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【本の紹介】伊神満『「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明』【要約と感想】

オススメ度:☆☆☆☆

 

シュンペーターによって提案された

イノベーション(破壊的創造)。

新しく生み出された製品や技術が旧製品や旧技術を破壊し、乗り越えることで社会が更新されていく。

こういった歴史的パターンを経済学では「イノベーション」と呼んでいる。

 

世代交代の波は絶えず運動を続けている。

新技術が市場の勝者となる一方で、旧世代の勝者は没落していく。かつての勝者が敗者側に回っていく。

 

一度は栄光を手にした企業がどうして敗者として市場から退場していくことになるのだろうか。

 

クレイトン・クリステンセンはこのなぜの挑んだ経済学者の一人で、1997年に発行された彼の著書『イノベーターのジレンマ』はベストセラーになっている。

『イノベーターのジレンマ』では派遣の移り変わりの激しいハードディスクを対象に調査を行い、組織的・心理的バイアスの存在を明らかにしている。

端的に言えば、イノベーションの中で勝者が敗者に回る理由を、経営陣がバカだから失敗したと主張している。

 

この本では、この主張を懐疑的視点を持って考察し、"ジレンマ"の要因について科学的に解明することを目的としている。

 

以下にこの本の要約と感想をまとめた。

 

要約

イノベーションは新参企業が既存企業を乗り越えることで繰り返されていく。

この時新旧の企業の行動はは「共食い」「抜け駆け」「能力格差」という三つの要素が互いにインセンティブ・ディスインセンティブとなっている。

 

またこれらの要素を正確に理解していくには、経済学の道具である実証分析がかかせない。

この本の中では3つの有力な実証分析方法を紹介し、そのうち2つを使って各々の要素をはかっていく。

 

 

「共食い」

既存企業にが新商品を投入する場合、すでに展開している商品と「共食い」を起こしてしまう。したがって、既存企業はプロダクト・イノベーションを消極的になる傾向にある。

 

「抜け駆け」
独占企業にとって新参企業の参入は利潤を大きく減らす要因になるので、「抜け駆け」がインセンティブとして大きく作用する。

 

「能力格差」
既存企業は資本の蓄積がある一方で、保守化する傾向にあり、新参企業との「能力格差」は実証してみなければ分からない。

 

 

「実証分析」
経済学において、実証分析の方法は主に3つある。

一つ目は狭義のデータ分析で、回帰分析を用いてデータ間の相関関係を調べる。ただし、あくまで調べられるのは相関関係であって、見かけの因果関係は実際には私たちの頭の中にしかない。


二つ目は対照実験である。対照実験は研究対象が「小規模」「多数」「独立」である時有効であるが、今回のようにマクロ的な時には相性が悪い。


三つ目はシミュレーションである。モデルをコンピュータを用いて計算することで、擬似的な結果を得ることができる。実際に実験するのが難しい場合に有効。

 

 

実際に分析してみる
「共喰い」度合いを知るために、注意深い回帰分析によって新旧製品間の需要の弾力性を測定した。その結果弾力性は2.3となり、相当の代替性があることが判明した。

 

次に「抜け駆け」がどれだけ既存企業をイノベーションに駆り立てるかを考える。
利潤関数を求めることにより「抜け駆け」のインセンティブが大きいことは分かったが、実際にはイノベーションしないまま消えていった企業も多い。

 

最後に、イノベーション・コストを計ることで新旧企業の能力格差を計測する。
既存企業と新参企業のイノベーション・コストをそれぞれ調べると、既存企業のコストの方が小さい。すなわち、既存企業の方がイノベーションの能力が高い。

 

 

反実仮想シミュレーション

ここからが産業組織論の醍醐味である。
「共喰い」や「抜け駆け」が存在しない場合について反実仮想シミュレーションを用いて基本モデルと比較した。

比較の結果、「抜け駆け」のインセンティブがない場合に既存企業の遅れが顕著になるのがもちろんのこと、「共食い」が存在しない場合においても新参企業との差が埋まらないことがわかった。

すなわち、既存企業が遅れをとる原因は「共喰い」意外にも存在する。

能力で新参企業を上回っている以上、既存企業が新参企業にイノベーションで遅れを取るのは意欲の差であることが分かった。

 


既存企業の失敗の原因が「共食い」のディスインセンティブに基づく意欲の欠如であることが分かった以上、この問題を解決するには既存企業がためらわず損切りを行い、新事業を成功させていかなくてはならない。

 

結論
政策がイノベーションに与える影響についても調べたが、期待はできないことがわかった。

すなわち、放任された創造的破壊によって、確実にIT産業は発展を遂げてきた。

これは社会にとって望ましいことであるといえる。

 

感想

ビジネス本というよりは、経済学の面白さを前面に出した本。

 

経済学初心者、あるいは全く触れたことのないというひとでも理解できるレベルで解説してある。

一方で経済学中級者以上が退屈しないように随所に一歩踏み込んだ解説がコラム的にまとめられており、読み手のレベルを問わない本となっている

 

初学者でも分かるということで内容が薄っぺらいということは一切なく、本筋は筆者の専門である産業組織論のスキルがいかんなく発揮されている。

 

結果はシンプルで当たり前のようにも思えることだが、この本ではその当たり前の結論を出すまでに緻密な科学的考察を繰り返しており、これぞ経済学の面白みという感じ。

 

経済学に興味がある人には是非オススメ。

特に産業組織論に興味があるが、実際どんなことをしているかイメージがわかないという経済学部2年生あたりには是非呼んでほしい。

 

 

【勉強法】"マジでやばい時"に勉強のやる気を出すコツ

勉強において最大の難関は、勉強にとりかかるということではないでしょうか。

 

試験前だから、検定の前だからと、とりあえずテキストを買ってきたりノートを準備してしてみたりしたものの一向に手につかない。

 

