっき言ってた○○ってどうだったの??」と声をかけて聞く。

こちらからしっかり聞くことで相手はちゃんと自分の話を聞いて覚えていてくれたと感じ、好感度にもつながる。前に聞いた話を再度広げる手法は普段から有効である。

 

 

生徒の性格を知る

個別指導の醍醐味は一人一人にあった指導ができることである。そのためには当然ながら生徒の性格を知ることは不可欠である。

 

中には人懐っこくすぐに自己開示してくる生徒もいるが、多くはそうではない。生徒と講師という立場上完全なる対等ではないため、どうしてもどこか足元の高さに違いが出てしまう。特に学年が上がるにつれこの傾向は強くなる。

 

雑談からは生徒に関する多くの情報を得られる。入っている部活動や好きな教科、よく聞く音楽や他の習い事なんかは生徒を知る上で重要な手掛かりになる。

共通点が見つかれば親近感を持ってくれるいいきっかけになるし、意外な一面(おとなしそうに見える子が意外とアクティブなど)に気づけるかもしれない。

プライバシーに十分注意したうえで生徒との距離を縮めていきたい。

 

 

眠気覚まし

生徒の体調はまちまちで、たとえ普段やる気のある生徒でも疲れていたり食事のあとの授業だったりすると睡魔に襲われることがある。

 

こういったとき生徒にいくら起きろと言ったり、多少身体を揺さぶる程度ではほぼ無意味である。本人が起きなくてはならない状況だと理解していても、生理現象に抗うのは厳しいものがある。

 

本当に限界そうなときには一旦数分間寝かせてしまい覚醒するのを待つのも一つの手である。

ただ、眠そうではあるが一瞬で深い眠りに落ちるほどではないときには寝かせようとするのはかえって逆効果である。

 

こういった舟をこぎ出す前の段階においては、生徒に話しかけてあげるのが有効である。

 

 

論理的に話す力をつける

低学年の生徒のなかにはまだ会話力が不十分な子もいる。

そのような生徒には積極的に会話をすることによって日本語の底上げにつながる。

 

具体的には生徒が話してきた内容を掘り下げるように質問していく。「休みに○○を見てきた」と言われればそこまでどうやって行ったのか、どんなところがどうしてよかったかなどを聞いていく。

この様に話を進めることで生徒は考えながら話すようになり、日本語力の向上に役立つ。