勉強を始められる一歩直前までは用意ができるのにいざ始めてみるとスマホをいじってしまったり、何年も読んでいなかった漫画が急に面白そうに見えたり。

 

何時になったら始めよよう、動画を見たらやろう、お腹が空いたから何か食べてからにしよう。

 

とにかくとりかかれない。

 

気分が乗っているならまだしも、普段はほとんどの人がこんな調子だと思います。

別にめちゃくちゃやりたくない訳ではないけれど、なんか手がつかない。 

 

やらない自分を責める必要はありません。

だいたいみんなそんなものです。

 

でも少しのコツでとりかかるくらいのやる気なら起こすこともできます。

 

今回は私が試して実際に効果のあった勉強法を紹介したいと思います。

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ちょっと贅沢な飲み物を買う

最初のコツはちょっと贅沢な自分の好きな飲み物を飲みながら始めるということです。

ポイントとしては、自分のお金で買うことです

 

これはサンクコスト効果(コンコルド効果)を狙って行います。

サンクコスト効果とは、簡単いえば損した分を取り戻そうとする心理状態のことです。

 

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例えば、

UFOキャッチャーで入れた分のお金を取り戻すため、取れるまでお金をつぎ込んでしまう。

ソーシャルゲームで課金したがゆえにさらに沼にはまってしまう。

このような状態はサンクコスト効果に陥っているといえます。

 

普段は嫌なことに使われるこの効果ですが、逆に勉強に利用してやるという手もあります。

 

まずちょっと贅沢な飲み物を自分のお金で買いましょう。

するとせっかく勉強のために貴重な小遣いはたいて買ったんだかや、勉強しなければもったいないという気持ちになります。

 

さらに自分の好きな飲み物を飲むことで少し気分も上がります。

 

私はモンスターや(コンビニの)スタバの飲み物をよく飲んでいました。カフェインは記憶力を強化する役割があるらしいので、コーヒーやエナジードリンクがおすすめです。

 

人間は損に対する意識が非常に高いので、このやり方はとても有効だと思います。

ただ、勉強しないまま飲み干してしまうととんでもない自己嫌悪感に苛まれるので注意。

 

音楽を聴く

基本的に勉強しながら他のことをすると大幅に集中力が落ちます。

 

音楽を聴くのもあまりオススメではありませんが、"勉強しながら"聞くのではなく、

"勉強するために"聞くのは私はアリだと思います。

 

「パブロフの犬」をご存知ですか。

 

パブロフの犬とはロシアで行われた条件反射の実験で、

①犬にメトロノームを聞かせる

②犬にエサを与える(犬はヨダレを出す)

を繰り返していると、犬はメトロノームの音を聞かせるだけでヨダレを出すようになるというものです。

 

私たちが梅干しを見てヨダレが出たりするのも条件反射です。

 

条件反射とは、ある一定の条件において身体のスイッチを入れるということです。

  

これを勉強にも応用します。

すなわち、勉強のやる気のスイッチを自分で作ってしまえばよいのです。

 

勉強前に毎回同じ音楽をかけてから勉強に入ります。これを繰り返していくうちに、その音楽を聞くだけで勉強するスイッチが入るようになります。

 

これは飲み物でも応用可能で、勉強に入る前毎回同じものを飲むことでスイッチを作れるようになります。

 

ただ、やはり勉強中に音楽を聞くのは集中力を下げる原因になるので、無限ループしたりずっと聞くのは控えましょう。

 

どうしてもイヤホンをしていないと集中できないという場合は言葉の入っていない音楽がおススメです。

またモーツァルトの旋律には頭をよくする効果があるとも言われています。

 

散歩をする・場所を変える

家に引きこもっているとどうしても気持ちも塞ぎがちになってしまいます。

 

もうノートも広げて勉強する準備はできてるんだけど、あとは気持ちだけなんだという場合には、これから外に出るのはもったいないように思われますが、経験上思い切って外に出た方が勉強が捗ります。

 

家にいて何もしないまま1時間過ごすなら、30分使って外に出てしまった方が合理的です。

 

散歩だけでも十分効果がありますが、気持ちがどうしてもどうしても勉強に向かないという場合にはどこかカフェか図書館かに行ってしまうのが良いです。

 

またここでもサンクコスト効果を応用することができます。

あえて交通費を払い遠くに行くことで、元を取るまで絶対に帰らないぞという気持ちにさせるのです。

 

とにかくまずやる

やる気の出ない最大の原因は、やっていないならです。

 

人間はやることで、やる気が出ます。

とは言え、それが出来ないわけです。

 

そこでとりあえず10分だけ騙されたと思ってやってみるのです。

もうその日の勉強この10分だけでも終わりにしていいという気持ちで、とにかく10分だけやってみるのです。

 

それでダメなら、外に出ましょう。

 

逆にやらない

ついに本当のギリギリまで手をつけることができなかったという場合もあります。

 

状況は深刻ですが、心理学的にはアドバンテージと見ることもできます。

 

人間普段からフルパワーで動けるようにはできていません。

普段からフルパワーで動けてしまったら私達はきっと壊れてしまうでしょう。

 

そのために私達の能力には通常は枷がはめられているような状況にあります。

 

アスリートでもない限りこの枷は自分の意思で外すのは難しいですが、誰でも簡単にこの枷を外す方法があります。

 

この枷は緊急事態の時には外れるようにできています。

火事場の馬鹿力とはこの枷が正常なタイミングで外れたことを意味します。

 

勉強が嫌だろうと緊急事態であれば勉強します。 

 

外す方法は簡単です。

本当にヤバイと感じるまでやらなければいいのです。

心の何処かにやらなければマズイと少しでも思っていればいつか本当にヤバイと感じるタイミングが来ます。その時まで勉強しなければいいのです。

 

ここで中途半端に勉強してしまっているとこの効果は得られません。

本当にヤバイと思うまで放置してしまいましょう。

 

皆さんも経験したことがあると思いますが、枷が外れて本気を出した時の集中力はすごいです。

私も以前、10時間かけて前半の半分しか終わらなかった暗記が、直前になって後半をやったところ20分で丸暗記できました。

 

人間の本気の集中力とはなかなか侮れないものです。

 

とはいえ直前になって開き直るパターンも考えられるので、あまりオススメはできません。

【画家の紹介】アルフォンス・ミュシャ

 淡い色使いと美しい線。

その幻想的なポスターに誰もが息を飲みます。

 

ミュシャの作品は現在でもファンが非常に多く、

イラストレーターや漫画家にも多大な影響を与えてきました。

 

今回そんなミュシャの作品を見ることができる展覧会が渋谷のBunkamuraで開かれています!(2019.7.13~9.29)

また富山の高岡市美術館でも開館25周年を記念して、同じくミュシャの作品を鑑賞することができる展覧会が開催されています!(2019.7.13~9.1)

 

ミュシャ展開催を記念して、展覧会を見に行く前に、ミュシャとは?という疑問から作品の特徴までを簡単に予習ができるミュシャのまとめをつくりました。

 

 

ミュシャ展[2019]の概要

《みんなのミュシャ》

【展覧会名】みんなのミュシャ ミュシャからマンガ-線の魔術

【開催期間】2019.7.13(土)~2019.9.29(日)

      [休館日]  2019.7.16(火), 7.30(火), 9.10(火)

【開館時間】10:00-18:00(入館は17:30まで)
        毎週金・土曜日は21:00まで(入館は20:30まで)

 

【場所】渋谷 Bunkamura ザ・ミュージアム

【主催】Bunkamura、ミュシャ財団、日本テレビ放送網、BS日テレ、読売新聞社

【お問い合わせ】ハローダイヤル 03-5777-8600

【入館料】 一般:1600円(当日) 1400円(前売り・団体)

     大学生・高校生: 1000円(当日) 800円(前売り・団体)

          中学生・小学生:  700円(当日) 500円(前売り・団体)

【公式HP】 

https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/19_mucha/

 

《夢のアール・ヌーヴォー》

【展覧会名】夢のアール・ヌーヴォー アルフォンス・ミュシャ展

【開催期間】2019.7.13(土)~2019.9.1(日)

      [休館日]  月曜日

【場所】高岡市美術館

 

【入館料】 一般:1200円(当日)、900円(前売り・団体・シニア)

    大学生・高校生: 500円(当日)・400円(団体)

         中学生・小学生:  300円(当日)・240円(団体)

     親子券 1100円  *大人1名と小中学生2名までのセット券

【公式HP】https://www.e-tam.info/tenji-k_2019.html#mucha

 

ミュシャとは

 アルフォンス・マリア・ミュシャは1860年、チェコ東部(当時はオーストリア帝国)ののどかな町で生まれました。

 

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モラヴィアの風景

 

彼は子供のころから絵が好きで、また得意ともしていました。

一方で他の子どもたちと同じようにヴァイオリンを習い、協会の聖歌隊に入り一時期は音楽家を目指したこともありましたが、15歳の時に声の不調に悩まされこの夢は諦めることとなります。

 

心霊術にも興味を持ち、友人たちと一緒に死者との対話を試みることもありました。

死者との対話は「思考と夢」というノートに記録され、ゲーテらとの対話が残されています。

 

19歳の時、ミュシャは首都・ウィーンに出ます。

彼の出た当時のウィーンはヨーロッパを代表する美術様式が一堂に復活し、最後の栄華を楽しんでいました。

ヨーロッパ中の富が流れ込んでいた当時のウィーン路地には貴族の白馬が通り、オペラや音楽会が人々を毎夜楽しませていました。

 

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一方で荒廃前夜のウィーンは煌びやか芸術とは対照的にどこかノスタルジックな香りが漂う、白昼夢のような街だったのです。

 

ミュシャはウィーンの舞台装置工房でしばらく働いたあと、カール伯爵の別荘の装飾を引き受け認められ、援助してもらえるようになります。

カール伯爵の援助のおかげでミュシャはパリの学校で学ぶことができましたが、その後伯爵が破産。そして自殺してしまいました。

 

パトロンを失ったミュシャは出版社に挿絵を送り生活するようになります。

 

34歳になりイラストレーターとして働いていたミュシャはその年の12月、クリスマス休暇をとった友人に変わって印刷所で働いていました。

 

12月26日、彼の働いていた印刷所のもとにルネサンス座(パリの大劇場)から一本の電話が入りました。

女優サラ・ベルナール主演の劇「ジスモンダ」の再演が急遽決まり、1月1日までに大至急ポスターをつくらなければならないというのです。

 

その時印刷所にいたイラストレーターはミュシャ一人であったため、デザインはミュシャが担当しました。

 

この時ミュシャがデザインしたのが、彼の名をパリ中に知らしめることになる傑作「ジスモンダ」です 。

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ミュシャ「ジスモンダ」1894年

 

その出来栄えのすばらしさに女優サラは感動し、6年間の独占契約を結びました。

この作品を期にミュシャはポスター界、そしてアール・ヌーヴォーの旗振り役をしての地位を確立します。

またサラも「ジスモンダ」をきっかけにスターへの道を駆け上がり、ついにはヴィクトル・ユゴーに「黄金の声」と言わせしめるまでになり、ベル・エポック(フランスの最盛期を表す)を代表する大女優となりました。

 

ミュシャはその後もサラのポスターを手掛けるとともに、シャンパンのポスターや日用品のデザインを手掛けるなど、アール・ヌーヴォーを代表する画家として活躍しました。

 

作品の特徴

ミュシャは当時の主要な美術運動である、《アール・ヌーヴォー》を代表する画家です。

アール・ヌーヴォーはフランス語のArt nouveauからきており

英語でいうところのNew Art(直訳:新芸術)にあたります。

 

アール・ヌーヴォーはパリ発祥の美術運動ですがその影響はヨーロッパの広域にわたり、ドイツ・オーストリアではユーゲント・シュティール(直訳:若き様式)と呼ばれクリムトらがその中心的役割を担いました。

 

アール・ヌーヴォーの特徴は花や植物といったモチーフを作品にとりいれていることです。

鉄やガラスといった当時の新素材を用いることもあり、この運動は絵画に留まらず建築や工芸品にも影響を与えました。

 

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クリムト「生命の樹」1905-1909年

 

 

またミュシャの作品には、彼の思春期における影響も見て取れます。

幼いころから触れてきた民族的な音楽は絵画に模様として再現され、彼の傾倒した霊的な部分は神秘性として作品に表れています。 

 

 

ミュシャの作品の幻想的な雰囲気はアール・ヌーヴォーと彼の音楽的資質と霊的感覚が融合して生まれたものでした。

絵画にとどまらない彼の美しいデザインを是非楽しんでみてください。

 

 

www.artbook2020.com

 

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【本の紹介】瀬川松子『中学受験の失敗学』【要約と感想】

オススメ度 : ☆☆☆☆

 

年々過熱していく中学受験市場。

たくさんのサクセスストーリーが生まれる裏側では、その何倍もの屍が横たわっている。

 

筆者は10年以上の経験を持つ家庭教師。子供と親との間という一番近くで中学受験を見つめる筆者は中学受験に対する疑問を持ち、また暴走する親たちに警鐘を鳴らす。

 

この本のあらすじ

この本は

第1章 止まらないツカレ親の暴走 驚愕エピソード集

第2章 ツカレ親を分析する

第3章 対策編 志望校全滅を避けるために

の3部構成になっている。

 

第1章では筆者が実際に遭遇したトンデモ家族が紹介されている。

どれもこれも読んでいてブン殴りたくなる一家ばかりで、家庭教師と振り回される家族の気苦労がよくわかる。

 

第2章は学校のモンスターペアレントの中学受験版である、ツカレ親の特徴についてみていく。

ツカレ親については後で解説する。

我が子を思う気持ちと世間体と勘違いが合わさったツカレ親はどこまでも暴走し、家族を引きずり回す。

 

最後の章では当事者である子供がバッドエンドを迎えないために、現実的な対策を提案している。

しかし勝手にヒートアップしている親に対して何を言っても焼け石に水であり、家族を救うことができなかったという筆者の気苦労も感じられる。

 

ツカレ親とは??

《ツカレ親の定義》

要領のいい子どもがいる一方で、世の中には思うように勉強が進まない子どもが大勢いる。

不幸なことに、一部の親の中にはこのことが理解できておらず、やればやった分だけ成績が上がると勘違いしている親がいる。

 

筆者はこのような親をツカレ親と呼び、以下とおりに定義している。

 

「子どもの学力に見合わない志望校を掲げ、塾や家庭教師に費やした時間が勉強した時間だという勘違いのもと、どこまでも暴走を続けてしまう親」

 

塾や家庭教師のもとに子どもをやれば成績が上がると信じている親は、本当に必要かわからない苦労まで子どもに負わせることになる。

 

十分に復習する時間も与えられないままインプットを強要される子どもの頭はパンクし、むしろ成績上昇の妨げることさえある。

 

 

⦅ツカレ親の種類⦆

ツカレ親と一口に言っても、親の学歴や裕福度でその性格はまちまちである。

 

筆者はその中でも強烈な3種類のツカレ親について分析している。

 

・庶民系ツカレ親

庶民系ツカレ親は子供に自分よりいい学歴を得てもらい、フリーターやニートになってもらわないために中学受験を考えている。

しかし自分自身は教養が薄い上、受験自体に対する興味は低いため塾に丸投げしようとする傾向がある。

 

ツカレ親ポイントとしては、中途半端にしか知識や関心がないために現実を適切に把握できておらず、無理な受験校でも楽観して特攻してしまう傾向にある。その結果、受験校全滅という悲劇も。

 

・セレブ系ツカレ親

セレブ系親の特徴は、学歴や社会的地位が比較的高く、自らを「勝ち組」であると自負していることだ。

それにより子供を高い学歴を得させようとする庶民系とは対照的に、セレブ系では子供が「負け組」になることを過剰に危惧する。

世間体の現状維持のために名門中学へ子どもを入れようと、小さいうちから英才教育を施そうとする。

 

子どもの成績が思うように上がらないとき、とりあえず塾の量を増やせば解決できると考え、ずぶずぶと塾や家庭教師に依存するようになっていってしまう。

 

・エリート系ツカレ父親

またセレブ系ツカレ親に顕著な例として、エリート系ツカレ親父の存在があげられる。

挫折を知らない彼らは、思うように学力をつけられない子供を理解することができず、それどころか自分の子供だからできて当たり前とプレッシャーをかける。

自分で稼ぎ、話し合いの面でも論理的で押しが強いため暴走すると母親よりタチが悪いのがこのエリート親父である。

 

感想

東京で塾講師をやるようになり、地方と都会で私立に対するモチベーションにズレがあることは理解していたが、その裏でこのようなツカレ親が生まれていたことには驚いた。

 

紹介されているツカレ親のエピソードはどれもこれも想像を絶するものばかりで、あまりの酷さにたびたび笑ってしまった。

 

まだ幼い小学生に中学受験をさせるには親の役割が重要なポイントであることは間違いないが、

あくまで受験するのは子どもであり、

子どもが主体でなくてはならない。

 

親や周りの大人が子どもの判断力をどこまで認めるかは分からないが、

それでも受験し、

中高一貫校に6年通い、

大学に進むのは

紛れもなく子ども本人なのである。

子どもの人生においては、子どもが常に主体でなくてはならない。

親に引きずられて傷だらけになりながら受験したってなんの意味があるだろうか。

 

ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』でも周りの大人に期待されるがままに自我を殺し勉強し、入学した学校で壊れていく少年が描かれている。

 

受験する子どもにとっても親は大変頼りになるありがたい存在である。

しかしその親が子どもに対し最大限の関心を払い協力してくれるのでなければ、親の存在なんてものはありがた迷惑の塊でしかないのだ。

 

 

押し付けられた責任感に意味などない

責任感という言葉を聞いてどんな印象を持つでしょうか。

 

責任感が強い人は立派な感じがして、

逆に責任感の弱い人はどこか頼りない印象を受けます。

 

小学校の時の通信簿を見ると、責任感があるかという欄があり、強い責任感を持っていることが良しとされているのがわかります。

 

社会に出ると、社会人としての責任感を持て、無責任だ、と

責任感があることが当たり前に強要されるようになってきます。

 

それどころか、責任感を持っていることこそが社会人としての最低ラインであり、責任感のない人は社会から退場させられることになります。

 

これだけ責任感が当たり前のように課せられている世の中では、人々は責任感を持たされることに疑問を感じなくなってきています。

その中で、責任感に押しつぶされ消耗してしまう人々も多く出てきています。

 

私たちはこのまま責任感を持ち続けてもいいのでしょうか。

 

そもそも責任感とは何か

《求められるのは責任》

そもそも責任感とは何なのでしょうか。

 

責任責任感の違いから考えてみます。

 

 

まず責任はどんな場面で発生するでしょうか。

 

例えば、あなたが何か買い物をしたとします。

この時、売り手は製品に対して責任を負わなくてはなりません。

具体的には、もし不良品が消費者の手元にいってしまった場合に返金するなり正常な品と交換するといった補償をしなくてはなりません。

 

これを売り手か責任制といい、消費者保護に役立てられきています。

 

この場合の責任は、責任感ではなく責任です。

 

 

もしあなたが掃除機を買ったとして、その掃除機が最初からうんともすんとも言わないのでメーカーに問い合わせるとします。

 

この時、メーカーの人が責任感のある人であるかどうかは重要なことでしょうか。

 

たしかに、対応が誠実であったり丁寧であることは好印象を与えて、企業のイメージにもつながります。

 

しかし対応が誠実であるとか丁寧であるとかということは、責任感の所与するところではありません。

極論責任感なんてなくても長年の経験とビジネススマイルさえあれば、表面的なものなどいくらでも再現することができます。

 

私たちは責任さえしっかり負ってもらえれば、その内に責任感があるかないかなどどうでも良いのです。

 

責任感では何も補償することはできません。

 

企業に求められているのは責任であり、責任感ででは無いのです。

 

 

《責任感は個人的な問題》

では世間でさんざっぱら押し付けが横行している責任感とはどういったものなのでしょうか。

 

大前提として、責任感は人から負わされるものではない。

 

責任感とは、責任に"感じる"がくっついたものです。

満足と満足感と同じ関係にあります。

 

"感じる"がくっつくことによって、これらの言葉には違いが生まれます。

感じるとは完全に個人的なことであり、絶対的なものです。

 

例えばだれかが寒いと感じたならば、その場の他の人がどんなに暑いと主張しようともその人にとっては寒いのです。

周りの人間が「いや、それはおかしい。お前は間違っている。暑いに訂正しろ。」なんておかしなことを主張したとしても、まかり通るわけがありません。

 

責任感や満足感も個人が感じることである以上、周りからとやかく言うことはまったくもっておかしな話なのです。

 

 

責任を感じる場面について一つ例を挙げておきます。

 

ある女性が10ヶ月近い妊娠期間を無事乗り越え、赤ちゃんを出産し、我が子の顔を初めて見てその手に抱きかかえます。

圧倒的に無力な、希望に満ちた温かさをその手の中に感じながら「この子を何があっても絶対に守ろう」と心に誓います。

 

これは責任でしょうか。

赤ちゃんに押し付けられてこういう気持ちにこのような気持ちになったわけではありませんね。

この女性は自らの内側から溢れる責任を感じたのです。

これこそが責任感そのものなのです。

 

責任感とは、情緒豊かな人間が利他心を感じた時にその内側から溢れ出てくる特別なものなのです。

 

責任感で消耗してはいけない

社会では、人の責任感に干渉できると勘違い人がしばしば責任感の侵害をおかして悩みのタネになっています。

 

責任感が個人的である以上、他者がどうこうしようとすることはおこがましいことなのです。

 

寒いと感じる人に暖かいと感じさせるために部屋の温度を上げることはできても、その人に暖かいと感じさせられるかどうかはまったくの別問題です。

 

 

マネジメントの上手な上司は部下に責任感を与えるのが上手です。

京セラフィロソフィで知られる稲盛和夫は自著のなかで部下にいかに責任感を与えることが大切か繰り返し説いています。

 

一方で、人の上に立つ器量を持たない人が上司となってしまった人は悲惨です。

上司にあれこれと見当違いの手段でケツを叩かれ、ミミズ腫れを作りながら仕事をする羽目になります。

痛みから逃れるために仕事をし、上司は自分のやり方が正しかったと締め付けをきつくする。

まるで鞭打って奴隷を働かせてたからとなんら変わりません。

 

ここで人がいい人は欲しくも無い責任を感じるようになっていくのです。

自分の内から生まれたのでは無い、外的な責任感を背負い続けるのはストレス以外の何物でもありません。

 

一度背負った責任感は二度と軽くなることはなく、上司は載せられるだけ載せてやろうとあなたが潰れるまでいくらでも責任感を載せていきます。

 

重くのしかかった責任感にあなたの足腰は悲鳴をあげ、背骨は軋み、最後はとうとう歩けなくなってしまうのです。

 

他者の用意した責任感に潰されるなんて、そんな面白くないことがあるでしょうか。

 

 

載せてしまって責任感を下ろす方法が一つだけあります。

 

いい人をやめることです。

 

人から責任感を受け取るのをやめるのです。

責任感をやめたって仕事ができなくなるわけではありません。

 

責任感があろうとなかろうとプログラミングのスキルが落ちることもありませんし、運転が下手になるということは無いのです。

 

プログラミングがちゃんとできれば、安全に運転できればなにも問題はありません。

 

人から押し付けられた責任感で消耗してはいけません。

自分の人生を生きるのです。

 

 

もちろん責任感が仕事に人生にプラスに作用することは間違いありません。

 

大事なのはその責任感が内部から生まれたものなのか、誰かに押し付けられたものなのかということです。

 

もし自然に責任感が芽生えたならば、そんな素晴らしいことはありません。

 

芽生えた責任感を大切にするべきです。

責任を感じられることに全力を注ぐべきです。 

 

まとめ

*責任は社会契約の中で補償を担保するためのもの。

*責任感は利他心によって生まれる侵害されえない個人的なもの。

*責任感を人から押し付けられてはいけない、自分の内部で生まれた責任感を大切に愛でよ。

【本の紹介】えらいてんちょう『しょぼい起業で生きていく』

前回の冬に大学の近くの本屋で平積みされている「しょぼい起業で生きていく」を見つけました。筆者はえらいてんちょうさん。

 

不思議なタイトルと につられてついつい手を出しました。

そしてページをめくり、いきなり最初の部分で心を射抜かれました。

「朝起きて満員電車に乗って通勤するのが嫌だから就職せずに起業する」

そしてその考え方に共感できすぎてめちゃくちゃテンションあがりました。

 

なぜ嫌なことを昔から、周りがそうだからやらなくてはいけないのだろう。なぜ会社に勤めるのが当たり前みたいになっているのだろう。逃げるわけじゃなくて、他の選択肢として起業するのは選んではいけないのだろうか。大きなビジョンや高尚な理念がなければ起業してはいけないのだろうか。

常々モヤモヤと感じていました。

 

「しょぼい起業で生きていく」の中では、そういった現在の日本で生きにくいと感じている人に、資本主義のシステムの中にいながら今までとは違った生き方のヒントを与えてくれています。

 

この本で個人的にメモを取った4箇所についてまとめてみました。

 

 

生活の資本化

私たちは、生活していくためにお金を稼ぎ、その中から生活に必要なものを買い、またお金を稼ぐというサイクルの中に生きています。

 

稼ぐ→生活の順番は変わることがないので、生きていくためには一生この中で消耗し続けることになります。

 

「しょぼい起業で生きていく」では、これとは全く反対の生活→稼ぐという従来とは180度転回した発想で生きていきます。

 

生活で稼ぐとはどいうことでしょうか。

 

私たちは、生活を営んでいくなかで余剰を生み出したり、労働にあたる行動をしたりします。

具体的には、夕飯を自分たちで消費できる分より作りすぎたり、通勤で遠くまで移動したり、穴の空いた洋服を直したりします。

 

もし余った料理を人に売ってみたり、通勤のついでに人にものを届けたり、近所の人の服を直してみたらどうでしょうか。

これらは現在の料理人や運送、洋服リフォームとやっていることが同じなのです。

 

しかも元々は自分が必要な分にプラスαしているだけなので、コストも極めて小さくて済みます。

 

生活の資本化は原始的でありながら、極めて合理的な考え方なのです。

 

やりがいの三段階

 何年か前のドラマ「逃げ恥」ではガッキーがやりがい搾取を提起して一時期話題になりました。

やりがいという言葉を無理矢理押し付けて労働力を搾取する人間疎外に対する問題は、ブラック企業が蔓延する今の世の中ではなかなかセンシティブな話題です。

 

一方で、えらいてんちょうはこの本のなかで「やりがい」を質の違いから3つに分類し、正しいやりがい搾取と間違ったやりがい搾取があることを述べています。

 

まずやりがい搾取の第一段階は、友好関係を前提としたやりがいで他者が完全なる自由意志のもとでやりがい(得意なことややりたいこと)を提供してれる段階です。

イメージとしてはおせっかいな人でしょうか。仲人を率先して努めてくれたり、余った料理をいつも分けてくれるおとなりさんなんかがこれに当てはまります。

 

やりがい搾取の第二段階は、第一段階と同じように友好関係を前提とし、今度は依頼したことに対して応えてくれる関係です。

日曜大工が趣味の人に犬小屋をつくるのを頼んだり、着付けが得意な人が着付けを手伝ってくれたり、頭のいい人が勉強を教えてくれたりという場面です。

 

依頼してやってもらうわけですが、やってくれる本人はやったことにやりがいを感じて満足してくれるのでそこで対価が成り立っているわけです。

 

この本の中では、これらの2パターンのやりがい搾取を正しいやりがい搾取と定義しています。

 

一方で、友好関係もないままに得意だから、できそうだからという理由だけで無理矢理ものを頼んでやってもらおうという人がいます。

ツイッターなんかでもイラストをあげているひとに無料でイラストを描くように頼んだり、将来役に立つから、苦労は買ってでもするべきだから、という理由で仕事をおしつける人がいます。

これは間違ったやりがい搾取です。

 

正しいやりがい搾取で人を動かすためには、友好関係が大前提なのです。

 

起業家に必要なもの

この本の後半1/3はPha氏と借金玉氏との対談になっています。

 

借金玉氏との対談のなかで、二人が起業家に必要なものを話し合い、共感している場面があります。

起業家に最も必要なものとは無から信用をつくり出す技術だといいます。

 

出資者がお金を出すか決める基準は、面白そうであることと信用があるかということです。

例えどんなに素晴らしいアイデアであっても信用がないところには出資されません。何もない人が信用を生み出すためには実績をつくり出すしかないのです。

 

この話のなかで、借金玉氏がむかし草むしりを依頼した相手がおおものになったというエピソードが出てきます。

この人もきっと初めは信用がなかったに違いありません。草むしりから始まった信用を雪玉を大きくするように大切に育てた結果、今の地位までたどり着いたのです。

 

何もない人はまずは体を張って、小さなことからでも信頼を得ることがアントレプレナーとしての第一歩となるのです。

 

またこの対談では起業家に必要な他の素質についても言及しています。

それは転ぶ前提でやるということです。そして転んでも死なないことが重要です。

 

無から何か始めようという人がなにかやればまず転びます。

しかし転ぶことにびっくりしてはいけません。転んで当たり前なのです。

 

転んで死なないためには転ぶことをあらかじめ想定しメンタルを守ることと、一回転んだら死んでしまうほどの投資をしないことです。

小さい子を公園に連れて行くのに綺麗で高価な絶対に汚してはいけない服を着せてしまえばオチが見えてしまいます。

 

小さなことから、転ぶ前提で、とりあえずやることが無から抜け出せる手段なのです。

 

 

【宅浪】宅浪の孤独と不安とリアル《レンタル自習室秋冬編》

この記事は以前投稿したレンタル自習室での一浪目の記録の後半です。

前回の記事はこちらから↓

www.artbook2020.com

 

安定の秋

散々ハマって労力をつぎ込んできたポケモンGOも、日が落ちるのが早くなるとともに興味が薄れ、羽織るものが欲しくなるころにはすっかりアプリを開くこともなくなっていました。

 

勉強の方はといいますと、秋になり一年の勉強の目処が立ち始め、徐々にやる気を取り戻していきました。

 

気分が落ちて勉強ができないな、という時には積極的に同じく宅浪している友人に協力を仰ぎ、叱咤激励し合うよう努めました。

 

現役の時はほぼ捨てていたような古典も着実に実力が付き、模試でも安定して点が取れるようになるとメンタルの面でも安定して高い状態を保てることが多くなっていきました。

 

それでもなんもしたくないという日が無くなるわけではありません。

 

ある天気のいい日、その日は全く集中力が出ない日で、午前も机の前に座ったきりテキストを開けたら閉じたりを繰り返しているだけでした。

13時過ぎたころ、お腹が空いたので近くの牛丼屋で一番安い牛丼を小さくなった胃にかっこみ、その後は自習室のそばをフラフラと散歩していました。

たまたま今まで見かけなかった広めの公園を見つけ、所在なく公園で一番大きな木の下のベンチに座り、ボーっと人やアリの往来を眺めていました。

 

半分魂の抜けたまましばらくそこで休んでいると、遠くから元気な声が近づいてきます。

近所の小学生でした。ランドセルを背負った6人くらいの小学生の集団が、公園を横切り家に帰っているところでした。

 

穏やかな秋の日差しの下で、無邪気な小学生が楽しそうにじゃれ合っていました。

木陰で彼らが行き去るまで眺めていた私は、彼らの声が聞かなくなった後とてつもない自己喪失感に襲われました。

 

朝早く起きて、学校で勉強し友達と遊び充実した一日を送ってきた帰りの小学生達と、朝もダラダラと布団から出て、受験生にもかかわらず何もせずナンセンスな一日を終えようとしている自分とを無意識に比べてしまい、暗く悲しい気持ちになりました。

自分のなさけなさで胃の中は黒く、形のない重たいものでいっぱいになりました。全てブチまけて楽になれたれどんなに楽かと思いました。

 

そんな自分への失望の波を幾度と乗り越えながら、なんとか絶えることなく受験勉強は進めることができました。

 

孟母断機と自分に何度も何度も言い聞かせ、気づけばセンターもあと数ヶ月に迫っていました。

 

模試の冬

センターも1ヶ月に迫った12月に入ると、一旦二次対策は置いておき毎日センター対策に注力するようになります。

 

現役の時に勝った赤本があったので、一浪の時には新たな赤本は買わず、最新のセンター試験の問題がない状態で取り組みました。

 

年末年始は模試にも積極的に臨みました。

模試は自分の成績や立ち位置が分かるだけでなく、メンタルの側面でも有効なので、積極的に受けることもオススメします。

 

普段は自分の家の近所と自習室の周辺しか動き回りませんが、模試になるといつもとは違う駅でいつもとは違う風景を眺めながら歩くことができます。

自分が受験生としての責務をしっかりと果たせている気がして少し自尊心が回復します。

 

模試の会場は比較的大きな駅にあることが多いので、帰りに大きな本屋で参考書を立ち読みするのもいい気分転換になります。

自分がボロボロにした参考書が新品ピカピカで本棚に並んでいるのをみると、まるで後輩を見ているようで可愛ささえ感じられます。

 

それに模試では浪人生だけでなく、友達とワイワイガヤガヤと制服姿だ来ている現役生も多くいます。

そのような姿をみていると、彼らだけには負けたくない、負けるわけがない、という虚栄ではありますが一種の闘争心が芽生えます。

この闘争心が勉強にも良い影響を与えます。

 

ただ、この季節の模試では十分に気をつけなくてはならないことがあります。

それはバイオテロリストです。

 

彼らは体調が悪いのにも関わらずに、周りを道連れにするためにわざとマスクをしないまま咳やくしゃみを撒き散らします。

私も駿台の元日模試で遭遇し、めちゃくちゃ腹が立ちました。

大きな咳をするたびに、受験のストレスとともにバズーカで地の果てまで吹き飛ばしてやろうかと思いました。

 

当然ですが受験生になったらインフルエンザの予防注射と乾いた季節になってからはマスクをマストで着用するようにしましょう。

 

マスクをするようになって気づいたのですが、浪人中ただでさえ普段ヒゲを剃らなくなるのに、マスクをしてしまうと本当にヒゲを剃る習慣が失われてしまいます。

うっかりそのまま人に会ってしまうと引かれてしまうので、人と会うときは忘れずに剃るようにしましょう。

 

失望の本番

センターの会場は、現役の時は高校から近いところが選ばれるのでわざわざ1時間半くらいかけて会場の大学まで行きましたが、浪人の場合は自宅から近いところが選ばれるのでとても楽でした。

 

現役時代はセンターでも二次でも全く緊張することがありませんでした。

 

会場に着きいざ問題を解き始めてもまるで他人事のように思えて、テスト前も一生懸命ボロボロの赤本や英単語帳を食い入るように確認する周りの受験生を横目に、スマホでゲームしながら早くおわらないかなあなんて考えていました。

 

全然実力が足りないのにも関わらず、自分の運に自信を持ちすぎていて落ちるということを微塵も思っていませんでした。

 

生まれたこのかた試験に落ちるということがなかったので、落ちるというのは都市伝説かなにかだと思っていました。

自分に根拠のない自信がありすぎて歪んだ精神構造を生み出していたのです。

 

そんな私でもさすがに一度大学に弾かれればその感覚は深層心理に刻まれたようで、この時はトラウマになるようなことはありませんでしたが少なくも落ちるのがツチノコやネッシーとは違う類のものだということは理解するようになっていました。

 

落ちた記憶は静かに私の心を揺さぶり、人生の試験において初めて緊張というものを味わいました。

 

表面上はリラックスしているように取り繕っても、脳はピリピリと張り詰め、そこからすぐにでも逃げ出したい気持ちに苛まれました。

 

そんな時は深く息を吐き、周りを見渡すことでなんとかパニックなることはなく試験を乗り越えることができました。

 

センター試験の直後に襲ってくる最大の敵は開放感です。

センター試験では寒い冬の日に2日も暖房のゴウゴウとかかった部屋に幽閉されることになります。

2日間のテストの後、会場から出た時に感じられる開放感といったらなんとも言い表せないほど格別です。

テストの結果のいかんに関わらず、とにかくやり切った、自分の仕事は果たしたという感覚が猛烈に全身を支配してきます。

 

この感覚を味わった次の日に昨日までよく頑張ったから今日は休憩、なんて生ぬるいことをしてしまうと全て台無しです。

 

その日から勉強に戻るのがとてつもなく辛くなります。

 

センターが終わった開放感から、もう2次はどうでもいいや、とにかく自分のやることはやった。あとは余力でどうにかなるだろう。と、受験生としてのスイッチがプツリと切れてしまいます。

 

一応受験生としての体裁を保つためだけに赤本を机の上に並べ、パラパラと眺めてはなんとかなる気がしてパタリと閉じてしまう。

そんなもったいない日々が受験が終わるまで続くこととなります。

 

センターの後、自分の中に少しでも甘い心があるならば絶対に休んではいけないのです。

センターの次の日こそ涙を飲んで自己採点をし、たとえセンターがうまく行こうとも悪かろうともすぐに勉強に戻らなくてはいけないのです。

 

私はというと、そのころ自分が小学校の低学年の時に散々ハマってやっていたポケモンを棚の奥から引っ張り出していました。

 

センター前は甘い心に鎖をつないで無理しでも勉強していましたが、センターの後気の緩みが如実に現れました。

 

懐かしいな、少しだけ確認してみるか、から始まり。ポケモンの整理を始め、ネットで古いホームページから攻略情報を探し出し、新しいツイッターを開設し、ついには中古ゲーム屋をめぐりポケモンのカセットに散財するようにすらなっていました。

 

1日の大半をゲームにつぎ込み、私立の試験前だけ赤本を軽く解いて対策した気になっていました。

当然ながら滑り止めにならないラインの私立は次々と落ち、数少ない合格校も自分が絶対に行くわけないだろうと思っていた場所ばかりになりました。

 

それでも現実を直視せず、根拠のない自信にかまけてセンターの後の貴重な1ヶ月をドブに捨てました。

 

そのあとになって一緒に浪人している友達に喝を入れられ、本命の対策に熱を入れましたが、全ては後の祭りでした。

全て受験を終えて残ったのは、わずかな特待目当てで受けた地方の私立だけでした。

 

 

現役の時比べればセンターも2次も成績はたしかに伸びました。

浪人してよかったと聞かれれば、それは間違いなく正解だったと思います。

 

今までの人生の中でこれほど真剣に自分と向き合い、はっきりとした自己嫌悪に陥り、そこから再び立ち上がり、また悩むといったことはしたことはありませんでした。

これほど家族のありがたみを感じ、感謝したこともありませんでした。

自分の見たことない自分のある側面における底が見えたことは、自分にとって大きな発見であり、成長だったと思います。

 

しかし自分自身のこの一年の生活に対し後悔はないかと問われて、無いといえばうそになります。

 

私はこの年の受験がすべて終わったあと、再び受験すること、つまり2浪することを決意しました。

2浪ではまた1浪目とは違った自分自身の感じ方や周りの変化があったので、それについてはまた詳しく書いていきたいと思います。

 

少しでも孤独と不安に苦しむ宅浪生の参考になればと思いこの記事を書きました。

この記事を読んで、少しでも参考にするのでも反面教師にするのでも、受験にプラスの影響があるならば幸いです。

 

 

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